3話『襲撃!アントゥルー!』
いつもの追走劇は、アンナが城下町を抜け、鬱蒼とした森へ逃げ込むことで終わりを迎えるのが常だった。カナリアは森の入り口で諦めるか、入ったとしても方向感覚に優れたアンナに追いつけることはまずない。今日もまた、アンナは軽やかな身のこなしで木々の間を駆け抜け、追っ手である親友の気配が完全に消えたことを確認して、太い木の幹に背を預けた。
「ふう、ちょっとやりすぎちゃったかな…」
後でどうやって謝ろうかと考えながら、額の汗を手の甲で拭う。静寂が支配する森の中は、ひんやりとした空気が心地よかった。鳥のさえずりと、風が木の葉を揺らす音だけが聞こえる。
その、はずだった。
(……なんだろう、この感じ)
安堵したのも束の間、アンナは森のさらに奥から、何か妙な気配がするのを感じ取った。それは音でも匂いでもない。肌が粟立つような、それでいて心の奥底にある古い記憶をくすぐるような、奇妙な感覚だった。
懐かしいような、忌まわしいような。
引き寄せられるような、逃げ出したいような。
矛盾した感情が胸の中で渦を巻く。
(あっちから…感じる…)
まるで磁石に引かれる砂鉄のように、アンナの足は意思とは無関係に、その気配がする方へと歩き出していた。普段なら危険を察知して近寄らないはずの、薄暗い森の深部へ。自分の体なのに、自分の言うことを聞かないような不思議な感覚に戸惑いながらも、彼女は歩みを止められなかった。
木々の密度が増し、太陽の光がほとんど届かない、苔むした岩が点在するエリアに出る。そして、その開けた場所の中心に、アンナは「それ」を見つけた。
地面に突き刺さるようにして立つ、一枚の黒い鏡の破片。
大きさは人の手のひらほど。しかし、それはただの鏡ではなかった。磨かれた黒曜石のような表面は、周囲の光を吸い込むかのように鈍く、それでいて時折、内側から邪悪な光を放って怪しくきらめいていた。鏡の周りだけ、空気がよどみ、空間そのものが歪んでいるように見える。
それを見た瞬間、アンナの頭に激痛が走った。
――砕け散る無数の鏡。漆黒の玉座。冷たい声。悲痛な叫び。そして、自らが光の粒子となって消えていく感覚――
忘れていたはずの、悪夢のようなイメージが断片的にフラッシュバックする。
「まさか、あれは…!」
アンナの顔から血の気が引いた。なぜかはわからない。でも、本能が叫んでいた。あれは、この世界にあってはならないものだ、と。足がすくみ、恐怖で体が震える。それでも、確かめなければならないという強い衝動に駆られ、彼女は一歩、また一歩と、恐る恐るその不吉な鏡片へと近づいていった。
あと数歩で手が届く、という距離。
アンナが鏡片に手を伸ばそうとした、その瞬間だった。
スッ、と音もなく、アンナと鏡片の間に一つの影が舞い降りた。
それは、フードを目深に被り、顔のほとんどを隠したローブ姿の人物だった。その立ち姿からは性別すらも窺い知れないが、全身から放たれる不穏なオーラは、鏡片のそれに勝るとも劣らなかった。
「……ほう。やはり、貴様もこの世界に来ていたか」
フードの奥から聞こえてきたのは、男のようでもあり、女のようでもある、中性的で美しい、しかし底冷えのする声だった。
「女王の遺した最高の“失敗作”…ミラージュティアドリーム」
その名で呼ばれた瞬間、アンナの心臓は凍り付いた。
ミラージュティアドリーム。
それは、夢の中で時折響いていた、自分のものとも思えぬ名前。なぜ、この人物がその名を知っているのか。混乱する頭の中で、しかし、点と点が急速に繋がり始めていた。あの悪夢は、ただの夢ではなかったのだと。
一瞬の驚愕の後、アンナはハッと我に返った。不思議なことに、混乱はすぐに収まり、代わりに燃えるような闘志と、冷静な思考が頭を支配し始めていた。それは、十三年間ただのおてんば令嬢として生きてきた彼女の中にはなかったはずの、戦士としての感覚だった。
「あなた、一体何者なの」
