4話『苦戦と決意』
「アントゥルゥゥゥゥッ!!」
かつての親友だった少女の口から放たれたとは思えぬ、おぞましい絶叫が森に木霊した。変わり果てたカナリア――いや、怪物『アントゥルー』は、アンナを明確な敵と認識し、そのどす黒く変色した瞳に破壊の衝動だけを宿して大地を蹴った。
凄まじい突進。アンナは咄嗟に横へ跳んでそれを回避する。直前まで自分が立っていた場所の地面が、アントゥルーの薙ぎ払った剛腕によってえぐり取られ、土くれが宙を舞った。その一撃の威力は、暴れ馬の比ではなかった。
「カナリア! しっかりして、私よ、アンナよ!」
呼びかけながらも、アンナは休むことなく動き続ける。アントゥルーが振り回す鋭い爪を、紙一重で見切り、木の幹を蹴って三角飛びでその背後を取った。そして、渾身の力を込めた回し蹴りをその背中に叩き込む。常人であれば骨が砕け、内臓が破裂するであろう一撃。しかし、アントゥルーはわずかに体勢を崩しただけで、まるで意にも介さないかのように振り返った。
「ぐっ…硬い…!」
アンナの足に、岩を蹴ったかのような痺れが走る。持ち前の常人離れした身体能力だけでは、この怪物には通用しない。ダメージを与えられないばかりか、その動きは速く、力はあまりにも強大だった。
「ククク…無様だな、ミラージュティアドリーム。その程度の力で何が守れる?」
戦いを傍観していたラメントが、嘲笑を込めて呟いた。
「お前は光の使者の模倣品。その力も、心も、すべてが借り物のニセモノだ。そして、ニセモノは本物にはなれない。心の弱さを抱えたままでは、闇の力に染まったあの出来損ないにすら勝てはしないのだよ」
ラメントの言葉が、冷たい刃のようにアンナの心を突き刺す。だが、今はそれに構っている暇はなかった。アントゥルーの次の攻撃が、嵐のように襲いかかってくる。アンナは防戦一方で、避けることしかできない。時折、反撃を試みるも、すべてが分厚い皮膚に阻まれ、有効打とはならなかった。
(どうすれば…どうすればカナリアを元に…!)
アンナの脳裏に、かつてティアドリームが放っていた浄化の光が浮かぶ。だが、今の自分にそんな力はない。ただ身体能力が異常に高いだけの、十三歳の少女だ。焦りと無力感が、じわじわと彼女のスタミナと精神を奪っていく。
「つまらんな。やはり失敗作とは、所詮こんなものか。見ている価値もない」
ラメントは心底がっかりしたように溜息をつくと、踵を返した。
「あとはそのお友達と、心ゆくまで戯れているがいい。もっとも、すぐにその町が新たな遊び場になるだろうがな」
そう言い残すと、ラメントの体は影の中に溶けるようにして、音もなくその場から消え去った。
後に残されたのは、破壊衝動の塊と化したアントゥルーと、なすすべのないアンナだけだった。絶望的な状況。しかし、ラメントが最後に残した言葉が、アンナに戦慄を走らせた。
(町が…遊び場に…? まさか!)
アントゥルーの目的は、アンナを倒すことだけではない。このまま放置すれば、森を抜け、あの平和な城下町へと向かうだろう。優しい領民たちが、父様と母様がいる、あの町へ。
その光景を想像した瞬間、アンナの背筋を氷のような恐怖が駆け上った。
(ダメだ…それだけは、絶対に!)
守らなければ。でも、どうやって?
必死に思考を巡らせる。今の自分では勝てない。時間稼ぎすら難しいかもしれない。何か、何か方法があるはずだ。この怪物を止められる、特別な力が。
その時、アンナの脳裏に、ラメントに呼ばれたあの名前が再び響いた。
『ミラージュティアドリーム』
そして、割れた鏡のイメージ。自分の胸元から散っていく、光の欠片。
断片的な記憶の中に、答えがある気がした。だが、それはあまりにも曖昧で、掴みどころがない。
(パクト…)
ふと、その単語が浮かんだ。なぜその言葉が出てきたのかは分からない。でも、それこそが今の状況を打開する唯一の鍵なのだと、魂が告げていた。
(パクト…私の、パクト…!)
決断は一瞬だった。
アンナはアントゥルーに最後の一瞥をくれると、くるりと背を向け、全速力で走り出した。目指すは、ミラナティア伯爵邸。自分の城だ。
「アンナアアアアア!!」
背後から、人間離れした声で自分の名を呼ばれた気がした。アントゥルーが、獲物に逃げられたと認識し、猛然と後を追ってくる。木々がなぎ倒され、大地が揺れる音が、すぐそこまで迫っていた。
アンナは振り返らない。ただひたすらに、前へ、前へと走る。屋根の上を走るのとは訳が違う。起伏の激しい森の中を、常人では考えられないスピードで駆け抜けていく。その速さは、もはや人間業ではなかった。
森を抜けると、眼下に愛すべき城下町が広がっていた。そして、その背後には、追ってくるアントゥルーの巨大な影。町の人々が、森から現れた異形の存在に気づき、悲鳴を上げ始めているのが遠目にも分かった。
(お願い、間に合って…!)
