105. 生の意志
クラインの生存を確かめて胸を撫で下ろしたセイツは、マリゼのいる方へと視線を巡らせ、そこで氷のように凍りついた。
マリゼは、セイツの方を向いたまま、きちんと背筋を伸ばして座っていた。黒く艶やかだった髪は真っ白に変わり、大きく見開かれた青緑の瞳は、はっきりとこちらを見据えている。
その傍らでは、チェドウィックとジェニンがその場に崩れ落ち、嗚咽を漏らしながら涙を流していた。
マリゼの首にかかった貝殻の首飾りが、セイツの目に痛いほど飛び込んできた。
セイツは、自分でも気づかぬうちに、マリゼへ向かって歩み出していた。
降りたばかりの雪のように、穢れを知らぬ存在。自分が触れれば、その清らかさを汚してしまいそうだった。いや、彼女に、自分の俗物的な本性や損得勘定のすべてが暴かれてしまうのが、恐ろしかったのかもしれない。
自分は、彼女には釣り合わない。本当の自分を知ったら、きっと失望して離れていくだろう。
セイツはずっとそう思っていた。だからこそ、マリゼの想いに気づきながらも知らぬふりをし、何の感情も抱いていないかのように装ってきた。
幼く純粋な少女の、一時の淡い夢。すぐに色あせて消える感情に過ぎないと、自分に言い聞かせて。
だが先ほど、デシオールの「死」が自分に手を伸ばした瞬間、それを振り払ったのは紛れもなくマリゼの力であり、彼女の意志だった。
自らの命火が消えかけていたその刹那にも、彼女は最後の力をセイツへと送り届けたのだ。
*** ***
マリゼは、薄闇の中にひとり座っていた。
周囲には誰もいない。どんな物音も存在しない、静寂と孤独だけが満ちた空間だった。
(やっぱり、私は死ぬのね……)
徹底してひとりで迎えるもの。それが、死の本質なのだろう。
悲しいけれど、不思議とどこか静かでもあった。覚悟していたことだからかもしれない。
(みんなを守れた……それで、いいのよ……)
その時、前方に、淡い光に包まれた人影が現れ、マリゼへと近づいてきた。
父と母、そして兄弟たちだった。優しい面持ちで歩み寄った彼らは、どこか悲しげに微笑みながら、マリゼのそばを通り過ぎていく。
それに続いて、侍女エマ、神官戦士ジェニンなど、彼女が知る人々が一人ひとり、別れの挨拶でもするかのようにマリゼの脇を通っていった。
その次には、この数日で縁を結んだ人々が現れては、また消えていく。
自分を知るすべての人との別れ。胸が締め付けられるように悲しく、痛かった。
それでもマリゼは泣かなかった。彼らを守ることができたのだから、自分の死は無駄ではないのだと、そう思えたから。
やがて、三人の子どもが手をつないで現れた。光に包まれているせいで顔立ちははっきりとは見えないが、初めて見る子どもたちだということだけは分かった。
それなのに、どういうわけか少しも他人とは思えなかった。
子どもたちは、キャッキャと明るく笑いながら駆け寄ってくると、一人ずつ順番にマリゼをぎゅっと抱きしめ、彼女の脇を通り過ぎていった。
その後ろから、一人の男が歩いて来る。やはり顔は光に覆われて見えない。
男はマリゼの目の前で足を止め、彼女に向かって片手を差し出した。その顔は見えないのに、不思議と、優しく微笑んでいることだけは分かった。
その瞬間、マリゼは悟った。
これは、彼女が得ることもできたはずの未来なのだと。先ほどの子どもたちがまるで見知らぬ存在に思えなかった理由も、彼らの小さな腕の温もりが、どうしようもなく愛おしく感じられた理由も、ようやく理解できた。
(この手を、取らなきゃ……)
あまりにも切実に、その手を握りたかった。
しかし目に見えない鎖で縛られたかのように、指先ひとつ動かすことができない。
彼女の身体は、すでに少しずつ下へと沈んでいっていた。
マリゼは、呑み込まれまいと必死に抵抗し、どうにか身体を動かそうともがいた。
このまま死にたくない。彼の手を取って、もう一度世界へ戻りたい。
胸が引き裂かれそうだった。あまりにも悔しく、やり切れなく、そして何よりも切実だった。
彼の手が、すぐ、目の前にあるというのに。何もできず、ただ死へと引きずり込まれていかなければならないなんて。
声をあげて泣き叫びたいが、唇さえも動いてくれない。ただ、悲しい涙だけが絶え間なく頬を伝い落ちていった。
マリゼの身体が、ほとんど闇に沈みかけたその時、男が一歩、さらに近づいた。目前に迫ったその顔が、今度ははっきりと視界に映る。
(セイツ様……)
彼の手がマリゼの手をしっかりとつかみ、力いっぱい引き上げた。
マリゼの身体は一気に上へ引き上げられ、足首をつかんでいた死の奈落から解き放たれていく。
*** ***
セイツは、自分が何をしているのかさえ意識しないまま、膝をついてマリゼを抱きしめていた。
小さくてか弱い身体は、氷の彫像のように冷え切っている。その冷たさが、言葉にできない喪失感を胸に呼び起こした。
力なく垂れていたマリゼの指先が、やがてかすかに動き始めた。続いて、彼の背へとそっと腕が回される。
驚いたセイツが顔を上げた。
マリゼは、夢見るような微笑を浮かべてささやいた。
「あなた、だったのですね。死の中から、私をつかまえてくださった方は……」
そう言って、静かに瞳を閉じた。
「マリゼ!」
チェドウィックが慌てて駆け寄ると、すぐさま様子を確かめたジェニンが口を開いた。
「ご安心を。力を使い果たして眠っておられるだけです」
*** ***
一方そのころ、どうにかメイナードの腕から逃れたクラインは、口元を押さえて今にも泣きそうな顔で詰め寄っていた。
「今の、何してたんですか!」
「何って、お前にこれを飲ませておったのだ。エリクサーだよ。お前も名前くらいは聞いたことがあるだろう?」
メイナードは、エリクサーが入っていた瓶をひょいと掲げてみせた。
「すっかり息が止まっておったからな、そのままじゃ飲ませようがなかろうが」
そう言いかけたところで、ふと自分の手に目を落とし、怪訝そうに首をかしげる。
つい先ほどまで骨ばかり浮き出て、枯れ枝のようだったその手に、血の気が戻っていた。それどころか、全身に力がみなぎり、驚くほど爽快な気分さえしてくる。魔力も、完全に回復していた。
「ふむ、一滴残らずお前に飲ませたつもりだったんだがな。多少はわしの方にも吸収されてしまったらしい」
感心したように呟いたメイナードは、デシオールがいた場所に残されていた魔石『生の意志』を収めた。それは、死の対極としての生命の活力と、生きようとする意志を体現するかのように、澄み切った紅の光を明るく放っていた。
これで、聖剣の主要な素材はすべて揃ったことになる。
魔導士たちの様子を一通り見渡したメイナードは、彼らのもとへ歩いていった。
ブラットをはじめ、誰も彼もが20年は老けてしまったかのように、やつれ果てている。
「さあ、腰を下ろしなさい。回復を手助けしてやろう。エリクサーのおかげで、こっちはすっかり元気になっておるからな」
メイナードが腰を下ろすと、足元に魔法陣が展開し、彼のもとから溢れ出した魔力と癒やしの力が、3人の魔導士へと流れ込んでいった。




