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29. 悲劇の日

 ランシアの父ジーフリートが、勇者クラインの近況を報告するため離宮を訪れた。ジーフリートとその息子たちの指導のもと、順調に成長していると聞き、レオトは満足の色を見せた。


 だが、ジーフリートが語る勇者の一日を聞いた瞬間、レオトの胸には思わず同情が芽生える。朝から晩まで隙間なく訓練で埋め尽くされた過酷な日程だったのだ。


 もちろん、恐るべき敵との最終決戦に挑まねばならぬ以上、勇者の鍛錬は極めて重要である。しかし、養父ペトラオンや師ジーフリートがやや気合いを入れ過ぎているように思え、レオトは一抹の不安を覚えた。思春期の少年である勇者が、このまま心を歪ませてしまうのではないか――そんな懸念さえ湧いた。


「まだ若い年頃なのに、あまりに訓練が苛酷すぎはしないか?」

「敵が少年だからといって情けをかけるわけには参りません。クライン自身のためにも、一刻も早く一定の境地に達せねばならぬのです」


「……それも道理だが、あまりに休みなく追い込めば、かえって反発心が芽生えることもあるのではないか?」


 ジーフリートは笑みを浮かべた。

「この程度の鍛錬に耐えられずして、どうして勇者と呼べましょう。しかもクラインは弱い子ではありません。性格は明るく前向きで、愛嬌もあります」


「明るく前向きな性格……だと?」

 それはレオトにとって意外な言葉だった。


『黒き太陽、血を流す月』はダークファンタジー・アクションゲームであり、その世界は常に不気味な霧に沈んだ、暗く沈うつな雰囲気に包まれていた。出会う人々も生気を失い、あるいは壊れてしまったような人物ばかりだった。


 その荒涼とした世界を旅する勇者の性格について、レオトは考えたことがなかった。ただ、ゲーム序盤の出立の光景はいまも鮮明に思い出せる。炎に包まれたペトラオンの家を背に、ひとり丘を越え、闇に沈む森へと歩み出す勇者――プレイヤーにとっては背景に過ぎないが、もしそれが現実であったなら、なんと悲痛な心境であったことだろう。


「若くして耐え難い出来事を経験しましたが、それを乗り越えてペトラオン殿の子らとも実の兄弟のように暮らしています」


 ジーフリートの語り口からは、クラインへの深い愛情がにじみ出ていた。その様子に、レオトも心を和らげる。


「とはいえ、人は休みなく働けば、やがて疲弊する。5日に一度くらいは、せめて半日でも休ませてやってくれ」


 そう念を押し、ジーフリートとの面談を終えた。いずれ本格的な旅が始まれば、勇者を東北のキルーシャ王のもとにも送り、さらなる教えを受けさせるつもりでいた。


 ジーフリートが去ったあと、カティルが口を開いた。

「やはり、お伝えした方がよろしいかと思いまして……」


 いつになく慎重な彼の様子に、ただならぬ気配を感じたレオトは身を正して問い返す。

「何があった?」

「本日は、皇后陛下のご家族のご命日でございます」


 イステルの家族の命日。

 王宮が陥落した際、生き残った王族はイステルを除き、皆殺しにされた。実行犯は皇帝が特使として派遣していたタランダルである。カティルによれば、クソ皇帝といえども、そこまで望んでいたわけではなかったらしく、事態を知るや激怒してタランダルを斬首しようとしたという。宰相ジャモフの執拗な嘆願で辛くも命を拾ったが、しばらくの間は宮中への出入りを禁じられた。


 タランダル本人は否定していたが、事の発端は彼自身にあった。皇帝の威光を笠に着て横暴を尽くした挙げ句、イステルの母や妹に言い寄り、さらには手を出そうとしたのだ。証拠を隠そうと逆上して虐殺に及んだのでは、という疑惑が囁かれている。カティルの推測では、宰相ジャモフが背後で糸を引いていた可能性もあった。


 公式には「皇帝の勅命に背いた罪」によりイステルの王国は討伐され、王家は断絶し、領土は皇帝の直轄地とされた。そのためイステルは、家族の冥福を祈ることすら許されなかった。


 だが、レオトは知っていた。ゲームの映像で見ていたからだ。

 イステルは忠実な侍女が密かに持ち出した家族の遺骨の一部を、寝室の壁に隠された小さな空間に収めていた。そしてその前で、両手を合わせ涙を流していたのである。


(何もせずにいる方がいいのか……)

