100. 準備
ロジテアン邸の庭園の一角で、マリゼが小さなじょうろを手に、花木に水をやっていた。すぐそばには庭用の剪定ばさみを持ったエマと、筆頭庭師、それに神官戦士ジェニンが控えている。
庭づくりは、マリゼが「一度やってみたい」と願っていたことの一つだった。当主エタンが家の者たちに「マリゼが望むことがあれば何でも叶えてやれ」と命じていたので、誰もが彼女の言葉を聞くや否や、何であれ全力で付き合っていたのである。
庭師にあれこれ質問しながら花木の手入れを終えたマリゼは、クラインたちが訓練している訓練場へ、飲み物と軽食を運んでいった。
ちょうど訓練場では、クラインとセイツが実戦形式の訓練を行っているところだった。軽装での模擬戦とはいえ、使っているのは本物の武器であり、その激しさは本番さながらだった。
「すごい……!」
マリゼの目がまん丸になる。こうしたことにはまるで疎い彼女の目にも、二人の動きが只者ではないと分かった。
神官戦士ジェニンも、固唾を飲んで二人の手合わせを見守っていた。フォルミオサ教団でも屈指の腕を持つジェニンだが、その彼女の目から見ても、二人とも「一般の域」をはるかに超えた、途方もない実力者だった。どこへ行っても最上級の待遇で迎えられるだけの強者であることは間違いない。
とりわけ、ジェニンの視線はセイツが握る二本の剣に引き寄せられた。右手の長剣の刃には、ワニの背びれのようにくっきりとした鱗模様が浮かんでいる。マシェト鋼の剣の中でも、一流の職人が鍛えた名品に違いない。
さらに左手に持つ、氷の錐を思わせる蒼白い光を放つやや短い剣は、一目で魔法武器だと分かる代物だった。
(傭兵団長だと聞いていたけれど、どうやってあんな武器を……?)
セイツの武器に見入っているのは、ジェニンだけではなかった。ロジテアン家の配下である主な士官たちや、訓練を見に来ていたエタンとチェドウィックも、同じものに目を留めていた。
エタンが身を乗り出し、隣のジーフリートに小声で尋ねる。
「セイツとかいうあの傭兵団長が手にしている武器、あれは……パジャイラフの剣ではありませんか。どうしてあんなものを? ああいった品は、金の問題ではなく、そもそも物自体がそうそう手に入らんはずでは?」
「陛下から直々に下賜されたと聞いております。とりわけ左手の魔法剣は、陛下自ら『セイツの錐』という名までお付けになったとか。
先日のタイプロス戦では、私とクラインと共に最前線で奴と戦い、あの『セイツの錐』で決定的な好機をこじあけたのです」
「皇帝陛下が、直接お与えになったと?」
エタンは改めて目を見張り、セイツをいっそう注意深く観察した。皇帝が遣わした勇者一行の中に、傭兵団が混じっていることに、エタンは内心少なからず疑問を抱いていた。だが、ジーフリートの説明に加えて今目の前で繰り広げられている実力を見れば、並の傭兵などではないと納得せざるを得ない。
エタンの視線は、マリゼへと移った。目を輝かせて二人の攻防を見つめる彼女の身体から、ほのかに白い光がにじみ出ている。感情が高ぶったり、力を発揮する時に自然と現れる現象だった。
ジーフリートが、静かに言葉を継ぐ。
「ブラット・ヘジャ卿からお聞き及びかどうか分かりませんが……セイツは、陛下がとりわけ目をかけておられる人物です。いつか大きくお使いになるおつもりなのでしょう」
エタンは少し考え、それから口を開いた。
「女たちが夢中になりそうな顔をしておるが、女関係が派手だったりはしませんかね?」
「その点の心配はまったくございません。自制心が強く、立ち居振る舞いも申し分ない男です。クラインにとっても良い手本になっております」
それを聞いたエタンは、心配そうにマリゼを見つめているチェドウィックに、低い声で言い含めた。
「注意深く見守りはするが、軽々しく口出ししたり、ぞんざいに扱ったりはするな。この戦いに勝ち抜き、マリゼを守り抜くためにも、彼らの力は欠かせん」
*** ***
ロジテアン邸の一角にある大きな納屋では、魔導士たちによる儀式が最中だった。納屋の片側には、ここ数日で市場から買い集めた家畜がつながれており、もう一方ではメイナードとブラット、ルトレクが魔法陣の中で作業を続けている。
それらは、厳しい選別を経て特別に選び抜かれた牛やヤギ、羊だった。選別の条件はきわめて厳しく、まだ一度も子をなしていない、ちょうど成獣になったばかりの個体──その中でも、病気や身体の異常、傷ひとつない極上のものだけが、ようやく「候補」となれた。
