8話『高慢な先輩冒険者』
「……本気で言ってるのかい? 死ぬよ、確実に」
受付の女性職員が、最後の忠告とばかりにアンナの顔を覗き込む。しかし、アンナの決意は微塵も揺らがなかった。
「死にません。わたくしには、やらなければならないことがあるんです」
そのあまりにも真っ直ぐな瞳に、職員はついに根負けした。彼女は大きなため息をつくと、依頼書に「受理」のスタンプを乱暴に押し付けた。
「……ああ、もう知らない! 受付は済ませたよ! あんたたちが今から竜の餌になろうが、怪物に食われようが、私には関係ないからね! さっさと行って、二度とこのギルドに顔を見せるんじゃないよ!」
投げやりな言葉とは裏腹に、その声にはわずかな心配が滲んでいるのを、アンナは感じ取っていた。
「ええ、ありがとう。行ってまいります」
優雅に一礼し、くるりと背を向けるアンナ。カナリアも慌てて「し、失礼します!」と頭を下げ、主人の後を追った。ギルド中の冒険者たちの、呆れと好奇が入り混じった視線を背中に感じながら、二人は出口へと向かう。
その、時だった。
「ほう、命知らずなお嬢さんたちだこと」
凛とした、しかしどこか棘のある声が、二人の背中に投げかけられた。
振り返ると、そこに立っていたのは、先ほどから受付の職員と何やら口論をしていた、一人の女性冒険者だった。
陽光を反射してきらめく、見事な金色の髪。意志の強さを感じさせる、アメジストのような紫色の瞳が、アンナたちを値踏みするように細められている 。体にぴったりとフィットした、女性的な曲線を描く軽装鎧は、隅々まで磨き上げられ、まるで美術品のような輝きを放っていた。腰に提げた優美なレイピアもまた、実用品というよりは芸術品の趣がある 。
その女性――ブリジット・スヴァンフルートは、アンナとカナリアが身に着けている、卸したてで傷一つない装備を一瞥すると、あからさまに嘲りの笑みを浮かべた 。
「あなたたちのようなお嬢さんは、おとなしくお花摘みでもしていた方が、身の丈に合っているのではなくて?」
彼女の胸元で、青銅でできたDランクのギルドバッジが、見せつけるように鈍い光を放っている。れっきとした先輩冒務者からの、明確な侮蔑だった 。
カナリアは怯えたようにアンナの後ろに隠れたが、アンナはその挑発に臆することなく、まっすぐな瞳でブリジットを見返した。
「ご忠告ありがとう。でも、大丈夫」
アンナは、にこりと微笑んだ。その笑顔には、何の屈託も悪意もない。
「なんとかなるし、なんとかするから!」
それは、絶対的な自信でも、根拠のない楽観でもなかった。ただひたすらに、そうすると決めているのだという、純粋な決意の表明だった。
そう言い放つと、彼女はもうブリジットに興味はないとばかりにくるりと背を向け、再びずんずんとギルドの出口へ向かって歩き出す。
「わ、私もできればお花摘みからやりたいんですけど、アンナ様はこうなるともう聞かないもので……! あの、ご親切にどうも、失礼します!」
カナリアもまた、困り顔でぺこりとブリジットに頭を下げると、慌てて主人の後を追いかけていった。
あまりにも真っ直ぐな反応に、逆に面食らったのはブリジットの方だった。普通なら、ここで反発してきたり、あるいは泣き出したりするだろう。それをどう論破してやろうかと、いくつも言葉を用意していたのに、すべてが空振りに終わってしまった。
「ちょ、ちょっと待ちなさい!」
ブリジットは思わず声を張り上げ、二人の後を追う。
「あなた、レッサードラゴンの危険性を本当に理解しているの!? 竜種のブレスは並の防具など容易く溶解させますし、その膂力はオークをも凌駕しますのよ! ましてや、アントゥルーが出没する地域ですのよ! あれがどれだけ厄介な代物か、ご存知ないでしょう!」
早口でまくし立てるブリジット。その言葉は、確かに先輩冒険者としての知識と経験に裏打ちされたものだった。だが、アンナは足を止めることなく、肩越しに振り返って答えた。
「うん、知ってる。だからこそ、私が行かなきゃいけないの」
その瞳は、ドラゴンの脅威ではなく、もっと別の、遥か遠くの敵を見ているようだった。
何を言っても暖簾に腕押し。ブリジットは苛立ちと、自分でもよくわからない焦燥感で、思わず声を荒らげた。
「なぜそう、話を聞かないのですか! あなたのような無謀な初心者が無様にやられでもしたら、このギルド全体の評判に関わりますのよ! 迷惑ですわ!」
「迷惑……」
