79. 魔獣のロード・ハザク
ルトレクが放った炎の旋風を払いのけた魔族の少女は、宙に浮かび上がると音もなく地上へと降り立った。
「少し遊んでやるつもりだったのに……。この我を怒らせるとは、命知らずめ。ここが貴様らの墓場だ!」
少女の身体から血のように赤いオーラが噴き上がった。それは凄まじい殺気を帯び、空気そのものを紅に染め上げていく。
そして、彼女の姿が、変わり始めた。
「我が名はハザク。真の姿を目にしたこと、すぐに後悔させてやろう。貴様らの血の一滴まで、すべて搾り尽くしてやる!」
魂を凍らせるような冷たい声が戦場を貫いた。だがそれは声だけではない――凶暴で巨大な〈殺意〉そのものだった。周囲の魔物たちが震え、呻き声を上げて崩れ落ちる。恐怖に飲まれ、命そのものが押し潰されていく。
人間の戦士たちも同様だった。膝が震え、握った武器が力を失い、眼の光が消えていく。今まで勇敢に戦っていた従士たちの心に、絶望と恐怖が蔓延した。
ジーフリートでさえ、それは生涯で初めて味わう「本能的な恐怖」だった。魂が警鐘を鳴らす――逃げろ、と。
魔法使いルトレクは圧倒的な威圧感に息を呑んだ。あれは、魔物のロード級などではない。
(まるで……魔王そのものだ。こんな存在に、勝てるのか?)
変身を終えた敵の姿は、悪夢のようだった。全身が粘つく暗赤色の血で覆われ、2メートルを超す巨体。山羊の頭を持ち、上半身は人間の女、下半身は獣――その禍々しい混ざりは、まさに〈魔〉の体現だった。
ハザクは地に伏した黒狼を見下ろし、静かに手を伸ばした。
「我が忠実なる眷属、愛しきフェジアフよ……再び我と共にあれ」
(蘇らせるつもりか!?)
ジーフリートたちは一斉に武器を構え、緊張が走った。
ハザクは狼の頭を掴み、ずるりと引き抜いた。脊椎が長く、白く、嫌な音を立てて引きずり出される。その骨を手に握り、まるで鞭のように振るうハザクの姿は、見る者の理性を蝕むほどの恐怖だった。
ジーフリートは込み上げる恐怖を必死に抑え、横目でクラインを見た。
少年は緊張に汗を滲ませながらも、目には一片の怯えもない。剣を握りしめ、魔族のロードを真っすぐに見据えていた。
「うああああっ!!」
クラインの咆哮が戦場を裂いた。その声に押し潰されていた戦士たちの意識が、一斉に蘇る。
(やはり……!)
ジーフリートはかすかに笑い、クラインの隣で駆け出した。
ハザクが片手を掲げた。
「地獄の恐怖よ! 破壊の混沌よ! 血を凍らせ、意志を折れ! 恐怖! 混乱! そして死を――!」
その背後に幾重もの魔法陣が浮かび上がる。圧倒的な魔力が奔流のように溢れ、戦士たちは次々と膝をついた。理性が崩れ、筋肉が硬直する――呪いの波動が全身を襲う。
「光の勇気! 自然の調和! 脈打つ命と不屈の意志よ!」
司祭戦士インボンが神聖語を高らかに唱えた。
「闇を払う暁の光よ、恐怖には勇気を、混乱には秩序を、死には生命を――!」
ルトレクは続けて仲間たちに防御と耐性の精神魔法を施す。
だがハザクは止まらない。片手に黒い炎を宿した魔弾を作り出し、もう片方の手では狼の脊椎を鞭のようにしならせた。その骨鞭は蛇のようにうねり、絡みつき、次の瞬間には槍のように鋭く突き出される。
「ぐっ……!」
バランの鎧が音を立てて貫かれた。骨の棘が肉に食い込み、血が噴き出す。
インボンが盾で受け止めながらバランを後方へ引きずり出し、迫る骨鞭を押し返した。
回復術師リシュラが素早く治療の光球を生成し、バランへ投げる。さらに負傷した従士のもとへ駆け寄った。
戦場は混沌そのものとなった。負傷者が増え、前線が崩れ始める。
その中で、ジーフリート、クライン、シラードの3人が最前線に立ち、ハザクと斬り結ぶ。
次の瞬間、狼の脊椎がシラードの脇腹を貫いた。
「シラード!」
クラインが叫び、咄嗟に骨鞭を弾き返した。
「下がってください!」
しかし、シラードは答えず、動かなかった。自分の命が尽きることを悟っていたのだ。
(無駄死にはしない……せめて、奴を討つ隙を――)
「シラード!」
リシュラの悲鳴にも振り向かず、彼は突進した。敵の背後――その一瞬の隙を突き、肩口に剣を突き立てる。
ハザクが剣を引き抜こうとしたが、シラードは腕を掴んで離さない。
「今だ!」
クラインが駆け込み、腹部に剣を突き立てた。直後にジーフリートの刃が背に、バランの斧が脚に叩き込まれる。全員が歯を食いしばり、渾身の力で押し込んだ。
インボンは骨鞭を剣で絡め取り、動きを封じる。
「ぐああああっ!!」
ハザクが絶叫した。その声は空を震わせ、地を割った。
その時――
「下がれっ!」
重々しい声が空気を震わせた。
ジーフリートたちはシラードを抱えて一斉に後退する。
空を覆っていた黒雲が裂け、円形に青空が覗いた。そこから、巨大な光の柱が一直線に降り注ぐ。
「こんなもの……っ!」
ハザクが必死に抗うが、光柱の圧力は容赦なく、その身体を地中へと押し潰していく。
地面が揺れ、悲鳴が響く。ついにハザクの姿が地の底へ沈んだ。光柱は次第に細い光糸へと変わり、穏やかに降り注いだ。
だが、終わりではなかった。
「貴様らァ……!」
地面を突き破り、ハザクの腕が突き出された。再び這い上がろうとした瞬間、光の柱が再び形成され、巨大な槌のように叩きつけられた。一度、二度、三度――轟音が続く。まるで天が怒りを下すかのように。
「ギィアアアアッ!!」
断末魔の咆哮を上げ、ハザクの身体は完全に消し飛んだ。
光柱は無数の光の粒となって戦場を包み込み、同時に空を覆っていた禍々しい黒雲も、音もなく、消え去った。