 あの部屋へ行かないこと。姿を見せないことが、彼女のためになるのだと分かっている。だが、分かっていながら何もしないのは、人としてあまりに非情ではないか。


 沈黙するレオトに、カティルが静かに言葉を添えた。

「陛下が皇后陛下を心からお想いなのは、承知しております。昔から、ただその一点だけは決して変わられませんでしたから」


「私が……昔から……そうだったと?」

 信じ難い気持ちで問い返すレオトに、カティルは微笑を浮かべた。


「常識的に考えれば、イステル陛下が皇后になどなれるはずはありません。王国は滅び、後ろ盾もなく、しかも陛下に深い恨みを抱いているのは明らかです。実際、父上も私も、陛下を迎え入れるならせいぜい側室にとどめるべきだと、強く進言したものでした」


 愛……していた? あの変態サイコパス皇帝が? 到底信じがたい話だ。汚らわしい欲望や所有欲ならまだしも。


 しかし、心の片隅では、カティルの言葉に一分の真実が潜んでいることを悟っていた。政治など考えたこともなく、関心すらなかったが、今や否応なくその中心にいる。カティルの指摘が的を射ていることくらいは、もはや理解できた。


 では、イステルを初めて見たあの瞬間の震え、息を呑むほどの魅惑は――この肉体の前の持ち主が抱いていた感情ゆえなのか? それゆえ、彼女をかくも激しく求めてしまうのか?


 混乱し、嫌悪感がこみ上げる。あの男から影響を受けていると思うだけで、耐えがたい不快さに胸が焼ける。レオトは複雑な思いを胸に、しばしその場に座り込んでいた。


       ***      ***


 その夜、ついにレオトは、イステルの部屋を訪れてしまった。侍女に命じて酒を用意させ、他の者たちを下がらせ、二人きりになる。


 レオトは黙したまま、彼の知っている、秘密の空間が隠された壁の方へと歩み寄った。


 それまで微動だにせず無表情を保っていたイステルの顔に、初めて不安と恐怖の影が差す。凍りついたように身じろぎもできず、ただ彼を見つめているだけだった。


 レオトは壁を探り、隠し仕掛けを開ける。そこに現れたのは、思ったより小ぶりな長方形の空間。中央には遺骨を納めたであろう小さな陶製の壺が置かれ、その奥には細身の短剣が隠されていた。ゲームの中で、イステルが皇帝を刺し殺す、その刃。レオトですら知らなかった事実だった。


 レオトは静かに立ち尽くすイステルを背に、テーブルへと歩き、酒を小さな器に注いだ。それを手に隠し空間の前へ戻り、壺の前に盃を供えて深く頭を垂れる。


「いかなる言葉を尽くしても、(あがな)いにはならぬことは承知しております。ゆえに、軽々しく赦しを乞うこともいたしません。

 イステル。あなた方の娘と姉だけは、必ず守り抜きます。どうか、わずかでも恨みと怒りを鎮め、彼女を見守ってくださいますよう」


 そう祈りを捧げ、レオトは空間を閉じた。そして再びテーブルに戻り、別の盃を二つ用意して酒を注ぎ、一つは自ら口にした。残る一つを手に取り、イステルの前に差し出す。


「受け取ってくれ」

 イステルは諦めなのか、深い悲しみなのか判じかねる表情で盃を受け取り、口にした。


「眠れぬ夜には、これも一つの手立てだ。誓って申そう。これからは、そなたの望みに背き、無理に触れるようなことは決してせぬ。

 そして今日のことは、何も見なかったことにしよう。案ずるな、心安らかに休むがよい」


 そう言い残し、レオトは部屋を後にした。

 自室へと戻る途中、彼は沈うつな思いを反芻(はんすう)した。


 チクショウ! 自分はイステルを愛している。それが果たして自分自身の感情なのか、それともこの肉体に残るクズ皇帝の残滓(ざんし)なのか、いまだ分からない。確かなのは、彼女を目にすれば心臓が張り裂けんばかりに鼓動し、どうしようもなく感情が頭の中を占めてしまうことだ。


 だが、この世のあらゆる女を手に入れようとも、イステルだけは決して得られない。彼女を生かしている唯一の希望が、自分を殺すことにあるという事実が、骨身に染みる。


(いっそ、自分が異世界から来た、別の魂だと明かせば……イステルは信じてくれるだろうか?)


 そんな思いがよぎり、レオトは首を振った。ここがゲームの世界だなど、どう説明すればいい? ゲームではなく「物語」だと言い換えたところで、大差はない。


 何より、生き延びるためには、自分は皇帝でなければならない。異世界から落ちてきたただの異邦人では、力も大義名分も失われる。今の自分には、己の生存だけでなく、離宮の女たち、シェイプス親子、ペトラオン、そして勇者クライン……多くの命が懸かっている。


 イステルの心を得るために、すべてを危険に晒す博打は打てない。彼女を守るためにも、自分は「ユタカ」ではなく、皇帝レオトでなければならない。


 酒をあおり、孤独に夜を過ごしたい気持ちと、この重苦しい胸の内を誰かに吐き出したい気持ちが交錯し、心は定まらなかった。


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