39. アンリカの挑戦
アンリカ・アステインが、皇帝レオトとの単独会見を求めてきた。
初めてのことでもあり、レオトは不思議に思うと同時に、その理由が気にかかった。
「……もしかして、結婚を口実に辞めたいというのではないか?」
そうカティルに問うと、彼は否定しきれない表情でうなずいた。
「その可能性はございます。アステイン家がアンリカ様の縁談を探しているという話は、以前から耳にしておりましたので」
「そういうことなら、無理に引き留めるわけにはいかないな」
「いえ、それほど気楽にお考えになってよい問題ではございません。アステイン家を味方に引き入れることの重要性を、これまで幾度も申し上げてきたはずです」
「それは分かっている。だが、どうにも打つ手が見つからん。話しかけても短い返答しか返さず、まともに目も合わせないのだからな」
「ならば機会を作られるのです。何らかの理由を設けてお呼びし、お茶を共にするなど……」
「だが、事実を包み隠さず語れるわけでもないし、話題もない。こちらを避けている相手に、下手をすれば言い寄っていると誤解されかねない」
レオトの返答に、カティルは深いため息をついた。
「陛下、これは帝国の存亡を賭けた戦いなのです。より冷徹な政治的判断をなさらねばなりません」
彼の言葉が正しいことは理解している。それでも人を利用する目的で近づくことに、レオトは抵抗を覚えていた。いっそ後任を探すべきかと思いつつ謁見室へ入ったところ、アンリカは待っていた。
彼女の用件は、まったく予想外のものだった。レオトに、剣による大立ち合いを所望してきたのである。戸惑いつつも、実戦さながらの稽古ができる好機と考えたレオトは快諾した。カティルの提案で、場所は前回と同じ鍛錬場、真剣ではなく木剣を用い、二日後に行うことが決まった。
「……急に剣の稽古を望むとは、どういう意味なのだろう?」
首をかしげるレオトに、カティルは微笑を浮かべた。
「悪い兆しではございません。陛下に興味を持つようになったという証でしょう」
「そうなのか? たしかアステイン卿も相当な使い手だと聞いたが……そなたの見立てでは、勝敗はどうなると思う?」
「勝ち負けを争う性質のものではございませんが、陛下の優勢は揺るがぬでしょう。なにしろ、アイラン様を相手に互角の勝負を繰り広げる御方ですから」
実のところ、勝敗そのものは、レオトにとって大した問題ではなかった。彼の胸を占めていたのは、アンリカがなぜ今立ち合いを願ったのか、その真意であった。試すためなのか、それとも辞する口実を得るためなのか。
さらに、離宮護衛隊の鍛錬にアイランらタパラムの者たちが関わることを、アンリカがどう感じているのかも懸念であった。表向きには平然としていても、内心では反発を抱いているかもしれない。
(……もし辞めたいと告げられたなら、無理に引き止めるべきではない。むしろ送り出すのが筋かもしれんな)
*** ***
鍛錬場には、前回と同じように離宮護衛隊の者たちが警護に立ち、ランシアをはじめとする多くの妃、さらにアイランを中心としたタパラムの武人たちが見守っていた。
木剣を手にしたレオトとアンリカが向かい合う。合図が下るや、先に動いたのはアンリカであった。
カティルが評したとおり、彼女は確かな実力者だった。鋭く正確な剣筋、そこに瞬間的に闘気を込め、予測し難い攻撃を繰り出す。
レオトにとっても、その動きは決して見慣れぬものではなかった。
この間、ランシアから帝国の剣術を学んでいたからである。
だが、剣道に流派があるように、この地にもまた様々な型が存在する。ランシアの剣とアンリカの剣とでは、明らかな違いがあった。
アイランと同じく、皇帝を相手に手加減するつもりは毛頭ないのだろう。アンリカの攻めは鋭さを増し、体格差を意識してか、間合いを詰めて果敢に斬り込んできた。