アンナの声は、自分でも驚くほど低く、鋭くなっていた。
「何が目的なの?! その鏡は…!」
ローブの人物は、アンナの変貌ぶりを楽しんでいるかのように、くつくつと喉の奥で笑った。
「私の名はラメント。今はそう名乗っておこうか。目的は…貴様なら、その忌まわしき鏡を見ればわかるだろう?」
ラメントと名乗った人物は、地面からダークミラーを抜き取ると、指先で愛おしそうに撫でた。
「分かっているはずだ…これは『ダークミラー』。『あのお方』の御力の欠片。我らダークイマージュは、これを使い、世界に散らばったあの方の思念を集めている」
「あのお方…復活…?! まさか、鏡の女王を…!?」
その名を発した途端、アンナの脳裏に、冷酷非道な創造主の顔がはっきりと浮かんだ。すべてを否定され、絶望の淵に叩き落とされた、あの記憶。
「その通り。我が偉大なる主、鏡の女王の完全なる復活こそが我らの悲願。そして、この世界すべてを、真実の姿…美しい鏡面世界へと作り変えるのだ」
「そんなこと…!」アンナは拳を強く握りしめた。「させない…絶対に!」
あの悲劇を、この愛すべき世界で繰り返させてたまるものか。優しい両親、大切な親友、そして笑顔の領民たち。彼らの日常を、こんな理不尽な悪意で壊させるわけにはいかない。
アンナの瞳に宿った強い決意を見て、ラメントは心底愉快そうに肩を揺らした。
「ククク…素晴らしい。その瞳、まさしくティアドリームを写した光。だが、所詮はニセモノ。ならばここで消えてもらおうか、狂った鏡像よ」
ラメントが手をかざすと、その周囲の影が生き物のように蠢き、攻撃の形を取る。アンナもまた、戦闘の構えを取った。貴族の令嬢のか弱さなど微塵も感じさせない、洗練された体捌き。問答は終わった。今、この瞬間、森の奥深くで、世界の運命を左右する戦いが始まろうとしていた。
両者の間に、一触即発の緊張が走る。
その、時だった。
「アンナ様ーっ! はあっ、はあっ…やっと見つけました…!」
茂みをかき分け、息を切らしながらその場に駆け込んできたのは、アンナを探し続けていたメイド、カナリアだった。
「こんな森の奥まで…危ないじゃありませんか! 早くお城に…」
しかし、カナリアは言葉の途中で固まった。主人であるアンナと、見るからに邪悪な雰囲気をまとったローブの人物が、ただならぬ様子で対峙している。状況が飲み込めず、彼女は恐怖に顔を青ざめさせた。
「カナリア! 来ちゃダメだ! 逃げて!」
アンナが絶叫する。だが、遅かった。
ラメントの視線が、アンナからカナリアへと移る。そのフードの奥の口元が、残忍な笑みに歪んだのが分かった。
「ほう…面白い。丁度良い実験材料が現れた」
ラメントは、アンナの制止の声など意にも介さず、手に持ったダークミラーをカナリアに向かって投げつけた。
「行け、ダークミラー。この者の内に秘められた、真実の姿を曝け出してやれ」
黒い鏡片は、不吉な軌跡を描いてカナリアへと飛翔する。
「やめてーっ!!」
アンナが咄嗟に駆け出すが、間に合わない。
ダークミラーはカナリアの胸に吸い込まれるように触れると、閃光を放った。
「きゃあああああああっ!!」
カナリアの悲鳴が森に木霊する。彼女の体は黒い鏡の中に引きずり込まれるようにして包まれ、その場で激しく痙攣を始めた。
「う…あ…ああ…アンナ、さま…助け…て…」
苦悶に歪む顔で、カナリアがアンナに助けを求める。しかし、その声ももはや人間のものではなくなってきていた。体が不自然な角度に折れ曲がり、肌はどす黒く変色していく。メイド服は引き裂かれ、その下から鋭い爪や、異形の何かが突き出してくる。
それは、愛する親友が、目の前で人ならざるものへと変えられていく、地獄の光景だった。
そして、ついに。
変わり果てたカナリアが、天に向かって、絶叫した。
「アントゥルーゥゥゥゥッ!!」
それは、もはやカナリアの声ではなかった。絶望と憎悪に満ちた、未知の怪物の咆哮だった。




