25話『鏡の中で』
冷たい。
どこまでも、冷たい。
光も、音も、温度さえもない、完全な虚無。アンナの意識は、底なしの闇の中を、ただひたすらに沈んでいった。手足の感覚はなく、自分がどこにいるのか、そもそもまだ存在しているのかさえ定かではない。
(私は…誰…?)
思考だけが、かろうじてその形を保っていた。
私は、アンナ・ミラナティア。ミラナティア伯爵家の、おてんば令嬢。父様と母様の、たった一人の娘。カナリアとブリジットの、大切な仲間。
そうだ、私は――。
『――違う』
脳内に、直接響き渡る声。それは、決して忘れることのできない、絶対的な創造主の声だった。
『お前はアンナ・ミラナティアではない。お前は、ミラージュティアドリーム。光の使者ティアドリームを打ち破るためだけに生み出された、ただの兵器。心を宿した、失敗作』
その声は、闇そのものだった。抗うことも、逃れることもできない、絶対的な真実としてアンナの魂に染み込んでくる。
(違う…私は…みんなと出会って…)
『それもすべて、借り物の記憶。借り物の絆。ティアドリームという光があったからこそ、影であるお前は存在できたに過ぎん。お前の見る夢も、お前の抱く愛も、すべては本物の模倣品。何一つ、お前自身のものなどない』
闇の中で、いくつもの光景が浮かび上がる。
ティアドリームの、太陽のような笑顔。彼女が語る、希望に満ちた夢。それに比べて、自分は何だ? 彼女のようになりたいと願い、なれなかった、歪んだコピー。
この世界に来てからもそうだ。優しい両親に愛され、温かい居場所を与えられた。だが、それは本当に自分のものだったのだろうか。もし、自分がティアドリームの影でなかったら? もし、この特異な力を持っていなかったら? 誰も、自分など見向きもしなかったのではないか。
(カナリアも…ブリジットも…私が特別だから…)
違う。二人は、アンナ・ミラナティアという少女を見てくれていた。信じてくれていた。頭では分かっている。だが、鏡の女王が囁く呪いの言葉は、その確信をいともたやすく溶かしていく。
『そうだ。お前は一人だ。生まれた時から、ずっと一人だった。誰にも理解されず、誰にも愛されず、ただ、光を妬むだけの空っぽの人形。それが、お前の真実の姿だ』
ああ、そうかもしれない。
私は、結局、何者にもなれなかった。
ティアドリームのようにも、アンナ・ミラナティアのようにも。
中途半端で、空っぽで、誰かの光がなければ存在することさえできない、哀れな影。
(もう…疲れた…)
思考が、ゆっくりと停止していく。抗うことを、やめてしまう。この冷たい闇は、ある意味で心地よかった。もう、誰かと自分を比べて苦しむこともない。ニセモノだと指をさされることもない。ただ、無に還るだけ。それが、失敗作である自分に与えられた、唯一の救いなのかもしれない。
アンナの意識は、自ら光を放棄し、永遠とも思える闇の底へと、静かに、静かに沈んでいった。
「アンナ様ーーっ!!」
「アンナ! 戻ってきなさい!」
現実世界では、カナリアとブリジットの悲痛な叫びが、静まり返った神殿に虚しく響いていた。アンナの体が完全に飲み込まれた鏡の床は、今や何事もなかったかのように、ただ冷たく二人の姿を映し返しているだけだ。その表面に、アンナが流した涙の跡が、宝石のようにきらめいていた。
「くっ…! このっ…!」
ブリジットは、怒りと焦りに任せて、レイピアの柄で何度も鏡の床を叩きつけた。だが、ガギン、ガギン、と甲高い音が響くだけで、その鏡面には傷一つ、ひび一つ入らない。それどころか、叩きつけた衝撃がそのまま腕に跳ね返り、手首がじんじんと痺れた。
「無駄です、ブリジット様! 私の魔法も、全然…!」
カナリアもまた、杖を握りしめ、必死に浄化や治癒の魔法を鏡に向かって放っていた。だが、彼女の放つ温かい光は、鏡の表面に触れた瞬間に、まるで吸い込まれるかのように霧散してしまう。アンナの心に届いている気配は、全くなかった。
