2話『異変の兆し』
ミラナティア伯爵邸の、陽光が差し込む優雅な一室。しかし、その部屋の主であるアンナ・ミラナティアにとって、そこは退屈きわまりない鳥かごでしかなかった。
「……というわけで、アルマンド四世の治世下において、王都との交易路が整備されたことにより、当伯爵領の経済は飛躍的な発展を遂げたのです。アンナ様、聞いておられますか?」
白髪の老家庭教師、セバスチャンが穏やかながらも鋭い視線を向ける。アンナは頬杖をつき、窓の外を流れる雲をぼんやりと眺めていた。彼女の心は、分厚い歴史書の中ではなく、とっくに城壁の外へと飛び立っている。
「……はい、聞いてます。アルマジロ四世がすごいって話でしょ」
「アルマンド四世です、アンナ様。そして重要なのは王の名前ではなく、当時の政策が現在の我々の生活にどう影響しているかを理解することにあります」
セバスチャンの丁寧な指摘に、アンナは「はーい」と気の抜けた返事をする。貴族の令嬢としての教養が必要なことは頭ではわかっている。刺繍も、ダンスも、歴史の勉強も、すべてはいつか領地を支える立場になった時のため。心優しい両親の期待に応えたい気持ちも、もちろんある。
だが、じっとしているのはどうにも性分に合わなかった。窓から見える城下町の喧騒、澄み渡る青空、遠くに見える森の緑。そのすべてが、アンナを手招きしているように思えるのだ。
(……もうちょっとだけなら)
悪戯心がむくむくと湧き上がってくるのを抑えきれない。アンナはこほん、とわざとらしく咳払いをすると、神妙な顔つきで立ち上がった。
「セバスチャン先生、申し訳ありません。少し、お腹の具合が……お花を摘みに失礼いたします」
「おお、それは大変ですな。お早いお戻りを」
純粋に心配してくれる老家庭教師に内心で「ごめんなさい!」と謝りながら、アンナは淑女らしく、しずしずと部屋を退出した。もちろん、向かう先は化粧室ではない。
廊下の角を曲がった瞬間、アンナはドレスの裾を翻し、音もなく駆け出した。メイドや使用人に見つからないよう、まるで影のように廊下を走り抜け、庭に面した小さな通用口からあっという間に外へと抜け出す。これぞ、幾度となく繰り返してきた「習い事エスケープ」で培われた熟練の技だった。
城下町は、今日も変わらず活気に満ちていた。アンナはあらかじめ用意しておいたフード付きのクロークを羽織り、顔がわからないように深くフードを被る。おてんば令嬢の顔ではなく、一人の冒険好きな少女として町を歩くこの時間が、彼女にとっては何よりの楽しみだった。
「よお、嬢ちゃん! 焼きたてのパンはどうだい?」
「あらアンナ…じゃなくて、お忍びのお嬢さん。今日のリンゴは蜜がたっぷりで美味しいわよ」
顔なじみの店主たちは、フード姿の彼女に気づいても、心得たものだと気さくに声をかけてくる。アンナも「ありがとう、おじさん!」「また今度ね、おばさん!」と手を振りながら、石畳の道を軽快に進んでいく。この温かいやり取りが、領民たちが彼女を「アンナ様」という貴族としてだけでなく、一人の愛すべき少女として見てくれている証のようで、胸が温かくなる。
しばらく町をぶらつき、馴染みの猫の額に挨拶をしたり、子供たちの剣術ごっこにこっそり助言を与えたりしていると、ふと、一角の酒場から漏れ聞こえてくる剣呑な声に足が止まった。
昼間から開いているその酒場は、主に冒険者たちの溜まり場となっている。屈強な戦士や、胡散臭い魔法使い、俊敏そうな斥候たちが集い、情報交換や仲間探しを行う場所だ。
いつもなら、子供は立ち入るべきではないと通り過ぎるのだが、今日の雰囲気は少し違った。扉の隙間から漏れ聞こえる声には、いつもの武勇伝を語る陽気さや、報酬への不満を愚痴るやさぐれた響きはなかった。そこにあったのは、未知の脅威に対する、ひりつくような緊張感だった。
アンナは好奇心に引かれ、音を立てないように酒場の壁際に身を寄せ、窓の隙間から中の様子を窺った。
