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32. マビナの家族

 胸から下へと、やわらかな水の流れがすり抜けていくような感覚に、ふと目を開いたレオトは、それが腕の中のマビナが身じろぎしたせいだと気づいた。


(妙な感覚だな……)

 そう思った矢先、どうしようもない自責の念に囚われる。


(俺という男は、断るということを知らないのか……)

 ひとたび誘惑を受ければ、あっけなく陥落してしまう。あまりに脆い男になってしまった気がする。


 拒めば、相手がひどく傷つくから。そんな言い訳も心のどこかでは成立していた。単なる男女の仲ではなく、皇帝の妃である以上、拒まれることは彼女たちにとって大きな痛手となりかねないのだ。でも結局は、いつも身体が先に反応し、心までも引きずられてしまう。


(イステルと初めて会ったあの日……あの時に、俺の持てる節制も忍耐も、すべて使い果たしてしまったのか……)

 そんな馬鹿げた考えすら胸をよぎった。


 いつの間にか目を覚ましたマビナが、胸に顔を埋めながら小さな声で囁いた。

「……勇気を出してよかった。昔はただ怖くて、痛いだけでした。でも、今の陛下は……とても素敵です。私はずっと陛下の傍にいたい。いても……いいですか?」


 レオトは彼女の髪を撫でた。この愛らしい女を、どうして拒めようか。

「そうしてくれるなら、私にとっても嬉しいことだ」


「嬉しい……」

 マビナはさらに深く彼の胸に身を寄せた。その仕草はまるで、水の中を優雅に泳ぐ細身の魚のようにしなやかだった。夜のマビナは昼間とはまるで違う。静かで恥じらいがちな姿は影もなく、大胆で情熱的だった。


「私の家族を一度、ここに招きたいのです。会いたいのもありますが……陛下に、ぜひ紹介したい人がいて」

「紹介したい人……?」


 不思議そうに問い返すレオトに、マビナは勢いよく顔を上げた。その瞳が、生き生きと輝いていた。

「……私の姉です」


        ***    ***


「あなた、マビナから招待状が届きましたよ。私たちに会いたいんですって。旅費まで同封されてきました」


 仕事を終えて家に戻ったメルフィンに、妻イナが手紙を掲げて嬉しそうに声を弾ませた。その言葉を聞いた途端、メルフィンの声も大きくなる。


「そうか! ならば早く日を決めねばな」

「でも……ルカを必ず連れてくるようにって、書いてあるのです」


「なに? ルカを連れて来いと?」

「ええ。ほら、読んでみてください」


 メルフィンは渋い顔で手紙を受け取った。確かに文末には「姉ルカイアを必ず連れて来るように」と3度も強調されている。


 困惑の色を浮かべ、メルフィンはイナに言った。

「これはどういう意味だ? ルカの性格を知らぬはずもあるまいに。連れて行けば、どんな騒ぎになるか分かったものではない」

「どうしましょう……」


 しばらく音沙汰(おとさた)のなかったマビナから手紙が届き始めたのは、つい最近のことだ。無事でいると(つづ)られ、同封の金貨で故郷の果物や布地、アクセサリーを送ってほしいと頼まれていた。欲しいもの、食べたいものがある。それだけで無事の証と嬉しくなり、あれこれ詰めて送り返した。


 そして今度は家族を招いたのである。ただ一つの難題は、姉ルカイアを「必ず連れて来い」という条件だった。できれば適当な理由をつけて外し、残りの家族だけで行きたいところだが、一度ならず三度も強調されては無視するわけにもいかない。


「いかにマビナの頼みでも、これは……。返事を出してみよう。君と私、それにデインだけで行きたいと。ルカには連絡が取れぬ、とでも伝えてな」


「それがよさそうですね」

 イナも同じ考えだった。メルフィン夫婦はそうした趣旨の手紙をマビナに送った。


 この一家が長女ルカイアの同行を渋ったのには、理由があった。

 華奢でおとなしいマビナとは対照的に、ルカイアは身長180センチを超す長身にして、生まれつきの怪力で巨大なウォーアックスを振るう剛勇の戦士だった。


 その実力に違わず、気性も豪胆そのもの。皇帝がマビナを妃にと望んだときも烈火のごとく怒り狂い、皇帝だろうが誰だろうが叩き斬りに行かんばかりの勢いだった。


 そのままでは大惨事になると恐れた夫妻は、やむなく薬を飲ませて眠らせ、地下牢に閉じ込めている間にマビナを差し出した。さらに目覚めて追いかけるのを防ぐため、幼い弟デインと母親を牢の前に座らせて見張らせた。案の定、目を覚ましたルカイアは鉄格子を力ずくで破ろうとした。


 そのとき、弟を抱いた母が涙ながらに訴えた。

「今すぐマビナを連れ戻すと言っても、その先はどうするつもりだい? あなたひとりなら、逃げ切れるかもしれない。けれど私たち家族みんなを連れては逃げ延びられはしない。結局はマビナも私たちも、みな死ぬことになる。幼い弟まで死なせる気なのかい?」


 必死の懇願に、ルカイアもようやく踏みとどまった。だが抑えきれぬ怒りに地下牢を半壊させると、家を飛び出して行ってしまった。


 そんな経緯があるのだ。ルカイアを宮廷へ連れて行くのは、油壺を抱えて炎に飛び込むようなもの。ひとたび騒ぎを起こせば、家族旅行はそのまま冥途の旅路と化すだろう。


 しかし、戻ってきたマビナからの返書は、さらに強い調子だった。多少遅れてもかまわぬから、必ず姉ルカイアを伴って来い、と。しかもすでに皇帝にもルカイアのことを話してあるという。


「いったいマビナは何を考えているんだ……。まさか、死ぬ覚悟で呼んでいるのか?」

 メルフィンは地の底から響くような溜め息をついた。


 結局、メルフィン一家はルカイアを探すため、人を遣わすほかなかった。


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