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10. 決断

 初日ということもあり、ほどよく鍛錬を終えたユタカは、心地よい爽快感を覚えながら外へ出た。すると、女たちがあちこちで群れをなし、不安げに落ち着きなく歩き回っているのが目に入った。


 彼女らが慌てて頭を垂れ、道を避けるその仕草には妙な緊張と恐怖が漂っていたが、ユタカは「いつものことだろう」と受け流した。


 その時、不思議な音がどこからか聞こえてきた。女の歌声だった。高く澄んだその声色は、しかしあまりにもか細く、震えに満ち、すすり泣きが混じっているようでもあった。


 ただ事ではない、と直感したユタカは、その声をたどり足早に進んだ。そして一つの部屋の扉を開いた瞬間、ユタカは凍りついたように立ち尽くした。


 3人の女が薄衣一枚の姿で柱に縛られ、その前には裸のタランダルが鞭を手にして立っていた。女たちはすでに幾度も打たれたのか、衣は裂け、血に濡れていた。


 歌は中央に縛られた女が口にしていた。小さな顔は涙と苦痛に歪み、瞳には深い悲嘆が宿っている。ユタカと目が合った瞬間、女の瞳に絶望が浮かんだ。


 あらためて思い知る。自分――いや、このクズ皇帝という存在は、生きているだけで災厄そのものなのだと。


 タランダルが振り返り、顔を輝かせた。

「久しぶりに『瀕死の鳥の歌』を楽しんでいたところです。こうして聴くのを、陛下もお好みでしたでしょう? もう一度歌わせましょうか?」


 タランダルが鞭を振り上げる。その手首をユタカは素早くつかんだ。

「いや、今日は歌を聴く気分ではない。次の機会にしよう」


 本音を言えば、この場で叩き伏せてやりたい。だが、これは単純に片づけて済む問題ではない、と直感した。宮内大臣の言ったとおり、この男は皆の目前で公然と裁かねばならない。


 ユタカはできる限り寛大な笑みを浮かべ、穏やかな声を出した。

「ランシアの部屋で派手に遊んだら、さすがに疲れた。宴まで休んでおこうと思う。

 それにしても今日は、ひとりでずいぶん派手にやったようだな。少々、度が過ぎたのではないか?」


 タランダルは鞭を放り、にやにやと笑った。

「今日は妙に言うことを聞かなくてですね。ここ数日打たなかったら、肝が据わったのか逆らってきやがる。……結局、自分も叩かれ、侍女たちまで巻き添えになるだけなんですがね」


 こいつを殴り飛ばしたい。拳が震えるのを必死に抑え、ユタカも作り笑いを返した。

「今夜の宴で存分に楽しむためにも、君も休んでおいた方がいい。先に行ってくれ。余は身を清めてから一眠りするとしよう」


 タランダルは未練の残る顔つきで、慌ただしく服を着ると侍女に従って部屋を出ていった。


「……縄を解いて治療してやれ」

 ユタカは感情を押し隠した無表情を装い、そう命じてから離宮を後にした。


 *** ***


 タランダル――あいつを確実に葬らねばならない。


 自室へ戻る道すがら、ユタカの頭にあったのはその思いだけだった。シェイプスやカティルの進言がなくとも、そうすべきだと考えていた。そして今、その考えは揺るぎない決意へと変わった。


 人の皮をかぶっているにすぎず、到底「人」とは呼べぬ卑しい存在。他者の苦痛を快楽とするサイコパス――それが皇帝であり、タランダルという男だった。


 部屋に入ると、ユタカはカティルに尋ねた。

「『瀕死の鳥の歌』とは何だ? タランダルの奴が、ある妃を打ちながら歌わせていた」


「……エンナ様でしょう。『瀕死の鳥の歌』とは、伝説の魔鳥トラピアーゾにまつわる物語に出てくる歌です。

 トラピアーゾは遥か高みを飛び続け、一生を空で過ごすとされています。やがて死期が近づくと力尽き、海の真ん中に浮かぶ島へ降り立つのです。そのとき、命尽きる間際にただ一度だけ、哀しくも美しい声で歌を響かせる――それが『瀕死の鳥の歌』と呼ばれております」


 ユタカは、先ほど耳にした切なく胸を締め付ける旋律を思い出した。

「……実際に聴いて、それを真似て歌っているのか?」


「さあ、どうでしょう。もともと海でその歌を耳にした者は、深い悲嘆に呑まれ、自ら海に身を投じて死ぬと伝えられています。


 ですが、かつて罪を犯してマストに縛られていた男がいて……そのために海へ飛び込めず、ただひとり命を拾い、その後、他の船に救われて曲を伝えた――そんな逸話も残っております」


「……あのエンナという女、実に美しい声だった」

「帝国随一の歌姫と称される方ですから」

 なるほど、凡庸な声ではなかった。


 だが、これほど無知で、幼稚きわまる発想があろうか。瀕死の歌とは、本来は生命の終焉に立ち会う悲しみを歌うものだろうに。それを肉体の苦痛と結びつけるとは。


「……今夜の宴で、タランダルを始末する。あれを生かしておいては何事も進められん」

「私は何をすればよろしいのでございましょうか?」


「人前で狂ったふりをして事を起こす。そなたは、私が本当に正気を失ったわけではないと分かっていてくれればいい」


 どうせ手を血に染めねばならぬのなら、最も効果的な方法を選ぶ。

 ユタカは、人々の目の前でタランダルを自ら斬り捨てる覚悟を固めた。


 一度でも〈本物のクズ皇帝らしい狂態〉を演じて見せれば、その後に多少違う振る舞いをしても「気まぐれ」や「別種の破滅的行為」と受け取られるだろう。また、誰も軽々しく離宮に立ち入ることを許さぬ威を示すこともできる。


 しかし、いかに外道といえど、人をこの手で殺めるのは、やはり恐ろしく、身がすくむことだった。虫を除けば、小さな動物すら傷つけたことはないのだ。


(……これはゲームの世界だ。ゲームのように片をつければいい。ゲームでは幾度となく繰り返したことだろう)


 かつて映画で殺し屋の役を演じた際、ロシアの格闘術システマを学んだことがある。教官は軍人上がりで、実戦経験を持つ人物だった。戦闘モードに入ったときの彼の眼差しは、常人とはまるで異なっていた。


 あのとき彼は言っていた。「刃で人を刺し殺すのは、思うほど容易ではない」と。


 ユタカは、どう状況を演出し、どう動作を取るべきか、鏡を前に何度もイメージしながら練習を繰り返した。


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