20. 勇者の登場
レオトが心待ちにしていたペトラオンからの報告が届いた。クィナト地方の各地に配給の施設を設け、飢えに苦しむ人々に食糧を与え始めたという。そして、飢饉で家族を失った一人の少年を引き取り、養子としたともあった。その少年の名は――クライン。
レオトは言葉にしがたい感慨を覚えた。ついに勇者クラインが姿を現したのだ。ここからが、本当の物語の幕開けである。今から一年後、彼は旅立ち、さらに2年を経て、聖剣の完成を待ち決戦の日を迎えることになる。
この十数日のあいだ、レオトは離宮で多くの妃嬪と顔を合わせた。皇帝が足繁く通っていた十数名だけでなく、昼の短い時間に覗きに行く形で、さらに多くの女と会ったのだ。驚異的な記憶力を持つこの身体のおかげで、レオトは彼女たち一人ひとりの名前と特徴を頭に刻み込むことができた。
また、この期間でレオトが知り得たもうひとつの事実があった。――魔王の配下たちは、思っていたほど周到な連中ではない、ということだ。人間を侮っているからなのか、あるいは魔族特有の気質ゆえなのかは、分からない。だが、当初の予想のように、帝国の隅々にまで綿密に勢力を張り巡らせているわけではなかった。
とはいえ、問題は山積みである。皇帝の怠慢と無能、そして暴政の下、有能で志ある者たちはほとんど中央政界から排除されるか追いやられ、無能な取り巻きばかりがはびこるのが現状だった。
何より、宰相や軍務大臣の座を魔王の配下が押さえ、近衛軍をはじめ軍部を掌握していること、これが最大の脅威であった。
ゲームにおいて運命の日――勇者が魔王討伐に乗り込んでくるその時、帝都では「皇帝打倒」を掲げた反乱軍が城下に突入し、帝都守備軍と激しい戦闘を繰り広げていた。宮中においても近衛隊と反乱軍が交戦し、修羅場と化していた。レオトがペトラオンに外で勢力を築かせていたのも、その事態を見越してのことだった。
近衛隊や帝都守備軍が必ずしも自分=皇帝の側に立つわけではなく、勇者や外部勢力を育て呼び込むこの状況は、いわば「親衛隊による政変」に近い。勇者と支援軍が到来するまで、自分と離宮の人々の身をどう守るかが、目下の最優先課題だ。
勇者が来る前に敵に討たれ、魔王に憑依でもされれば、これまでの努力はすべて水泡に帰す。現在、レオトの意のままに動かせる兵力といえば、全員女性で構成された『離宮護衛隊』だけである。
しかしレオトの目には、離宮護衛隊は心もとない存在に映った。武装の水準こそ悪くはないが、規律は乱れており、大半はまともな戦闘訓練を受けていないようだ。
それでも、隊長アンリカ・アステインはひときわ武人らしく見えた。カティルの評によれば、かなりの実力者とのことだ。
宮内大臣シェイプスは、アンリカを必ず味方に取り込むべきだと強く主張していた。離宮護衛隊の隊長という地位に加え、彼女の一族は中央地方に領地を構える有力家門であり、さらに兄は帝都近郊の要塞にて6000騎を率いる将軍であるからだ。
しかし、アンリカはレオトにいっさい隙を見せなかった。女性としては異例なほど短く刈った髪に、化粧気のない素顔、角ばった鎧を身に着け、まるで男の戦士のような風貌だった。事務的な表情と礼儀正しい口調、無関心に近い眼差しは、容易に打ち解けられぬ距離感を生み出していた。
離宮護衛隊に所属していれば、クズ皇帝の所業も散々見てきただろう。彼を人間として相手にしないのは、むしろ当然のことかもしれない。短期間で関係を進展させるのは難しいと判断したレオトは、まずは己の鍛錬に力を注ぐことにした。
この世界には戦士の闘気と同じく、魔力による魔法が存在する。皇帝の持ち物には魔法攻撃を防ぐ強力な護符がいくつもあり、魔法に対してはかなりの防御力があった。しかし、至近距離での肉体的な攻撃となれば話は別だ。近衛隊を全面的に信用できない以上、その点は自ら備えるしかない。
ランシアの居所にある鍛錬場で剣を振るいながら、レオトは傍らで静かに見守っていた彼女へ声をかけた。
「武術を修めてきたと聞いたが、余の剣はどう見える? 実戦で通用しそうか?」
ランシアは慎重な様子で答える。
「とても簡潔で、洗練された剣筋だと思います」
「では、そなたの剣を見せてもらえるか?」
以前とは違い、ランシアはためらわずに前へ出て木剣を取った。レオトは一歩退き、彼女が木剣を振るう姿を見守った。その剣筋は、西洋の剣術を思わせるものだった。
ランシアの演武が終わると、レオトは再び木剣を手に取り、彼女の動きをなぞるように振ってみた。不思議なことに、一度見ただけの型を、そのまま寸分違わず再現できたのだ。
「……本当に、驚くべき才でいらっしゃいます」
ランシアが思わず感嘆の声を漏らした。
驚いているのは、レオト自身も同じだった。これほどとは――まさに天賦の才能としか思えない。偶然かと思い、別の型を見せてもらって真似してみたが、やはり同じく完璧に再現できた。
(この体を持って現代に行けたなら……何をやっても成功して、好き放題に生きられるんじゃないか?)
もはやチートと呼んで差し支えない能力だ。もしかすると、何かが入れ違いになって、自分が勇者の資質を持ったまま「クズ皇帝」の肉体に転生してしまったのではないか――そんな疑念さえ頭をよぎった。
(まさか……勇者の方に何の力もない、なんてことは……?)
これまで想像もしなかった可能性に気づき、レオトは急に不安に駆られた。勇者についての具体的な情報をどうにか手に入れなければならない、と心に決める。
(頼むぞ、勇者……どうか俺の知っているゲーム通りの勇者であってくれ。俺には今の身を守るだけでも手一杯で、とても冒険の旅など出られはしないのだから……)
レオトは切実に、勇者が物語の主役らしくあってほしいと祈らずにはいられなかった。




