43. 初夜
ついに宴が終わり、レオトは先に広間を抜けていたアンリカの待つ寝室へと入った。宴席ではクズ皇帝を演じるため、浮かれた調子で笑い騒いでいたが、部屋に戻ると一気に緊張がほどけた。
侍女たちが下がり、二人きりになると、レオトはためらいがちに立ち尽くしたまま、アンリカに声をかけた。
「えっと……今日は、大儀であったな」
華やかに着飾り、寝台の端におとなしく腰掛けているアンリカは、いつもとはまるで別人のように見えた。だからこそ、ますます声をかけるのも気恥ずかしい。
結婚初夜ゆえ、務めを果たさねばならぬことは承知している。だが互いに手すら握ったこともなく、何からどう始めればよいのか戸惑うばかりであった。
アンリカもまた緊張していた。これまで男性と交際した経験もなく、いきなり初夜を迎えることになったのだ。ふと、成婚の儀の前に父から言われた言葉が胸に去来する。
「他の誰の強要でもない、お前自身の選択だ。陛下の妃となったからには、陛下の子を産め。そして家門を盤石のものとせねばならぬ」
アンリカは横目でレオトをうかがった。宴で見せた豪放な姿とは打って変わって、今はどこか逡巡しているように見える。
(……私が気に入らないのだろうか?)
一瞬、不安が胸をかすめる。離宮にいる女たちは皆、国中から選りすぐられた絶世の美女ばかり。ダメ皇帝と呼ばれた時代も、彼の審美眼は極めて高く、各地から才色兼備を集めたという。ましてや皇后イステルに至っては、女神にも比せられる美貌を誇っている。彼女たちと比べれば、自分が劣っているのは否めない。
(まさか、私がこんなことを考えるようになるとは……)
アンリカは唇をかんだ。
これまで容姿で自分を測ったり、他者と比べたりことなどなかった。自分には自分の道があり、自分らしく生きればそれでよいと信じていた。長い髪を断ち切ったときも、むしろ清々しく、新たに生まれ変わった心地がしたものだ。
それが今や、この離宮に群れる数多の女たちのひとりとなってしまったのだ。
皇帝が自分を軽んじることはないだろう。彼女――正確にはアステイン家は、帝にとって実質的に大きな支えとなる存在なのだから。だからこそ、皇帝もアンリカが離宮護衛隊の隊長職を続けることを許したのだ。
だが今胸に湧く感情は、そんな必要性を超えて、自分自身が皇帝に、何か別のものを望んでいることを気づかせた。
(果たして、これは正しい選択だったのだろうか……)
そんな思いがこみ上げたその時だった。
「えっと……その……まずは、この髪飾りから外せばいいのか? それとも、衣装に付いている飾りからか?」
いつの間にか目の前に来ていたレオトが、気まずそうに問いかけてきた。アンリカは思わず彼を見上げ、目を瞬かせた。
これまでにゆうに200回は成婚の儀を重ねてきた男だ。今さら礼装の脱ぎ方も知らぬはずがない。
レオトは言い訳するように言った。
「侍従長から聞いているかもしれんが、以前のことはよく覚えていないのだ。こんなことなら、あらかじめ尋ねておくのだったが……」
その表情を見る限り、虚言ではない。レオトは本当に困り果てていた。
呆れもしたが、同時にどこか愛らしく思えて、アンリカは思わず微笑んだ。レオトもつられるように笑みを返す。
「私も初めてで、詳しくは分かりませぬが……髪飾りから外すのがよろしいかと」
「承知した。では、髪の方から……」
目の前に立つレオトを意識した途端、アンリカの胸は高鳴った。しばらく髪飾りを外していたレオトは、複雑な造りに手を焼き、困ったように呟いた。
「……これは、あまりに入り組んでいるな」
結局、アンリカは鏡の前に腰を下ろし、その後ろにレオトが立って、二人で丹念に飾りを取り外していった。最後に残ったのは金糸で織られた小さなキャップだった。
「これは外さずとも大丈夫です」
アンリカはそう言って頭に手を当てた。キャップは無数のピンで髪に留められており、そのまま外せば髪が引き抜かれてしまう恐れがある。加えて、外せば乱れた短い髪が露わになるのも気がかりだった。
「いや、このままでは痛むであろう。外した方がよい」
確かに、重い飾りを長時間支えていたせいで頭は鈍く痛んでいた。アンリカは鏡越しに、ひとつひとつ丁寧にピンを抜いていくレオトの手元を見つめ、妙な感慨を覚えた。かつての皇帝なら、決して口にせず、行いもしなかった仕草だ。
すべてのピンを外すとキャップも容易に取れ、アンリカは急いで髪を整えた。その間にレオトも自らの冠を外した。
次は、アンリカの礼装である。外の衣装は難なく脱がせられたが、内に重ねた白いドレスは数多の紐や小さなボタンで留められており、時間がかかった。
「うむ……成婚の礼装がこれほど複雑とは。せっかちな者なら息が詰まるであろうな」
レオトが冗談めかして呟く。過去の式を本当に覚えていないのは明らかだった。
「焦らず、忍耐と根気をもって夫婦生活に臨め、という意味が込められているそうです」
「なるほど、意味は立派だが……」
困ったように微笑みながらも、レオトは指先で紐を解き、ボタンを一個ずつ外していった。もし昔のクズ皇帝であれば、苛立ちに任せて一気に引き裂いていたことだろう。哀れな花嫁は、初夜から恐怖に震えたに違いない。
やがて、すべてを外し終えたとき、アンリカの身には薄手の下着だけが残された。思わず顔を伏せる彼女の傍らに、レオトが静かに腰を下ろした。
「ひとつ、申し上げておきたいことがある」
その声に、アンリカの体は強張った。皇帝は何を語ろうとしているのか。これまでの妃たちは皆、彼が選び取った存在だった。だが自分は違う。自らが望み、皇帝はそれを受け入れた。必要に迫られた婚姻、ただそれだけなのかもしれない。彼を慕う美女たちに囲まれた男なのだから。
「我ら、互いを決して〈手段〉として扱うのはやめよう。政治とは本来そういうものかもしれないが、いかなる経緯であれ、我らは成婚で結ばれた。夫婦が互いを計算でしか見ないなど、あまりに味気なく、哀しいことだ。
確かに、そなたとその家の力が、今の私に必要であることは事実だ。その点について、心から感謝している。だが、そなたがただ力を貸すにとどまらず、私の妃となることを選んだことには、大きな意味があると考えている。
私はそなたを〈我が人〉とし、信じ、敬い、そして大切にしたい。これから互いを知り、深く理解し合えることを願っている」
静かに紡がれる言葉を聞くうちに、アンリカの胸に残っていた不安や疑念は霧散し、代わりに満ち足りた安らぎが広がっていった。顔を上げると、レオトが優しく微笑んでいた。彼は身を屈め、アンリカの唇にそっと口づけた。
深く、熱い口づけの中で、アンリカは、この男をきっと心から愛するようになるのだと、はっきり感じ取った。