店内では、歴戦の猛者といった風情の冒険者たちが、エール杯を前に深刻な顔でテーブルを囲んでいる。
「……間違いない。俺たちが見たのも、その『アントゥルー』とかいう化け物だ」
斧を背負ったドワーフの戦士が、低い声で唸るように言った。
「北の森でゴブリンの群れに襲われたんだが、突然、その中の一匹が奇声を発してな。体がどす黒く膨れ上がり、目からは不気味な光を放ち始めた。そして、こう叫んだんだ。『アントゥルー』ってな」
『アントゥルー』。
その言葉を聞いた瞬間、アンナの心臓が、どきり、と嫌な音を立てた。まるで、頭の奥深くで錆びついた鍵が、無理やりこじ開けられようとするような、奇妙な感覚。
「俺たちが西の街道で遭遇したのも同じだ」と、弓使いのエルフが静かに続けた。「行商人だった男が、突然苦しみだして……。次の瞬間には、もはや人の形を保っていない何かに変わり果てていた。爪は伸び、背は曲がり、ただただ破壊の衝動だけで動いているようだった。仲間にも襲いかかり、正気は微塵も感じられなかった」
「ああ。しかも、やっかいなことに、普通の武器じゃ致命傷を与えにくい。再生能力も高いときた」
「浄化の魔法も、完全には効かないらしいな。一体、何が起きているんだ……」
冒険者たちの会話は、アンナの心をざわつかせた。人間や魔物が、怪物に変異する。それは、ただの凶暴化とは明らかに違う、もっと根源的で、冒涜的な何かであるように感じられた。そして、あの言葉。
(アントゥルー……)
なぜだろう。初めて聞くはずの言葉なのに、その響きには忌まわしい聞き覚えがあるような気がしてならなかった。それは、遠い昔に忘れた悪夢の残滓。胸の奥が冷たくなり、言いようのない不安が広がっていく。自分の知らないところで、何かが始まろうとしている。この平和な世界を脅かす、不穏な何かが。
アンナは、自分が今、ただの令嬢の「お忍び」ではいられないような、強い予感に襲われていた。この噂の正体を、確かめなければならない。そんな使命感にも似た感情が、心の底から湧き上がってくる。
そこまで思考に沈み込んでいた、その時だった。
「アンナ様ーっ! まったく、こんな所におられましたか!」
背後から響いた、聞き慣れた、そして今は一番聞きたくなかった声に、アンナの肩がびくりと跳ねた。
振り返ると、案の定、メイド服姿のカナリアが腰に手を当て、仁王立ちでこちらを睨んでいる。その額には汗が浮かび、息も少し切れている。きっと、城を抜け出したアンナを探して、町中を走り回っていたのだろう。
「セバスチャン先生から伺いましたよ! またお腹が痛いなどと嘘をついて抜け出すなんて! 伯爵様と奥様がどれだけ心配なさるか……!」
カナリアの説教がマシンガンのように繰り出される。いつもの光景だ。しかし、今のアンナの頭は『アントゥルー』のことでいっぱいだった。
「ご、ごめんカナリア! でも、ちょっと大事な話を……」
「大事な話より、大事な歴史の授業がまだ終わっておりません! さあ、お城に戻りますよ!」
カナリアがアンナの腕を掴もうと、ずいっと手を伸ばしてくる。
その瞬間、アンナは我に返った。不穏な予感は胸に残ったままだが、ここで捕まって城に連れ戻されるわけにはいかない。
アンナは、掴まれそうになった腕をひらりとかわすと、いたずらっぽくニッと笑った。
「残念でした! 私を捕まえられるかな?」
言うが早いか、アンナはすぐそばの荷馬車の荷台に飛び乗り、そこから軽々と建物の屋根へと駆け上がった。
「あっ! こら、アンナ様! お待ちください!」
カナリアの悲鳴にも似た叫び声を背に、アンナは「つかまえてごらーん!」と叫びながら、屋根から屋根へと飛び移っていく。
いつもの、おてんば令嬢と心配性のメイドによる追走劇。城下町の人々は「またやってるよ」と苦笑しながら、その光景を見守っている。
しかし、逃げるアンナの心は、晴れやかではなかった。
胸の奥で疼く、冷たい棘。
『アントゥルー』。
その不吉な響きだけが、いつまでも耳の奥でこだましていた。