65. 盲目
イステルの居所へ向かったレオトは、侍女が訪問を告げる間もなく扉を押し開け、中へ踏み入った。
寝所にいたイステルは怪訝そうに彼を見やった。
「こんな時刻に……どうなさいました?」
何も知らぬ顔で見つめる彼女の表情を見た瞬間、レオトは胸の奥で安堵を覚えた。
「いや、何でもない。ただ通りすがりに寄っただけだ。休むがよい」
そう言い残し立ち去ろうとしたとき、年配の侍女が慌てて駆け込んできて、レオトと鉢合わせた。深く頭を下げる彼女の肩は、小刻みに震えていた。
レオトはそれを悟りながらも知らぬ顔でその場を後にした。
やがて侍女はイステルに近寄り、震える声で囁いた。
「……一大事です。先ほど、ラルバン様が皇帝陛下を襲撃いたしました。失敗して逃走したようですが……。侍女の中のひとりが手を貸したらしく、ともに行方をくらませた」
イステルの顔色が見る間に蒼白となった。彼女の視線が床を走り、先ほどまでレオトが立っていた場所に小さな血の滴を見つけた。
「これからどうすれば……?」
侍女の声は震えていたが、イステルの態度は不思議なほど落ち着いていた。
「私たちにできることはないわ。……ケラだけでも逃げなさい」
「とんでもありません!」
ケラは首を横に振り、涙に濡れた瞳で毅然と告げた。
「姫様を置いて、どうして私だけが逃げられましょう。すべては私が企てたこと。姫様は何ひとつご存じなかった――それでよろしいですね?」
「ありがとう。でも……そこまでして生き延びたいとは思わないの。今はただ、皇帝がどう出るかを待つしかない」
イステルは静かにテーブルへ歩み寄り、腰を下ろした。
アイランが口にしていた「宮廷の外の同志たち」。
確かに、プレゼタ王家に忠誠を誓う者たちは、皇帝への復讐と王国再建を目指し、密かに動いていた。
今の皇帝には後継がなく、正統性を主張できる皇族もいない。もし皇帝が死ねば、帝国は継承を巡り大きな混乱に陥るだろう。国内外が揺らぐ今、内戦に至る可能性もあった。その混乱を好機と見て、彼らは王国の復興を夢見ていた。
だが、イステルはアイランの忠告を無視することはできなかった。そこに魔族の陰謀が絡んでいるかもしれないと、彼女は同志たちに真相を確かめるよう命じたのだ。
しかし、その命に反発する声が強まっていることも耳にしていた。復讐のみを唱える過激派は、イステルが皇宮での安逸に甘んじ、かつての志を忘れたとまで罵っていた。
今回の襲撃。それは明らかに、過激派がイステルを差し置いて、 彼女の安否を顧みることすらなく、実行したもの。すなわち、イステル自身が味方からも信を失い、切り捨てられつつある現実を示していた。
胸を引き裂くような孤独と虚しさがイステルを苛んだ。
そして脳裏に浮かぶのは、先ほど自分を見た皇帝の顔。不安げで、哀しみを宿しながら、それでも自分を見て安堵したような表情。床に残った小さな血の滴。
なぜ、あの男は襲撃の直後に、ただ一人でこの場所へ来たのか。
なぜ、襲撃が自分と無縁ではないと知りながら、何も言わずに立ち去ったのか。
答えは分かっている。それでも――その心を受け入れることだけは、どうしてもできなかった。
*** ***
レオトはまず書斎へ戻り、怪しい痕跡が残っていないか慎重に確認した後、侍従たちに散らかった本を片づけるよう命じた。
そして自らは離宮へ向かった。
大きな傷ではないが、どうあれ手の治療をしなければならない。
しかしこの事実をカティルに知られるわけにはいかなかった。
レオトが向かったのは、またもユステアの部屋だった。
侍女を下がらせたあと、彼は静かに口を開いた。
「傷に塗る薬のようなものはないか?」
事情を掴めないまま、ユステアは小首をかしげて答えた。
「……以前使っていたものがあるはずです」
彼女は部屋の奥から薬箱を取り出し、薬と包帯を差し出した。そしてレオトの左手に刻まれた裂傷を目にし、表情が一変した。
「陛下、これは……」
明らかに武器による傷跡だった。
レオトはなるべく平静な声で言った。
「書斎で襲われたが、追い払った。イステルは関わっていない」
その一言で、ユステアはすべてを悟った。
「このことを絶対にカティルに知らせてはならない。あいつに知られれば、命を懸けてでもイステルを排除しようとするだろう。
イステルを守ることも大切だが、カティルを失いたくはない。だから……」
ユステアは静かに頷いた。
「すまない。秘密を守ろうとして、真っ先に思い浮かんだのがそなただった」
ユステアは淡く微笑んだ。
「それだけで十分です。陛下が私を信じてくださっているということですから。……まずは消毒いたします」
彼女がそっと傷を拭き、薬を塗り、包帯を巻く。その手元を見ながら、レオトの胸には申し訳なさと、得体の知れぬ寂しさが込み上げた。
もし自分の心を思い通りに制御できるなら、イステルへのこの愚かな想いなど捨て去り、ただ同情だけを与えられるのに。
そうすれば、これ以上苦しむことも、叶わぬ希望に縋ることもなくなるはずだ。
かつて人を片想いしたことも、恋愛したこともあった。だが、このように理性を失い、盲目的な気持ちに呑まれるのは初めてだった。
ロミオとジュリエットのように、一瞬で心を奪われ命まで賭ける恋など信じていなかった。そんなものは一時の激情で、時が経てば炎のように消えるものだと思っていたのに……。
「自分がこんな愚か者になるとはな」
レオトは自嘲気味に呟いた。
治療を終えたユステアは、優しさと寂しさを混ぜた微笑みを浮かべた。
「ある種の恋は、魂の熱病のように、その人の目と耳を塞ぐものだといいます。……陛下のお心、私にも分かる気がいたします」
その微笑みは、どこか温かく、どこか遠い哀しみを宿していた。
申し訳なさに胸を締めつけられながら、レオトはそっとユステアの髪を撫で、やがて彼女を抱き寄せた。柔らかく温かな感触が胸に収まると、空っぽだった心に、少しずつ温もりが満ちていくようだった。
「すまない。そなたこそ私の人で、愛しているのに、こんなふうに甘え、傷つけてしまって……」
「そんなこと仰らないでください。陛下が私を信じ、こうして訪れてくださること、そして少しでも安らぎになれること――そのすべてが、私にとっては何よりの喜びなのです」
ユステアはレオトの胸に、静かに顔を預けた。




