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24. 誘惑

 運動を終えた後、身を清めに向かっても、なお考えに没頭していたレオトは、柄杓(ひしゃく)でそこを隠すことさえ忘れていた。ランシアは侍女たちと共に、彼を洗い清めるために後ろへ控えていた。


 この三十余日のあいだ、レオトは一日たりとも欠かさず鍛錬のためにここを訪れており、ランシアは当の本人以上にその身体の変化を把握していた。


 ランシアは武家の生まれで、幼い頃から父や兄たちの鍛錬を間近に見守り、共に過ごしてきた。ゆえに男の鍛錬には馴染んでおり、汗を流して鍛える姿を好んだ。


 ランシアの父はよく、

「鍛え上げた体は嘘をつかない」と言っていた。


 鍛え抜かれた男の(たくま)しく均整(きんせい)の取れた筋肉質の身体は、彼女にとって理想でもあった。


 今、目の前にいるこの男は、これまでランシアが見てきた中でも最も美しく理想的な体躯(たいく)を備えていた。つい先ごろまであれほど嫌悪し呪っていたあの男と、到底同一人物とは思えない。 それは肉体だけに限らない。眼差し、言葉遣い、仕草、すべてが異なっていた。何よりも、日々自らを律して鍛錬を続けるその勤勉さと厳格さは、かつてのあの男には決して見られなかった美徳である。


(……どういうことなのだろう?)

 皇帝の肉体の隅々まで知り尽くしているランシアの目から見ても、この男はまぎれもなく皇帝である。肉体はそのままに、精神だけが完全に入れ替わってしまったかのようだ。


 同期間、皇帝は一人の女にも手を触れなかった。鍛錬を終え、ここで身を清める時でさえ、羞じらう少年のように柄杓(ひしゃく)でその部分を隠し、振り返る時には目をぎゅっと閉じてしまう。肉体は確かに女に反応しているのに、まるで修行僧のように最後まで堪え続ける姿だった。


 かつては欲望の塊でしかなかった男とは、あまりにもかけ離れた姿。

 いつも気を張り詰めていた入浴の時間なのに、いまのレオトは柄杓を取ることも忘れ、思索に沈んでいた。


(どうなったのか、何があったのか、突き止めなければ……)

 いまの姿が一時の気まぐれなどではなく、これこそが皇帝の真の姿なのではないか――そう信じたい。もしそうでなければ、これからの生は、さらに深い奈落へと堕ちるだけだ。


 光のひとかけらすら見えなかった頃は、いっそ諦めることができた。家族のために己ひとりを犠牲にすればそれで済むと、受け入れることもできた。


 だが暗闇の中に一条の光が射し、かすかな希望が芽吹いてしまった今、それが実は光ではなく、闇の欺きであったなら――その先に押し寄せる絶望は、さらに深く恐ろしいものとなろう。だからこそ、希望が大きく育ちすぎる前に、生への執着が強くなる前に、真実を確かめねばならない。


(この身をもって確かめるのよ)

 ランシアはそう覚悟を決めた。


 ランシアはそっと手を伸ばし、レオトの背を撫でた。レオトはそれにすら気づかぬほど思いに沈んでいた。指先に伝わる鍛えられた筋肉に、ランシアは思わず胸の奥に高鳴りを覚える。彼女は静かに手を振って侍女たちを下がらせ、ひとりレオトへと歩み寄った。


 背後で何が起きているのか気づきもしなかったレオトは、突如として背を()う熱に息を呑んだ。裸身の女が、しっとりとその肌を押しつけていたのだ。ランシアが身じろぎするたび、絹のように滑らかな感触が背から肩へ、そして腰へと絡みつき、全身を(とろ)かすようなめまいが押し寄せた。


 驚きに身体を離そうとしたレオトだったが、その動きを阻むように、ランシアの両腕が静かに、けれど確かに彼を抱き締めた。


 吐息を混じえた甘やかな声が耳もとを濡らす。

「私は陛下の妻……陛下を欲しては、いけませんか?」


 (つや)やかな囁きに宿る熱が、レオトの心にかすかに残っていた罪悪感や躊躇(ためら)いをことごとく焼き尽くしていく。欲望が理性を覆い、長きにわたり彼を縛っていた節制の鎖が、音を立てて断ち切られた。


 次の瞬間、レオトは身を(ひるがえ)し、ランシアの柔らかな身体をその逞しい腕に抱きすくめた。互いの熱が一気に交わり、抑え込まれていた衝動が、ついに(せき)を切ったかのように(はし)り出した。


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