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30. 眠れぬ夜

 自室でひとり酒をあおっていたレオトは、とうとう酒瓶を手にユステアの部屋を訪ねてしまった。

「今夜は……ただ少し飲んで眠ろうと思ってね。構わないだろう?」


 ユステアはふっと微笑んだ。あの日以来、部屋にいるときの彼女は胸の包帯を解き、より楽な姿で過ごしていた。

「ええ、もちろん」


 彼女は何も尋ねず、向かい合って座ったレオトの盃に静かに酒を注いでくれる。


 かなり飲んだはずなのに、不思議と酔いが回らない。失態を犯す心配がないのは良いが、酔い潰れて眠ることもできそうにない。


 憂鬱な顔で黙々と盃を傾けるレオトを見つめていたユステアが、ふと口を開いた。

「そういえば、今日はあの日ですね」


「……あの日?」

「陛下が、タランダルを遠ざけて、泥酔するまで飲まれる日です」


 彼女の口ぶりからして、この日が何の日かユステアは知っているのだと分かる。カティルの言葉が頭をよぎり、再び胸の奥に不快と哀しみがせり上がる。真実か虚構かも分からぬ感情に振り回され、苦しめられていること自体が腹立たしい。どうすることもできず、ただ酒をあおるしかなかった。


「皇后陛下に、想いを伝えてみては如何です? 今の陛下なら、かつてとは違うのかもしれません」

 やはり、ユステアは知っていた。もしかすると、だからこそ彼女のもとを訪れたのかもしれない。


 レオトは盃を指先でもてあそび、吐き出すように呟いた。

「私はイステルに、何一つしてやれることがない。家族に会わせることも、故郷に帰してやることもできない。クズ皇帝が奪ったものを取り戻すことも、(いや)すことも叶わぬ……」


 酒をあおり、苦笑する。

「私はつくづく図々しく、ろくでもない男だな。そなたもまた愛しい妃であるというのに、こんな話を聞かせるとは……忘れてくれ。意味のない愚痴だ。ただ、そなたの顔を見て、酒を酌み交わしたくて来ただけだ。それだけなんだ」


「そう仰っていただけるのなら、嬉しいことです」

 ユステアはただ微笑み返した。


 レオトは盃を卓に叩きつけるように置き、大きく息を吐いた。

「……こんなことをしている場合ではないな。気を引き締めねば。まだやるべきことが山ほどある……」


「お疲れのようです。少しお休みになっては? 本でも読み聞かせましょうか」

「それも悪くないな」


 レオトは正直、それ以上何かを望む気分ではなかった。ガウンに着替え、横になった彼の傍らで、ユステアは静かに本を開いた。


 ユステアに胸の内を吐き出したせいだろうか。部屋に来る前よりも、心が幾分軽くなっている。

(そうだ……気を引き締めねば。私を信じ、頼ってくれる者たちのためにも……)

 心を立て直しながらユステアの声に耳を傾けているうちに、レオトはいつしか眠りに落ちていた。


 ユステアは、レオトが完全に眠ったのを見届けると、本を閉じ、そっと寝顔を見下ろした。わずか2か月前まであれほど憎んでやまなかった男は、もういない。今そこにあるのは、彼女がひそかに望み続けていた理想の姿だった。


 知識を共に探究し、叡智(えいち)を分かち合い、彼女の言葉や意見を尊重し、耳を傾ける人。驚くべき知性を持ちながら決して驕らず、研鑽を怠らぬ人。そして何より、今の彼は人の心を思いやり、抱きとめることのできる男だった。


 イステルがレオトの愛を受けていることを羨ましく思いながらも、彼女の哀れな境遇を知っているだけに、嫉妬することなどできなかった。


 ユステアはそっとレオトの顔を撫で、その身を抱き寄せる。

「愛しいわが君……こうして眠れぬ夜に私を訪ね、共に過ごしてくださるだけで、私は幸せでございます。どうか憂いを忘れ、安らかにお眠りくださいませ……」


          ***      ***


 その頃、イステルはひとり机に向かい、レオトが口にした酒杯をじっと見つめていた。


 皇帝は変わった。もはや、かつてのあの男ではない。

 部屋を訪れても本を読むだけで、寝台の端に腰を下ろし、不自然なほど向かい合う姿勢で不眠のまま夜を明かしては、何度も帰っていく。手を出すことも、無駄口を叩くこともなく、ただ思いに沈んだ顔で、ときおりこちらを見つめるばかりだった。


 今日、皇帝は壁に隠された短剣を確かに見た。ここで斬られても言い逃れできぬ状況だったはずだ。なのに、彼は「何も見なかった」と言った。見て見ぬふりをする、そう告げたのだ。


 今からでも刃を別の場所に隠すべきか?

 イステルはすぐに考えを打ち消した。すでにこの部屋に秘密の空間があると知られてしまった以上、どこへ移そうとも意味はない。


 落ち着かぬ心のまま、しばし座っていたイステルは、やがて立ち上がり、箪笥(たんす)の下段から小さな本を取り出した。メイリンが帝国文字を習ったとき、自分で書き写した物語の本である。


 離宮の妃の中で、イステルが唯一心を通わせるのはメイリンだった。小国の幼い姫君、ただひとり異国へと連れ去られてきた子供が不憫(ふびん)でならず、ときおり部屋に呼んでは茶を共にし、語らいの時を持っていた。


 皇帝が変わってから、メイリンはずいぶん明るくなった。幼い身でひどい目に遭わずに済んだことを安堵する一方で、それすら皇帝の奸計ではないかと疑わしく思うこともあった。再び傷つけられるのではと、不安は消えなかった。


 ところが、メイリンは帝国の文字を覚えると、皇帝が語ってくれた物語を書き写したと言って、この本を贈ってくれた。そして、皇帝は以前とは違う人になったのだと、確信を込めて語ったのだ。理由を問うと、小さな唇を動かしかけて、けれど固く口を閉ざし、自分の口からは言えないから、皇帝に直接尋ねてほしいと告げるだけだった。


 イステルは本を開いた。几帳面で心のこもった筆跡で綴られた物語。――子供にこんな話を聞かせる人間だとは、想像もつかなかった。


 少し前には、メイリンの母キルーシャ王が訪れ、間もなくメイリンの故国から使者がやって来ると告げた。メイリンは、3番目の姉が代表として来るのだと喜びながらも、イステルに対してはどこか申し訳なさそうにしていた。


 イステルは心から祝福してやった。自分が不幸だからといって、他人まで不幸であれと望むことは許されない。


(いったい……何があったというの……?)

 ふと、そんな思いが胸をよぎり、イステルははっとして本を閉じた。


(いけない……あの男は、家族を殺した仇にして、我が国を踏みにじった敵なのよ)


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