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4. 皇后イステル

 皇后イステルの部屋の前に立ったユタカは、不安と期待で正気を保つのがやっとだった。自分を殺そうとしている相手であることは分かっている。怖いに決まっている。


 しかし、同時に、この世界で〈最も美しい〉とされる彼女の容姿を、この目で確かめたいという思いも抑えきれなかった。ゲームのグラフィックでも十分美しかった。だが、現実として目の前で見たらどうなのか――その期待が心の片隅にあった。


(……こんな状況でそんなことを考えるなんて。俺もやっぱり男なんだな)

 そう自嘲しながら扉を開け、中へ入ったユタカは、そこで両手を前に重ね、恭しく立っていた皇后を見た瞬間、思わず呆然と立ち尽くした。


 それは、〈美しい〉という言葉すら冒涜に思えるほどの存在だった。

 月の銀光を地上へ引き下ろしたような、波打つプラチナブロンド。白い顔に映える澄んだ水色の瞳と、淡い薔薇色の唇。長く細い首、そして優美な曲線を描く肢体。それは美を超えた美であった。


 何よりユタカを揺さぶったのは、彼女から漂う香りだった。濃すぎず、刺激的でもなく、澄んでほのかに甘い花の香気。その清らかな香りゆえ、彼女の祖国では「花の化身」と呼ばれていたと伝えられていた。


 どうすればよいか分からぬまま、ユタカは突っ立っていた。

 気まずい沈黙が流れる。いつまでもこのままではいられない。


「えっと……今夜は特に、何もする気分じゃない。そなたは先に休むがよい」

 そう言ってユタカはテーブルへ行き、腰を下ろした。


 イステルは戸惑いを隠せぬ表情でしばし躊躇したが、やがて静かにベッドへ歩み、端に腰を下ろした。

「余はもう少ししてから休むゆえ、気にせず眠れ」


「……それはできません」

 声まで美しい。小鳥のさえずりのようでもあり、春風のささやきのようでもある。


「大丈夫だ。先に休んで構わん」

「いいえ、できません」

 数度のやり取りの末、ユタカは黙り込んだ。


 イステルは落ち着き払って見えたが、実際には張りつめた緊張と警戒心を隠していた。彼女が先に眠らないのは、遠慮ではなく、恐怖のためなのだ。


 所在なげに部屋を見回したユタカの目に、壁に掛けられた奇妙な品々が映った。鞭、縄、口枷、棍棒……。


 最初はなぜ皇后の部屋にそんなものがあるのか理解できなかった。

 だが、すぐに気づく。この〈クズ皇帝〉は、昼夜を問わず狂乱に明け暮れる変態だったのだ。


 いや、狂乱どころではない。本物の狂人。こんなにか弱く、美しい女性に、どうして手をかけられるというのか。


 堪えきれずユタカががばっと立ち上がると、イステルはびくりと身を震わせ、一緒に立ち上がった。ユタカは扉を開け、外に控えていた侍女たちに言い放つ。

「……あの壁に掛かっている物、すぐに片づけろ」


 侍女たちはおずおずと部屋に入ってきて、彼の顔色をうかがいながら忌まわしい道具を片づけて持ち出していった。


 再び二人きりになると、気まずい沈黙が落ちる。

(……こうなるなら、本でも持ってくるんだった)

 そんな考えが、今さら頭をよぎる。


 皇后は依然として絵のように端座していた。ただ見つめるだけでも決して飽きることのない、天上の造形。だが、自分の視線が彼女を不安にさせていると分かっている以上、凝視することもできない。


 息苦しさに喉が渇き、ユタカはテーブルの上の銀の瓶から杯に注ぎ、一気に飲み干した。しかしそれは水でも茶でもなく、酒だった。


(……いっそ酔って眠ってしまった方が楽か? いや、酔って余計なことを口走ったら最悪だ。今はこれからの方針を考えないと……)

 ユタカは思索を続けた。


(少なくとも宮内大臣と侍従長、この二人は信頼できるはず。味方につけられれば、突破口になるかもしれない。……だがどうやって信頼を得る? 以前の〈クズ皇帝〉と今の俺の違いを、どう説明すれば……?)


 考え込むうちに、体が妙に熱を帯び、気分が浮つき始めた。そして下腹部がやけに熱く、硬くなっていくのを感じた瞬間――さきほど飲んだ酒の正体に気づいた。媚薬だったのだ。


(ああ〜〜っ、この狂人め! どこまでやらかしてるんだ!!)

 罵声が喉まで出かかったのを必死に飲み込み、ユタカは頭を抱える。


 ただでさえ、この世で最も美しい女性の前で落ち着きを失っているというのに、媚薬まで仕込まれているとは。最悪以外の何ものでもない。


 抑えきれぬ欲望が溶岩のように煮えたぎる。だが、ここで手を出したら、それこそ終わりだ。この美しい皇后を欲望の対象にしてしまえば、自分も〈あのクズ皇帝〉と同じ存在に堕ちる。


 必死に理性の糸を握りしめるが、問題は下半身だった。勝手に怒り狂ったように主張を始めたそれは、しかもやたらと立派で存在感がある。


(……うわぁ、マジでどうしろってんだよ!)

 混乱したユタカはおろおろした挙げ句、テーブルにある果物の器をひっくり返し、中身を全部床に散らして、その器で下腹部を覆った。


 ベッドの端に座るイステルは、不安と訝しみが入り交じった視線で彼を窺っている。


 灼熱のような熱さと張り裂けそうな苦しみに、もはや座っているのも限界になったユタカは、せめて横になろうと決め、果物器で前を隠したままぎこちなく立ち上がった。


 それと同時に、イステルはびくりと反応して立ち上がる。ユタカは彼女を避けてベッドの反対側へと回り込んだ。幸いベッドは十分広い。


「……余はここで寝る。そなたは向こうで休むがよい」

 どうにかそう言い、背を向けて横になった。しばらくして、反対側に彼女がそっと身を横たえる気配が伝わってきた。


 その時、ユタカはふと思い出した。ゲームの中で、皇帝は皇后に背後から刺されたのだ。ぞっとして、彼は慌てて寝返りを打った。こんな格好で死ぬわけにはいかない。


 だが寝返りを打った拍子に、彼はイステルと目が合ってしまった。こちらを向いて横たわっている彼女の、見る者を吸い込むような魅惑の眼差しに息が詰まる。


 思わず下半身に力がこもった。男としての本能が、猛烈に彼女を求めていた。しかし、

(……獣にはなれない! 俺はあのクズとは違う!)


「……そなたも、背を向けてはどうだ?」

 せめて背中越しの方がましだと考え、そう促してみた。


 イステルは小さく首を振り、囁くように答えた。

「大丈夫です」


 やはり、その理由は恐怖だった。彼女の大きな瞳には、どうしようもない怯えが刻み込まれていた。

 仕方なくユタカは、下腹を覆った果物器を握りしめた手に力を込め、必死に自らへ言い聞かせる。


(この試練を越えられなければ……俺はクズ皇帝として、勇者に討たれる運命だ。悪の根源となってしまう!)

 全身は煮えたぎる欲望と衝動に焼かれ、額から、そして全身から汗が噴き出した。


 どうやってその夜をやり過ごしたのか、自分でも分からない。ただひとつ断言できるのは、彼の人生で最も長く、最も苦しい夜だったことだ。


 一睡もできず、自分との闘いに費やした末。夜明け、ユタカは真っ赤に充血した目で果物器を握りしめたまま、よろめきながら自室へと戻っていった。


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