72. ルカイアの願い
翌朝。少し遅い時刻にイステルの部屋を出たレオトの前で、ルカイアが待っていた。
何か言いたげな表情をしていたが、唇を引き結んで黙っている。皇宮では、皇帝の威厳を保つため、軽々しく話しかけてはならぬ決まりがあるからだ。
その日、午前の政務を終え、離宮へ戻るやいなや、ルカイアは我慢していたものが堰を切ったように口を開いた。すぐそばにカティルがいるのもお構いなしに、にやりと笑いながら言う。
「皇后陛下とは、うまくいったみたいですね。あたしの言ったとおりでしょ?」
レオトが思わず目を向けると、ルカイアは〈やっぱり〉という顔になった。
「顔がぱっと明るくなってますよ。すっごく幸せそう」
「わ、私が?」
動揺するレオトを見て、ルカイアは声を上げて笑った。
「ははっ、冗談ですよ。でも、ほんとにいい顔してる」
そう言うと、彼女はレオトに顔をぐっと近づけて、いたずらっぽく言った。
「正直に言ってください。これ、私のおかげでもあるでしょ?私と戦って『闘神の眼』が目覚めたじゃないですか」
「まあ……ルカイアと、もう一人の恩人のおかげとも言えるな」
レオトがそう言い終えるや否や、ルカイアは彼の目の前に手を差し出した。
意味が分からず見つめるレオトに、彼女は当然のように言った。
「ほら、賞をください」
呆気にとられたレオトが聞き返した。
「何が欲しい?」
ルカイアは、少し離れたところで難しい顔をしているカティルをちらりと見て、口を尖らせた。
「この〈おじさん〉のいないところで話したいんですけど……」
カティルの眉間にしわが寄る。
「〈おじさん〉ではありません。それに、もう少し口調を改めてください」
ルカイアは頬を膨らませた。
「またお説教だ……だから皇宮では黙ってるんですよ?」
二人のやり取りを見て、レオトは苦笑した。やはりこの二人、いつか衝突するのではと心配していたが、案の定だ。
「ルカイア。カティルのことは〈侍従長殿〉と呼ぶんだ。
まあいい、今回は大いに助けてもらったのは事実だ。褒美をやらねばな。……離宮の執務室へ行こう」
離宮の執務室に行ったレオトは、カティルを外に下がらせ、ルカイアと向かい合った。
「さて、ルカイア。欲しい褒美というのは?」
ルカイアは少し緊張したように唇を湿らせ、ぽつりと口を開いた。
「……私たち、友達になっちゃダメですか?」
「……何?」
思いもよらぬ言葉に、レオトは目を瞬いた。
財も名誉も地位も求めぬ彼女が、何を言い出すのかと思っていたが、まさか、これとは。
「正直に言うと、私、友達いないんです。子どもの頃はいたけど、物心ついたころには、いつの間にか皆離れていって……。
だから、似た者同士で気兼ねなく話せる友達がいたらいいなって……そう思ってたんです」
「 似た者同士って……どういう意味だ?」
「あ、身分とかの話じゃなくて。陛下も友達いないですよね? それに、私たち、どっちも戦うの得意だし……そういう共通点、あるじゃないですか」
「私はさておき、ルカイアが友達いないのは……性格のせいじゃないか?」
冗談めかして言うと、ルカイアは肩をすくめた。
「男の人は、私の背が高いのと、力が強いのがダメみたいで。女の人は……なぜか恋文を送ってきたり、妙にちやほやしてきたりするし」
その言葉に、レオトは彼女を改めて見つめた。
確かに、男性なら美形の青年にも見えなくはない。思わず笑いそうになるのを堪えていると、ルカイアが急かす。
「で? 返事は?」
レオトはふっと微笑んだ。率直で、気取らない。そんな彼女の性格は、むしろ心地よかった。
「いいだろう。私的な場では、友人として気安く接して構わん。だが、公の場では礼を忘れるなよ」
ルカイアは満足そうに笑い、すかさず言った。
「了解。ですは、つけなくていいよね?」
レオトは吹き出した。本当に愉快なヤツだ。
「ところで、さっき言ってた〈もう一人の恩人〉って誰?」
「ユステア妃だ。今からお礼を言いに行くところだ」
「ユステア様? あの、上品で頭の良さそうな美人? 自分も妃なのに? ……すごい人だね」
「そうだな。本当に……ユステアには大きな恩がある。
このことは当分、他の妃たちには内緒にしておいてくれ。マビナにも話さないでほしい。ユステアがどう思っているか分からないうちは、余計な噂にしたくない」
ルカイアは素直に頷いた。
「了解。見た目よりずっと考えてるんだね」
「本来の性格じゃないさ。皇帝として生きようとしたら、そうならざるを得なかっただけだ」
レオトが立ち上がりながら言うと、ルカイアが素早く呼び止めた。
「そうだ、これからは〈ルカ〉って呼んで。家族とか、特に仲のいい人はそう呼ぶだ」
「分かった。ルカも、二人きりのときは〈レオト〉と呼べ」
「えっ、本当に? いいの?」
ルカイアの目がまん丸になった。
「友達だろう? 名前くらい呼んでもいいさ」
レオトは微笑んで部屋を出た。
この世界で、自分を名前で呼ぶ者が一人くらいいても、悪くない。そう思った。
その日の終わり、ルカイアが下がったあとで、カティルがそっと尋ねてきた。
「……ルカイア殿が望んだ褒美とは、何だったのです?」
レオトがルカとの会話を話すと、カティルは呆れたように首を振った。
「まさかと思いましたが……ずいぶんと、とんでもないものを手に入れましたね」
「何がだ? 何も渡していないぞ?」
「陛下の〈友情〉です。それ以上の褒美がどこにありましょう」
「そういうものか?」
レオトは少し首を傾げ、それからふっと笑った。
「いや、それは考えすぎだろう。ルカはそんな深く考える性格じゃない」
カティルもつられて笑った。
「ええ、確かに。しかし……結果としては、そういうことになるのですから」