アンナはそこで、ぴたりと足を止めた。そして、ゆっくりとブリジットの方へ向き直ると、その紫色の瞳をじっと見つめた。
「……そうか。あなたは、私たちのことを心配してくれてるんだね」
「――は?」
予想の斜め上を行く言葉に、ブリジットの思考が完全に停止する。
アンナは、ブリジットの棘のある言葉の奥にある、不器用な優しさを、いとも簡単に見抜いていた。
「ありがとう。優しいんだね、あなた」
花が綻ぶような、一点の曇りもない笑顔。
その瞬間、ブリジット・スヴァンフルートの、常に冷静沈着を装っていた顔が、カッと音を立てるかのように真っ赤に染まった。
「なっ……! わ、わたくしが、いつ、あなたなんかを……! か、勘違いしないでくださる!?」
必死に否定するが、その動揺は誰の目にも明らかだった。ギルドのあちこちから、こらえきれないといった様子の忍び笑いが漏れ聞こえてくる。
「わたくしはただ! そう、ただ、あなたたちのような初心者が無謀な挑戦をして、ギルド全体の士気と評判を落とすのが、Dランク冒険者として許しがたいだけですわ! そう、それだけですのよ!」
自分に言い聞かせるように叫ぶブリジットだったが、アンナは「うん、うん」と優しく頷くだけで、まったく取り合わない。
ついに、ブリジットは観念したように、天を仰いで大きな、大きなため息をついた。そして、何かを決意したように、再びアンナを睨みつける。
「……もう、こうなったら仕方ありませんわ!」
ビシッと、白魚のような指がアンナに向けられる。
「あなたたちが無様にやられて、森の肥料になる前に! このわたくしが、特別に! 手を貸して差し上げますわ! 不本意ですけれど! ええ、まったくもって不本意ですけれどね!」
それは、彼女の高慢なプライドが導き出した、最大限の救いの手だった。
「いや、それはちょっと……」
一部始終を見ていた受付の職員が、困ったように口を挟んだ。
「ランク持ちの冒険者が、新人の認定クエストに手を貸すのは、規則で禁止されてるんだよ。不正行為になっちまう」
「何ですって!? わたくしは善意で……いえ、ギルドの名誉のためにやむなく協力すると言っているのに、それを規則で縛るというのですか!」
ブリジットが職員に食ってかかり、再び口論が始まろうとした、その時だった。
「――構わんさ」
低く、しかしよく通る声が、ギルドの喧騒を静まり返らせた。
声のした方へ誰もが目を向けると、ギルドの奥にある事務所から、一人の壮年の男がゆっくりと姿を現した。年は五十代後半だろうか 。がっしりとした体躯は未だ衰えを知らないようだが、その手には年季の入った杖が握られ、足を引きずるようにして歩いている 。
しかし、その男の眼光は、まるで獲物を前にした獅子のように鋭く、ギルド内のすべての人間を射竦めるほどの威圧感を放っていた。
その男こそ、この冒険者ギルドの責任者であり、かつては『獅子の牙』と謳われた元Sランクの凄腕冒険者、フェルディナンド・ドラクロワだった 。
フェルディナンドはゆっくりとカウンターまで歩み寄ると、アンナ、カナリア、そしてブリジットの三人を順に見た。
「マスター……しかし、規則では……」
「規則は、平時のためのものだ」
フェルディナンドは職員の言葉を遮った。
「このご時世だ。実力ある者が協力し、アントゥルーの脅威に立ち向かうというのなら、文句はない。むしろ歓迎しようじゃないか」
彼の言葉には、誰も逆らうことができない重みがあった。
「それに……」
フェルディナンドは、アンナの曇りなき瞳と、ブリジットの不器用な正義感、そして二人の間でオロオロしているカナリアの姿を見て、口の端に楽しげな笑みを浮かべた。
「なんだか面白いチームになりそうだ。なあ、お嬢さんたち」
その鶴の一声で、すべては決した。
こうして、向こう見ずな新人令嬢と、心配性のメイド、そして高慢ちきな先輩令嬢という、奇妙でちぐはぐな三人組のパーティは、ギルドマスターの特例承認の元、正式に結成されることになった。
「感謝なさい! わたくしとパーティを組める栄誉を、噛みしめるといいですわ!」
ふん、と胸を張るブリジット。
「は、はあ……よろしくお願いします……」
ぺこりと頭を下げるカナリア。
そして、アンナは満面の笑みでブリジットの手を握った。
「うん! よろしくね、ブリジット! これで仲間ができた!」
父の言葉を思い出し、アンナの心は温かい希望で満たされる。
これから始まるのが、絶望的な怪物との戦いであることも忘れ、彼女はただ、新たな仲間との出会いを心から喜ぶのだった。