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19. 俳優と舞姫

 皇帝に寵愛される妃の中には、かつて舞台俳優だった者も数人いた。その中でも最高の人気を誇った者がいると聞いたレオトは、興味をそそられて、彼女の部屋を訪ねることにした。舞台に立った経験こそないが、自分も俳優だった身だ。多少は話が合うかもしれないと思ったのだ。


 この世界にも演劇は存在する。皇族や貴族が訪れる華やかな劇場もあれば、庶民が楽しむ簡素な野外舞台や仮設の小屋舞台、さらには各地を巡って公演する旅芸人の一座まであるという。


 ケイトリンは、豪華な劇場に所属していた人気女優だったらしい。カティルの言葉を借りれば、不幸にも皇帝の目に留まったせいで、この離宮へ連れて来られてしまったのだという。


 ちなみに、ケイトリンの部屋を訪れる際は、前日に必ず予告を入れるのが暗黙の決まりのようなものだと、カティルから助言を受けていた。今回もその通りに前日に通告してから訪れたのだった。


『帝国一の女優』とまで称された彼女は、一体どんな人物なのか。胸の内にほのかな期待を抱きながら扉を開いたレオトは、思いもよらぬ光景に言葉を失った。


 ケイトリンは化粧っ気のない顔に、粗末な布で仕立てた質素な衣をまとい、濃い赤褐色の髪を無造作に後ろで束ね、素足のままだった。そして何より驚くべきは、部屋の中に一頭の乳牛がいることだった。


「……これは一体、どういう状況だ?」

 呆然と問うたその瞬間、牛がもそもそと動いたかと思うと、部屋の中で盛大に糞をし始めた。ケイトリンと似たような粗末な格好をした侍女たちが青ざめた顔で右往左往しながらも、声を上げることはできず、慌てて掃除に取りかかる。


 ケイトリンは、困惑したようにレオトの顔色を窺いながら答えた。

「先日おいでになった際、陛下が次にお越しの時には、このように準備せよと仰せつけられまして……」


「な、何のためにだ?」

 もはや部屋で牛糞の匂いでも嗅ぎたくなったとでもいうのか? 理解の埒外(らちがい)すぎてレオトは呆れ果てる。


 ケイトリンは嫌そうに続けた。

「農家で牛の乳を(しぼ)っているところを……それを覗き見していた貴族に乱暴される娘、という筋立てで寸劇を用意せよと……」


「……」

 レオトは絶句した。牛は相変わらず我関せずと糞を落とし続け、侍女たちは彼の顔色を気にしながら無言で片づけている。


「それにしても、本物の牛まで用意する必要はないだろう?」


 あまりにも再現に本気すぎる気がして問いかけると、ケイトリンは諦めたような顔で答えた。

「それもまた陛下のご命令で……『娘を辱めたあと、その場で搾った牛乳で渇きを癒す』と……」


「もういい!」

 堪えきれずレオトは彼女の言葉を遮った。


(どこまでも狂った男だ……せめて牛に後ろ蹴りでも食らってくたばっていればよかったものを!)

 心中で毒づきながら、大きく息を吐いて告げる。


「今日はもう帰る。次からは、こんな茶番を用意する必要はない。くだらなすぎてうんざりだ」


 そう言って部屋を立ち去るレオトを見送りながら、ケイトリンはむしろ安堵したように肩の力を抜き、ベッドの端に腰を下ろした。


        ***     ***


 ケイトリンの部屋を出たレオトは、外で待っていたカティルを鋭くねめつけた。

「帰らずに待っていたということは……中でどんな有様か、知っていたのだな」


「牛まで持ち込まれているとなれば、私が知らないわけにはいけませんので」

「なら、止めておけばよかっただろう」


「陛下のご命令を、この私がどうして勝手に取り消せましょう」

 カティルは冗談とも本気ともつかぬ笑みを浮かべた。


 その次に向かったのは、タリアという妃の部屋だった。彼女は『帝国一の舞姫』と名高く、宴の席で幾度も目にした顔だ。(つばめ)のようにしなやかで線の美しい、妖艶な肢体を持つ女である。


 レオトの目を引いたのは、部屋の片隅に天井から吊るされた幾筋もの長い布だった。薄く透きとおる青色の布が床まで垂れている。


「これは……何に使うものだ?」

 近づいて一枚を手に取って撫でてみる。


 すると、そこへ現れたタリアが衣を脱ぎ、下着姿になると布を腕や脚に絡ませ、そのまま空中へと身を躍らせた。


 舞の一種かと眺めていると、彼女は身をひねり、上体をのけぞらせて両脚を大きく開いた姿勢でレオトの目の前に止まった。


「な、何だ、これは……?」

「陛下から、常にこうするよう命じられておりまして……」


 レオトは顔を赤くし、思わず後ずさった。

「もういい。今日はその気はない、服を着ろ」


 タリアは布から降り、衣を身に着け直した。


 レオトはテーブルへどさりと腰を下ろす。心とは裏腹に、身体は正直に熱を帯びていた。欲望を抑えられず、せめて自室に戻って艶本(つやほん)でも開き、一人で慰めたい気分だった。


(……酒でも飲んで眠るか)

 そう思った彼は、侍女に強い酒を持って来させた。


 やがて酒と料理が運ばれてきたが、それだけではなかった。歌姫エンナをはじめ、数人の妃が次々と入ってきたのだ。3人が楽器を奏で、エンナが歌を口にし、タリアを含む5人が舞を披露する。


 透けるほど薄衣をまとった美しい女たちが、優雅な所作で舞い踊る。青い布を手に宙へ舞い上がり、大きく旋回する様は、空に花びらが舞い散るようでもあり、蝶が戯れ合いながら飛ぶようでもあった。


 侍女に注がれる酒を口にしつつ、レオトはぼんやりと見とれた。夢幻に引き込まれるような気分だった。


(町娘を襲うわけでも、他人の妻を奪うわけでもない。なのに、なぜ俺はここで欲望を抑え込まねばならないのか?)


 ふとそんな思いが胸をよぎる。欲望に身を委ね、眼前に広がる快楽の渦に溺れてしまいたい。立ち上がろうとしたその瞬間、彼は激しく首を振った。


 ――彼女らはクズ皇帝の略奪の果てに集められた、欲望の犠牲者だ。誰ひとりとして、心から自分を望んではいない。そんな彼女らを所有物のように扱うのは、まさしくクズ皇帝そのものではないか。


(俺は奴とは違う。奴のようにはならない……!)

 そう心に言い聞かせ、レオトは酒をあおり続けた。酔いすぎれば理性を失うと分かっていたので、ほどよく酔いが回ったところでベッドに向かった。そして、中央に青布を長く垂らしたまま、女たちへ厳しく命じた。


「それぞれの部屋へ戻れ。余はここで眠る。明日の朝、余が起きるまで、誰一人としてこの線を越えてはならぬ」 


 そう言い残し、レオトは重苦しい気分のまま身を丸め、独りで眠りについた。


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