16. 秘密
翌朝の予定を終え、離宮へと足を踏み入れると、メイリンが外に出てレオトを待っていた。メイリンの腕には、自分の身体と同じくらい大きな茶色の布製の熊のぬいぐるみが抱えられていた。レオトが絵に描いて注文させたもの、そのままだった。
「ありがとうございます、陛下。お部屋がすっごく可愛くなりました」
メイリンはぱっと花が咲くように笑みを浮かべ、ぺこりと頭を下げた。
「ぬいぐるみ、気に入ったか?」
「はい。とってもふかふかで、気持ちいいです。ほかのものも全部可愛いんですけど、全部は持って来られなくて……」
「そうか。それなら部屋を見に行こうか」
「はい」
メイリンはためらいもなく先に立って歩いた。これまでの辛苦を思えば、もっと警戒してもおかしくないはずだ。一夜の優しさと約束だけで、こんなにもあっさり心を開いてしまうその無邪気さが、愛おしくもあり、また胸を締めつけた。
メイリンの部屋は以前とは打って変わり、愛らしいぬいぐるみや小物で可憐に彩られていた。メイリンは、抱えている熊のほか、兎や犬のぬいぐるみ、ふかふかのクッション、蝶や花の模様があしらわれた新しい掛け布団まで、得意げに披露してみせた。だがそのうち、何か言いたげにちらちらとレオトを伺いながら、身をもじもじと捩った。
「どうした? まだ欲しいものでもあるのか?」
「そうじゃありません。ただ……あのときのお話が、とっても楽しかったから……」
(話を聞きたい、というわけか)
「おとき話の本も置かせてあるはずだが……」
見回すと、本棚にはいくつかの本が差し込まれていた。その一冊を抜き取り、ざっと目を通す。確かに物語ではあるが、どうやら子ども向けではないようだ。
(まだ、この世界では、そういう発想には至っていないのか)
「ここの本は、少し難しいか?」
メイリンは小さく肩をすくめた。
「コマキの文字は習いましたけど、帝国の文字はまだ知らなくて……読めないのです」
「そうか。なら文字の勉強から始めないとな」
すると、メイリンは待ってましたとばかりに声を弾ませた。
「文字を覚えたら、陛下がお話してくださったみたいなお話も読めるのですか?」
「うむ……まったく同じ話とはいかないが、物語の本は読めるようになるだろう」
メイリンに聞かせた物語は地球のもの、この世界にあるはずがない。でも、物語のない世界など存在しない。きっとここにも面白い話はいくらでもあるはずだ。
メイリンの澄んだ瞳を見て微笑んだレオトは、再びテーブルに腰を下ろした。
「よし、一つ話をしてやろう。ただし明日からはしっかり文字の勉強をするんだぞ」
「はいっ!」
メイリンは元気よく答えた。
そこでレオトは「人魚姫」の物語を語ってやった。……姉たちから授かった短剣で王子を討つ代わりに、人魚姫が海へ身を投げ泡となって消える場面に差しかかると、メイリンの大きな瞳が潤み、ついには涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「かわいそうです……。ほかのお話はみんな幸せになったのに、人魚姫だけがそんな結末だなんて……」
レオトはどう慰めればよいのか困り果てた。
やはりディズニー‧バージョンを話すべきだったか。あちらなら確かにハッピーエンドのはずだ。だがそれは見たことがないので、詳しい筋は分からず、子どものころに読んだ本の記憶どおりに話したのだった。
幸いメイリンはすぐに自分なりの結論を出した。
「悪いのは王子様です。恩を仇で返すなんて、人として道に外れています」
「うーん……王子もわざとそうしたわけではないから、悪いとまでは言えないだろう」
「では、王子を奪った隣国のお姫様が悪いのですか?」
「ん? それもちょっと違う気がするな……」
幼いころこの物語を読んだときの正直な感想は、「人魚姫は馬鹿だ」というものだった。自分を顧みぬ相手のために命を投げ出すなど、後味が悪く、理解しがたい結末。
今回語ったのも有名だからという理由に過ぎず、深い思いはなかったのだ。
「もし罪があるとすれば……愛しすぎたこと、それが罪なのかもしれんな」
ふと真顔になったレオトを見て、メイリンはくすっと笑った。しばらくじっと彼を見つめていたが、やがてそっと近寄り、小声で囁いた。
《パオマクニ・ヌピアパラム。汝の正体を顕わにせよ》
帝国語ではない。それでも、呪文めいた冒頭の言葉を除けば意味は理解できた。レオトはぎくりとし、問い返した。
「……何だと? 正体を顕わせ? そのパオマクニ・ヌピアパラムとは何だ?」
メイリンの顔が恥ずかしさと驚きに染まり、真っ赤になった。どうしていいか分からず、もじもじと口ごもる。
「どうした?」
おずおずとレオトを伺いながら、メイリンは答えた。
「……陛下がコマキの言葉をご存じだとは思いませんでした」
「前の言葉は呪文のように聞こえたが、あれは何だ?」
メイリンは答えづらそうに唇を噛み、黙っていた。
「怒ったりはしない。だから話してごらん」
「……ほんとうに、怒りませんか?」
「ああ、約束する」
それでもメイリンはしばらく逡巡したのち、ようやく恐る恐る口を開いた。
「マクニとは、コマキに伝わる邪霊の一つです。人の体を奪ってその人になりすまし、ありとあらゆる悪事を働くとされています。……さっきの言葉は、そのマクニに正体を暴かせる秘密の呪文なのです」
「つまり……君は余がその邪霊ではないかと疑ったのか?」
メイリンは目を丸くし、はっと息を呑んだ。
「そういえば……私、勘違いしていました。もしマクニが憑いていたなら、今の陛下ではなく……以前の陛下だったはず……」
そう言った瞬間、自分の口走ったことに気づき、両手で慌てて口を押さえた。
レオトは声をあげて笑い、メイリンをなだめるように言った。
「叱っているわけではない。心配するな」
そう言って、メイリンの顔にぐっと身を寄せ、小さな声で囁いた。
「もしかすると……君の考えが正しいのかもしれん」
そうして、シェイプス父子に語ったのと同じ「物語」をメイリンにも打ち明けた。突如として変わった自分の言動に、納得のいく説明を与える必要があると考えたのだ。
メイリンはシェイプス父子と同じく――いや、それ以上に、その話を真剣に受け止めた。
「やっぱり……。どうりで、以前の陛下とはまるで別人のように思えました」
「力をさらに蓄え、余をこうした敵を討ち倒すまでは、この事実は決して外に漏れてはならぬ。奴らは魔王直属の部下ゆえ、恐ろしく強大だ。しくじれば、余も、この離宮の者たちも皆危険に晒される。分かったな?」
「はい。絶対に口外いたしません」
メイリンは小さな拳をぎゅっと握り、固く誓った。
「これからは、夜ではなく昼に時々顔を出すことにしよう。子どもは早く床につくものだからな」
「……子どもじゃありません」
むくれたように返すメイリンに、レオトは笑みを浮かべて頭を撫で、部屋を後にした。
開け放たれた扉越しにそのやり取りを聞いていたカティルが、静かに微笑みながら前へ歩み出た。