アンナは城門へと続く道を一直線に駆け抜ける。衛兵たちの驚きの声も耳に入らない。城の重厚な扉を体当たりで押し開け、大理石の廊下を土足のまま突き進んだ。
「アンナ様!? どうなさいました!」
「お怪我は!?」
すれ違うメイドたちの制止を振り切り、両親がいるであろう謁見の間へと向かう。
扉を乱暴に開けると、そこには領地の現状報告を受けていた父ゴードンと、その傍らに寄り添う母リアナがいた。二人は、髪を振り乱し、服を泥だらけにした娘の姿に、息を呑んだ。
「アンナ! 一体何が…」
父が驚きに目を見開く。しかし、アンナには説明している時間がなかった。彼女は両親の前に駆け寄ると、必死の形相で訴えた。
「パクト! 私のパクトはどこなの!?」
「ぱくと…? アンナ、落ち着きなさい。何を言っているんだ」
母リアナが、娘の肩を抱き、落ち着かせようとする。しかし、アンナはそれを振り払うようにして叫んだ。
「お願い、思い出して! 私がここに来た時に持っていたはずなの! 鏡の…割れたパクトが!」
その言葉に、ミラナティア伯爵夫妻の顔色が変わった。それは、十三年間、二人の胸の内にだけ秘めてきた、決して触れてはならない秘密だったからだ。
ゴードンが重々しく口を開く。「アンナ、なぜそれを…。落ち着いて事情を話しなさい。外が騒がしいようだが、何か関係があるのか?」
「説明してる時間はないの! 怪物が…アントゥルーが町に!」
その時、城の外から、ゴウッという轟音と、城門が破壊される凄まじい音が響き渡った。人々の絶叫が、城の中まで聞こえてくる。
「このままじゃ町が大変なことになっちゃう! 皆を守りたいの!」
アンナの魂からの叫び。
その言葉が放たれた瞬間、奇跡が起こった。
彼女の胸元が、まるで内側から照らされたかのように、一瞬、淡い薄紅色の光を放ったのだ。
それを見た伯爵夫妻は、すべてを悟った。
ゴードンはリアナと視線を交わし、静かに頷くと、玉座の裏に隠された小さな金庫へと向かった。そして、厳重に保管されていた一つの小箱を取り出してくる。
「…いつか、こうなる日が来るとは思っていました」
ゴードンの声には、覚悟と悲しみが滲んでいた。彼は小箱の蓋を開ける。中には、ビロードの布に包まれて、古びたコンパクトのようなものが収められていた。その中央にはめ込まれていたであろう鏡は、無残にも砕け散り、わずかな破片を残すのみ。それでも、それは微かな光を宿しているように見えた。
割れたミラージュパクト。アンナが赤子の頃、その手に唯一握りしめていた物だった。
「私たちは、お前に危険なことをして欲しくはなかった。ただ、私たちのかわいい娘として、幸せに生きてほしかったのだ」リアナが涙ながらに語る。「だが…お前には、やらなければならないことがあるのだろう?」
アンナは、目の前に差し出されたパクトを、食い入るように見つめた。
これだ。これが、自分に足りなかったものだ。
ゴードンは、娘の目に宿る強い光を見て、覚悟を決めた。
「行きなさい、アンナ」
父は、娘の肩を力強く掴んだ。
「お前が何者であろうと、お前は私たちの誇り高き娘、アンナ・ミラナティアだ。ミラナティア伯爵家の令嬢として、民を守るのだ」
その言葉は、アンナに無限の勇気を与えた。彼女は涙をぐっとこらえ、父の手から、砕けたミラージュパクトを固く受け取った。
「はい!」
その返事は、もはやただの少女のものではなかった。民を守るという使命を受け入れた、一人の戦士の返事だった。
アンナは振り返ると、すぐさま部屋の隅に置かれていた、彼女のために特注された軽装鎧を手に取った。それは、有事の際に領主一族が身に着けるためのもので、胸にはミラナティア家の紋章である「翼を持つ盾」が誇らしげに輝いている。
手早く革のチェストプレートを身に着け、手甲と足甲を装着する。その姿は、まさしく領地を守る若き騎士だった。
準備を終えたアンナは、城のバルコニーへと駆け出す。眼下では、城門を突破したアントゥルーが、衛兵たちを赤子のように蹴散らし、町の中央広場へと向かおうとしていた。
もう、一刻の猶予もない。
アンナはバルコニーの手すりに足をかけると、眼下の惨状を見据えた。そして、砕けたパクトを胸に強く押し当てる。
「そこまでよ!」
凛とした声が、戦場に響き渡る。
声のした方を見上げたアントゥルーと、逃げ惑う人々の視線の先。城のバルコニーから、ミラナティア家の紋章を胸に輝かせた一人の少女が、決意の表情で躍り出ていた。