魔法陣の外に立つウォレンが、家畜を一頭ずつ中へ追い込む。ルトレクが銀製の水瓶から聖水を振りかけ、身体を清める儀式を行う。続いてブラットが、特製の塗料を使って額に魔法の紋を描き、メイナードの前へと送り出した。メイナードは、その魔法紋の上に手を置き、呪文を詠唱して家畜を眠らせ、仮死状態にしてから、そのまま異空間へと送り込んでいった。
黙々と同じ作業を繰り返すことしばし、メイナードが手を上げて告げた。
「今日は、この子までにしておこう」
最後の牝牛の処置を終え、疲れの色をにじませながらメイナードが魔法陣から出てくると、足元に描かれていた陣はすっと消え失せた。
魔法陣のあった場所を、真剣な眼差しで見つめている若い魔導士たちを見て、メイナードはふっと笑う。
「あとでちゃんと教えてやるから、いい加減な真似事はやめておけ。本来は〈禁忌〉に属する術だ。失敗すれば、術者に呪いがそっくり返ってくる」
その言葉に、3人の魔導士は顔を輝かせ、一斉に頭を下げた。
「ありがとうございます!」
メイナードは表情を引き締め、念を押す。
「言ったとおり、これは禁忌の術だ。むやみに使ってはならん。どうしても守り抜かねばならない者がいる。そのとき以外は、封じておくのが筋だ。そのことを忘れるな」
「はい!」
3人は声をそろえて答えた。
メイナードが準備している魔法は、〈呪いの置換〉と呼ばれる術式だった。通常の手段では打ち消せない強力な呪いを、別の存在へと移し替える秘伝の魔法。
中でも、メイナードが行おうとしているのは、デシオールが撒き散らす「死の呪い」を、別の供物へと引き受けさせる──この系統でも究極と呼ぶにふさわしい術だった。
ルトレクとウォレンが残って後片付けに取りかかるあいだ、メイナードとブラットは一足先に屋敷へ戻った。
「メイナード様からご覧になって……マリゼは、最後まで耐えきれると思われますか?」
ブラットが心配そうに問いかける。
ブラットにとっては、デシオールを食い止めることと同じくらい、従妹でもあるマリゼの身の安全が気がかりだった。今メイナードがしている準備も、少しでもマリゼの負担を減らすためのものに他ならない。
「〈死の力〉を受け止めて打ち消す仕事だ。強大な霊能力に加えて、並外れた意志の力がなければ務まらん。
マリゼは、魂の澄んだ、純粋で強い子だ。家族や人々を守りたいという意志も、信念も強い。
それでも必ず限界は来る。そのときが正念場になるだろう。生への激しい執着や、〈どうしても手放せない未練〉みたいなものが、そういう局面では一本の綱になる。だが、今のマリゼには……そのあたりが少し足りないように見える」
「……愛や、怒り、憎しみ、といった感情のことでしょうか?」
ブラットの問いに、メイナードはゆっくりと頷いた。
「まあ、そういう類のものだな。人を狂わせもすれば、信じられない力を引き出させもする、あの手の激しい感情だ」
ブラットは苦い顔で言葉を返す。
「ですが、そうした感情は〈毒〉にもなります。分別を失わせ、堕落や破滅の元凶になることも多い。死んだあとも魂が行くべき場所へ行けず、悪霊に堕ちてしまうことだって……」
「そのとおり。まさに両刃の剣さ」
そう言って、メイナードは長く息を吐き、ベッドの端に腰を下ろした。
「今のところ、我々にできるのは、せいぜい最善の準備を整えておくことだけだ。君も疲れているだろう。今日は休みなさい。明日もまだ、やるべき仕事が残っている」
メイナードに礼を述べて部屋を出たブラットは、廊下を歩きながら物思いに沈んだ。
マリゼの心をこの世につなぎとめておけるほどの、激しく強烈な感情。そんなものが、まだ幼く、ようやく世間に出たばかりのマリゼにあるはずもない。
マリゼがセイツに好意を抱いていることは、ブラットも気づいていた。本人は気取られていないつもりなのだろうが、セイツを見るときの瞳の色や、彼女自身も自覚しないまま身体からこぼれる淡い光のせいで、気付かないほうが不自然なくらいだ。
しかし、それを「本当の恋」と呼べるだろうか。世間も男も知らない、無垢な少女が抱く、漠然とした憧れ。あるいは甘い夢に近い感情ではないのか。
幸いなことに、セイツも同じような判断を下したらしく、大人びた対応を見せている。適度な距離を保ち、節度を守った態度で接し、決して自分からは近づこうとしない。これまで彼を見てきて「評価に値する男だ」と思っていたが、その評価はやはり正しかったと、ブラットは静かに確信する。
(夢は、夢のままにしておいたほうがいいのかもしれないな。むやみに心の平穏をかき乱すのは、得策じゃない)