「そんな…このままでは、アンナが…!」
ブリジットの顔から、血の気が引いていく。鏡の闇に魂を囚われた者がどうなるか、詳しい知識はない。だが、良い結末を迎えるはずがないことだけは、本能で理解できた。このまま、アンナの魂が完全に闇に喰われてしまったら。もう二度と、あの屈託のない笑顔を見ることはできなくなってしまったら。
その最悪の想像が、ブリジットの心を絶望の淵へと追い詰める。カナリアもまた、あまりの無力さにその場にへたり込み、大粒の涙をぽろぽろとこぼし始めた。
万策尽きた。
二人の間に、重く、冷たい沈黙が流れる。
その、時だった。
「おおーう! なんじゃなんじゃ、随分としめっぽい空気じゃのう! まるで葬式饅頭の餡子の中みたいじゃぞ!」
場違いなほどに快活で、けたたましい声が、神殿の入り口から響き渡った。
二人が弾かれたように振り返ると、そこには、フリルのついた豪奢なドレスを揺らしながら、小さな体でずんずんとこちらに歩いてくる、見慣れた少女の姿があった。
「キルケちゃん!?」
「なぜ、あなたがここに…!?」
王立魔法研究院の部長、慧眼のキルケ。そのあまりにも都合の良すぎる登場に、二人は驚きを隠せない。
「ふん、お主たちが心配で、こっそり後をつけてきたに決まっておるじゃろうが」
キルケは、ぷいっとそっぽを向きながら言うが、その額には汗が浮かび、息も少し切れている。きっと、転移魔法か何かで慌てて駆けつけてきたのだろう。
彼女は、アンナが消えた鏡の床と、涙に濡れた二人の顔を見比べると、すべてを察したように、その小さな顔を険しく歪めた。
「…ふむ。やはり、この神殿の『鏡の試練』が暴走しておったか…! ワシの予測よりも、遥かに根が深いようじゃな」
「鏡の試練? キルケちゃん、一体これはどういうことなんです!?」
カナリアが、藁にもすがる思いでキルケに詰め寄る。
キルケは、自分の身長よりも高い女神像の台座にひょいと飛び乗ると、まるで大学教授のような老成した口調で、この神殿の秘密を語り始めた。
「よいか? この『鏡の神殿』はな、元々、遥か古の時代に、神々が自らの手で作り出した試練の場なのじゃ」
「神々が…?」
ブリジットが、信じられないといった様子で聞き返す。
「うむ。その目的は、後の世に現れるであろう勇者や聖女といった、特別な魂を持つ者たちに、最後の試練を与えるため。その試練とは、『己が心の内に巣食う、最も深き闇と向き合い、それに打ち克つこと』じゃ」
キルケによれば、この神殿の鏡は、ただ姿を映すだけではない。試練を受ける者の魂の奥底までを覗き込み、その者が抱えるトラウマやコンプレックス、恐怖といった負の感情を、幻影として具現化させる力を持つという。
「お主たちが先ほど戦った幻影が、それじゃな。本来ならば、その幻影を打ち破った時点で試練は終了し、魂はさらに強く、気高いものへと昇華される。そのための安全装置も、幾重にも張り巡らされていたはずじゃった。…じゃが」
キルケは、苦々しげに言葉を続けた。
「この神殿に流れ込んだ、ダークミラーの邪悪な力が、そのシステムを根底から汚染し、破壊してしもうた。安全装置は機能せず、試練の場は、魂を永遠に捕食する、悪辣な罠へと変質したのじゃ」
「そんな…!」
「アンナが囚われたのは、おそらく、あやつの持つミラージュパクトが、この神殿の鏡とあまりにも強く共鳴しすぎたせいじゃろう。パクトもまた、持ち主の心を映す鏡。似た性質を持つ二つの強大な力が引き合い、暴走の中心点となって、アンナの魂を鏡の深淵へと引きずり込んでしまったのじゃ…」
キルケの解説は、二人に理解と、それ以上の絶望をもたらした。アンナは、この神殿の暴走に、ただ一人で巻き込まれてしまったのだ。
