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54. 動揺

 何もない虚ろな空間に、アイランは小さく身を丸めて漂っていた。

 彼女の前に、小さな点のような光がひとつ現れる。それは次第に大きくなり、やがて彼女に向かって近づいてきた。


 真昼の太陽のごとく眩く輝くそれは、灼けつくような光を放ちながらアイランを少しずつ呑み込み、ついには完全に彼女を覆い尽くした。


 光に包まれるその瞬間、全身に光が満ちあふれる感覚とともに、言葉では言い表せぬほどの恍惚(こうこつ)が胸を支配した。自らが光に溶け込み、一体となる至上の充足感が、溢れるように押し寄せてきた。


 はっと目を開けたアイランは、しばし茫然としたまま夢の残滓に浸っていた。

(また、この夢か……)


 潜行の旅から戻って以来、すでに幾日も過ぎていた。だがその後、彼女はほぼ毎日のようにこの夢を見続けている。


 それは虚妄の夢ではなかった。あの日、レオトが自分に気治療を施したときに味わったあの感覚、その体験が夢の中で蘇っているのだ。


 あの勝負も衝撃だったが、さらにその後、傷を癒やしてくれた時の感覚は、アイランにひとつの確信を刻みつけた。レオトは、出会った頃よりもさらに強くなっていた。いま彼に比肩できる存在は、おそらくキルーシャくらいしかあるまい。


(今日もランシアの鍛錬場で顔を合わせるはずだが……どうしよう。適当な口実を作って行かない方がいいのでは?)


 そう思った瞬間、アイランは自分自身に驚いた。誰かを避けようだなんて、それは彼女らしくない発想だった。


 でも、事実として、あの日以来レオトと向き合うことが妙に気まずくなっていた。彼の態度は以前と変わらない。変わったのは、アイラン自身のほうだった。


 不快でも、嫌悪でもない。ただ、強く意識してしまう。考えずにいられない。彼の言葉や仕草に何か意味があるのか、自分の言動が彼の目にどう映るのか。その場限りではなく、後になって何度も思い返してしまうのだ。


(嫌だ、こんな気持ち……)

 こんなふうに心が鈍り、胸にざらついた感覚が残ることは今まで一度もなかった。戸惑いを覚えながら、アイランは重苦しい気分のままベッドを抜け出し、部屋を後にした。



 その日の昼。

 いつものようにランシアの鍛錬場でレオトと実戦訓練を重ねていたアイランは、否応なく悟った。自分はやはり以前とは違ってしまっている。


 その日ばかりは、彼との間合いが縮まるたびに過敏に意識してしまい、集中が乱れた。やがて隙を見せ、腕に傷を負ってしまったのだ。


「くっ…!」

 驚いたレオトが彼女を支えようとした。アイランはとっさに腕を押さえ、動揺のまま後ずさった。

「大丈夫です」


「しかし、その腕が……」

 言い淀むレオトに、サンヤがすぐさま割って入った。

「お部屋までお連れして、我らが治療いたします。どうぞご心配なきよう」


 サンヤとシュリらが手早く応急処置を施し、アイランを彼女の部屋へと伴っていった。


「稽古中にお怪我をなさるとは……。体調が優れなかったのであれば、事前に仰ってくださればよろしかったのに」

 傷の手当てを終えたシュリが、小首をかしげた。


 アイランは何も答えられず、唇を閉ざした。自分でも説明のしようがなかった。これは体調の問題とは無関係なことなのだ。


 シュリが部屋を辞したあと、レオトが入ってきた。


「傷の具合はどうか」

 彼は心配そうに声をかける。


「軽い負傷にすぎません。ご心配をおかけして申し訳ありません」

 アイランは思わず視線を逸らし、ぎこちなく答えた。皇帝の前でみっともない姿を晒した気がして、恥ずかしさと自分への苛立ちで胸が苦しかった。


「また私のせいで傷を負わせてしまったな……。すまない」

「いいえ、陛下のせいではありません。わたくしが一瞬、余計なことを考えて集中を欠いたのが原因です」


 レオトの視線を感じた途端、緊張が走り、頬が一気に熱を帯びる。

「顔が赤いが、熱でもあるのか?」


 レオトは身を屈め、アイランの額にそっと手を当てた。驚いたアイランが顔を上げると、視線が真正面からぶつかる。ハッとしたレオトは、自分が無作法を働いたことに気づき、慌てて手を引き下がった。


「……無礼を働いたな。ご容赦願いたい。ともかく、全快までは無理をせず、しばし静養するがよい。回復に効く薬を選ばせて届けさせよう。必要なものがあれば、遠慮なく侍従長に申し付けるとよい」


 レオトはそう言い残して部屋を後にした。

 廊下に出ると、彼は小さく嘆息し、自分を叱責する。


「まったく……私はもう、この離宮の女たちにあまりに慣れすぎてしまったようだ。つい、あのような無礼を……。これからは言動に気をつけねば」


 すると傍らのカティルが慰めるように言った。

「アイラン王女殿下とは度々顔を合わせ、共に稽古をなさっておりますゆえ、それだけ親しさが増したのではございませんか」


「それでもいけない。未婚の女性であり、他国の王女だというのに……」

「いいえ、陛下は十分に分をわきまえておられます」


 普段らしからぬほど柔らかなカティルの言葉に、レオトはかえって訝しげな眼差しを向けた。

「……まさか、まだあの件を考えているわけではあるまいな?」


 かつてカティルが、アイランを誘惑してみてはどうかと、軽口を叩いたことを思い出したのだ。


 カティルの口元が、笑いをこらえるかのようにわずかに震えた。

「まさか。陛下はただ、これまで通りになさればよいのです」


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