しばし木剣の打ち合いが続いたそのとき、アンリカが渾身の力で振り下ろした一撃を、レオトは闘気を込めた木剣で迎え撃った。両者の武器が激しくぶつかり合い、次の刹那――アンリカの木剣は見事に両断されていた。
それをもって、大立ち合いは幕を閉じた。
アンリカは礼を尽くして頭を垂れた。
「多くを学ばせていただきました。今後はさらに鍛錬を重ね、全力を尽くす所存です」
その口から「辞める」という言葉が出なかったことで、レオトはひとまず安堵した。
「ありがとう。これからも離宮護衛隊を頼む」
レオトが去った後、アンリカは地面に落ちた木剣の破片を拾い上げた。同じものを使っていたはずなのに、自らの木剣はまるで鋭い刃物で断たれたかのように切り口が滑らかだった。
(……こんなことが、本当にあり得るのか)
先日のアイランとの鍛錬で垣間見えた皇帝の姿は、まさしく真実だった。アイランが手加減していたのではないことは、あのときも理解していた。
だが、今こうして自ら確かめてみて、ようやく納得できた。
皇帝レオトは、これまでアンリカが剣を交えてきた誰よりも強大だった。その強さに加え、勝負の後に見せた清々しい態度は、もはや彼が以前の放蕩無頼の皇帝ではないことを雄弁に物語っていた。
宮中での皇帝と、離宮での皇帝は、まるで別人のようだ。これは一体、何を意味するのか?
彼は何を警戒し、何を恐れているのか?
思い当たるものはただ一つ。
いまや帝国の政務は宰相ザモフがほぼ掌握しており、軍権はその腹心たる軍務大臣バルセズが握っている。皇帝といえど、この二人を即座に排除することは叶わない。
(まさか……政変を企んでいるのか?)
そう考えれば、タパラム王国からアイラン王女が武人を率いて来た理由にも合点がいく。
外では「皇帝がメイリン王女を人質に取り、キルシャ王を呼び寄せて新たな娘を差し出させた」と囁かれている。
だが、それは明らかに虚説だ。大立ち合いの様子を見れば、アイランが自らの意思で同行してきたことは察せられるし、メイリンの態度からも自然に理解できる。
キルシャ王が自発的に娘と武人を送ったと見るのが妥当であり、それはすなわちタパラム王国が皇帝の側についたことを意味していた。
でも、そこには決定的な疑問が残る。なぜ今さら――あの放蕩と残虐で悪名を轟かせた男が、急に変わり得たのか。
皇帝となって以降、抑制を知らぬ暴走を繰り返してきたのではなかったか。宰相ザモフが国政を牛耳るようになったのも、自業自得にほかならぬはず。
まさかの「今になって目覚めた」というのか。信じ難い話だが、事実そのようにしか見えない。その真意は、皇帝の信頼を得たときにこそ明らかになるだろう。
政変が勃発すれば、アステイン家はどう動くか。
アンリカの見立てでは、父はしばらく静観し、中立を装うはずだ。そして情勢が定まり次第、勝ち馬に乗る。皇帝であろうと宰相であろうと、アステイン家にとっては大差ない。
(父上に申し上げれば、きっとすぐにでも離宮護衛隊を辞するよう命じられるだろう)
それが正しい選択であることは理解している。軍権を握る宰相側が優勢なのは明らかであり、皇帝の味方をする者がどれほどいるのかも分からない。
しかし、ザモフは明らかに帝国を誤った方向へ導いている。
もし皇帝が本当に目を覚まし、国を正そうとしているのなら、義はむしろこちらにあるのではないか?
さらにもう一つ、重大な問題がある。
今ここで離宮護衛隊を辞すれば、アンリカの未来は父の決めた定められた道に押し込められる。家門の都合で選ばれた相手に嫁ぎ、その妻として生涯を終える。
それは、アンリカが望んだ人生ではなかった。安楽で優雅な暮らしを拒み、血の滲む鍛錬を積んできたのは、自らの力で己の立場を切り拓きたかったからだ。
もし皇帝と手を携えるならば、別の道を選ぶ可能性もある。200名近くもの女を侍らせている男だ。アンリカ一人に構う暇はないだろう。
(……部屋の隅で運命を待つつもりはない!)
アンリカ・アステインは、固く心に誓った。