「ど、どうすればいいんですか!? どうすれば、アンナ様を助けられるんですか!?」
カナリナが、半狂乱になってキルケのドレスの裾に掴みかかった。ブリジットもまた、怒りと無力感で、その顔を蒼白にさせている。
だが、キルケはそんな二人を落ち着かせるように、ポンと手を打つと、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「落ち着けい! こんなこともあろうかと、ワシはちゃんと対策を考えておいたわ! というか、この日のために、夜なべして新兵器を開発してきたのじゃ!」
そう言うと、キルケは「ジャジャーン!」と効果音をつけながら、懐から一つのアイテムを取り出して見せた。
それは、白銀の金属と、透き通るような水晶で作られた、小型のステッキのような、あるいは儀式用の短剣のようにも見える、優美で洗練されたデザインの魔道具だった。柄頭には、翼を広げた鳥のような装飾が施され、中央にはめ込まれた大きな魔石が、神秘的な光を放っている。
「こ、これは…?」
「ふっふっふ、名付けて『ミラージュブレイカー』! どうじゃ、かっこよかろう!」
キルケは、自らの発明品を手に、得意満面に胸を張った。
「これはな、元々、アンナのあの不安定な変身をサポートするために開発しておった、対ミラージュティアドリーム専用の魔道具じゃ。あやつのパクトの構造を徹底的に解析し、その魂の波長、いわゆる精神波形にのみ完璧に共鳴するように設計してある。その力を、外部から強制的に増幅、活性化させる、いわば『心のブースター』じゃな!」
「心の…ブースター…」
「うむ! これを使い、鏡の外部から、アンナの精神に直接呼びかける! 闇に沈んだあやつの心を、外側からガンガン刺激して、無理やり覚醒を促すのじゃ!」
それは、あまりにも大胆で、荒療治な作戦だった。だが、今の二人にとっては、唯一の希望の光だった。
「さあ、どうする? やるか、やらんか?」
キルケの問いに、間髪入れず、二つの力強い声が重なった。
「「やります!」」
カナリアとブリジットの瞳には、もう絶望の色はなかった。友を救うための、揺るぎない決意の炎が燃え盛っていた。
「よしきた! では、作戦を説明するぞ!」
キルケは、ミラージュブレイカーをブリジットに手渡した。
「ブリジット! お主は、その剣技と気高さで、この魔道具の『切っ先』となれ! お主の強い意志が、闇を切り裂く刃となる!」
「…承知しましたわ!」
ブリジットは、ミラージュブレイカーをレイピアのように握りしめる。不思議と、その手によく馴染んだ。
次に、キルケはカナリアに向き直る。
「カナリア! お主は、その優しさと奇跡の力で、この魔道具の『動力源』となれ! お主の仲間を想う心が、アンナの魂に届くための道筋を作るのじゃ!」
「はい!」
カナリアもまた、力強く頷いた。
「よいか! お主たち二人、それぞれの姿に変身し、このミラージュブレイカーに、自らの力のすべてを注ぎ込むのじゃ! 増幅されたお主たちの『アンナを想う心』が、鏡の闇を貫き、必ずやあやつの魂に届くはず! あとは、アンナが自らの力で闇を振り払うのを、信じて待つのみじゃ!」
作戦は、シンプルかつ明快。そして、成功の鍵は、ただ一つ。
アンナと、彼女を想う仲間たちの、絆の力。
「アンナを…必ず助け出す!」
ブリジットが、決意を込めて呟く。
「はい! 私たちの声、絶対に届けてみせます!」
カナリアもまた、涙を拭い、強く頷いた。
キルケは、二人の覚悟を見届けると、満足げに笑った。
「それでこそ、ミラージュアモーレじゃ!」
カナリアとブリジットは、互いの顔を見合わせ、頷き合うと、再びそれぞれのパクトを構えた。
仲間を救うため、絶望の闇を打ち破るため。
二人の魔法少女の、決死の救出作戦が、今、始まろうとしていた。




