60. アイランとイステル
レオトとアイランの成婚の儀の準備が進むなか、アイランはイステルに会見を求めて訪れた。メイリンがイステルと交流を持っていた縁で、アイランも彼女とは数度顔を合わせたことがあった。
「本日お目にかかったのは、皇后陛下に改めてご挨拶を申し上げるためです。すでにご存じのこととは思いますが、このたび私は皇帝陛下の妃となることになりました」
予想通り、イステルの反応は落ち着いていた。もともと離宮は皇后たるイステルの管轄に属するはずだったが、彼女は離宮にまったく関与せず、出入りすることもなかった。とはいえ、このような出来事を知らぬはずはない。
しかし、続くアイランの言葉はイステルを少なからず驚かせた。
「私が皇帝陛下の妃となるのは、あくまでも私自身の望みによるものです。私はレオト陛下をお慕いしております」
アイランはイステルの顔をまっすぐに見据え、静かに告げた。
「私はかつてのレオト陛下を存じ上げません。今の私が知るお方は、強さと優しさを併せ持ち、国と民を真に案じておられる御方です。
もちろん、かつて皇后陛下や妹メイリンに対してなされたことは承知しております。ですが、それは魔族の奸計によるものであり、決して皇帝陛下ご自身の本心ではありません」
その言葉に、イステルの表情が変わった。
「……今、何とおっしゃいましたか?」
「皇帝陛下がかつてとはまったく異なる存在となったこと、そして今なにやらご準備を進めておられることは、皇后陛下もお気づきではありませんか。
陛下が備えておられるのは、遠い昔に封じられし魔王を復活させようとする魔族との戦いです。我がタパラム王国も、その大義に加わっております」
アイランが告げる事実に打たれたのか、イステルはしばし沈黙した。アイランは静かにその返答を待った。
「今のお話……確かな根拠がおありなのですか?」
「皇帝陛下が過去のあの御方とはまったく異なることは、皇后陛下ご自身も感じ取っておられるはずです。かつての皇帝とは、魔族の術策と邪悪な呪法によって作られた虚ろな影にすぎません。
もし私の言葉がなおも信じがたいとお思いならば、配下の者に命じて宰相ザモフと軍務大臣バルセズについて、密かに調べさせてご覧になるのもよいでしょう」
「配下の者に命じる? 私にそんな力があるとお考えですか? 私には家も国もないのです」
「国が滅びたとおっしゃっても、人々がすべて消えたわけではありません。皇后陛下を助けようと願う者がいるはずです」
「何を仰っているのか分かりません」
イステルの声が瞬時に冷たく沈んだ。
アイランは丁重に詫びた。
「失礼があったならお許しください。もし私が皇后陛下の立場にあればどうするか――僭越ながら私の浅い見識から推し量ったまでのことです。
ただ一つ申し上げたいのは、万一外で皇后陛下を助けようと動く者がいるならば、しばらくは不用意に行動させず、私の申したことを必ず確認していただきたいということです。
今や我々は、人間の存亡を賭した戦いを目前に控えております。人間同士が争う時ではありません。この戦いで人間側が勝利するためには、皇帝陛下が必要なのです。どうか私の言葉をおろそかにせず、必ずお確かめください」
アイランは切々と頼み、そっとその場を去った。
イステルは信じ難い事実に混乱していた。これまで、幼いメイリンが何度もためらい、結局口を閉ざしてしまっていた秘密とはこれだったのか。
メイリンと初めて会った日のことが思い返された。すぐにでも崩れてしまいそうなほどか細い、その幼い少女。今にも泣き出しそうな顔をしていながら、最後まで涙を見せなかった。小さな肩に家族と民の命と安否を背負い、それを耐え抜かなければならないという責務感ひとつで踏ん張っていたのだ。
その凄まじい覚悟と決意を、彼女に抱かせたのが他ならぬ自分であったという事実を、イステルは深く恥じ、申し訳なく思った。そしてその姿に幼くして命を失った妹と弟の姿が重なり、改めて胸の奥底から皇帝への憎悪が湧き上がった。もしできることなら、あの日、自分の手であの男を――その手で――と願ったほどである。
なのに、今になって、皇帝が必要な存在だというなんて。魔族との戦いに勝つために、彼がいなければならないというのか。皇帝が昔、魔王を封じた勇者の生まれ変わりだというのか?
皇帝がイステルの家族や国、離宮に閉じ込められた多くの女たちに対して行ってきた所業こそ、まさに人の皮を被った魔王そのものではなかったか。生きながら地獄に囚われた自分が、今さら何ゆえに世界を案じねばならぬのか。
アンリカ・アステインに続き、アイランとの成婚。皇帝がまた別の女を妃に迎えることなど、イステルにとっては関わるところのない話であった。しかし、タパラムからキルシャ王とその夫君フィリン公が成婚式に来賓として来るという知らせは、イステルの傷を鋭く抉った。
自身の不幸を以て他人の幸福をねたんだり、他人の不幸を望んだりしてはならぬ――そんな理性の声は、惨めで悲痛な現実の前で重く沈黙していた。
決して消えもしなければ薄らぎもしない怒りと憎悪が、地獄の炎のごとく燃え上がり、イステルの魂を蝕んでいた。




