20話『誇り高き剣!ミラージュティアウィング登場!』
父が、怪物に変わる。
その悪夢のような光景を前に、ブリジットの思考は完全に停止した。シャンデリアのまばゆい光も、逃げ惑う貴族たちの悲鳴も、すべてが遠い世界の出来事のように感じられる。目の前にいるのは、威厳に満ちた優しい父ではない。憎悪と絶望に満ちた瞳で、ただ破壊を撒き散らす、異形の怪物。自分のせいだ。わたくしが父を追い詰めたから。その罪悪感が、鉛のように重く彼女の四肢に絡みつき、動くことさえ許さない。
その、絶望の淵に沈みかけたブリジットの肩を、二つの小さな手が力強く掴んだ。
「ブリジット、しっかりして!」
「今、私たちがやらなくて、誰がやるんですか!」
アンナとカナリア。二人の真剣な眼差しが、ブリジットの心を現実へと引き戻す。そうだ、嘆いている暇などない。父を、あの優しい父を、この手で取り戻さなくては。
「ええ…そうですわね…!」
ブリジットの瞳に、再び戦士の光が宿る。
アンナとカナリアは、示し合わせたように頷くと、それぞれの胸元からパクトを取り出した。
「「チェンジ・ミラージュ!!」」
二人の聖なる呪文が、阿鼻叫喚の戦場に響き渡る。
「夢写し出す、無限の鏡! ミラージュティアドリーム!」
「奇跡の光で、愛を紡ぐ! ミラージュティアミラクル!」
アンナは砕けた鏡の紋様をその身に宿す不完全な戦士『ミラージュティアドリーム』へ。カナリアは紫と白の衣をまとった奇跡の戦士『ミラージュティアミラクル』へ。二人の魔法少女が、アントゥルーと化した侯爵へと同時に躍りかかった。
だが、その行く手を阻むように、二つの巨大な影が立ちはだかった。
「ガッハーッ! ここは通さんぞ、失敗作!」
赤毛の狂戦士、グリーヴァ。その筋骨隆々の巨体が、ミラージュティアドリームの進路を完全に塞ぐ。
「やあ、また会ったね、奇跡の魔法少女。君のその力、じっくりと解析させてもらうよ」
銀髪の研究者、ヴェクサス。その冷たい笑みが、ミラージュティアミラクルの前に立ちはだかる。
いつの間に現れたのか、ダークイマージュの幹部たちが、まるでこの時を待ちわびていたかのように、二人を分断したのだ。
「グリーヴァ! ヴェクサス!」
アンナが忌々しげに叫ぶ。
「おっと、よそ見をしている暇はないぞぉ!!」
グリーヴァの咆哮と共に、巨大な拳がアンナに襲いかかる。アンナは咄嗟にそれを回避するが、拳が叩きつけられた大理石の床が、蜘蛛の巣のように砕け散った。凄まじいパワー。一撃でも食らえば、変身していてもただでは済まないだろう。
一方、カナリアもまた、ヴェクサスの巧みな戦術に翻弄されていた。
「直接戦闘は得意じゃないんだけど…ね!」
ヴェクサスは懐から無数のダークミラーの欠片を撒き散らす。それは、彼の意のままに宙を舞い、予測不能な軌道でミラクルを襲う弾丸となった。ミラクルは防御魔法でそれを防ぐが、ヴェクサスはその魔法の強度、持続時間、魔力の消費量といったデータを、銀縁の眼鏡の奥で冷静に分析している。
「ほう、君の防御魔法は物理的な衝撃よりも、魔力的な攻撃に対して高い耐性を示すようだね。実に興味深いデータだ」
ヴェクサスの口調は、まるで実験の経過を観察する研究者のそれだった。その底知れない不気味さが、ミラクルにじわじわとプレッシャーを与えていく。
結果として、アントゥルーと化した父と、その元凶であるラメントを同時に相手取るのは、ドレスを引き裂き、レイピアを構えただけの、生身のブリジットただ一人となった。
「さあ、お姫様。お前の愛する父親が、お前を絶望の底へといざなうぞ」
ラメントの嘲笑が響く。アントゥルーが、ブリジットだけを見据えて、破壊の衝動に満ちた咆哮を上げた。
「お父様…!」
ブリジットはレイピアを構え、アントゥルーの突進を迎え撃つ。だが、その切っ先は、父であった者の顔をどうしても狙うことができない。腕を、足を狙うが、硬質な甲殻に阻まれ、有効なダメージを与えられなかった。
その一瞬の躊躇いを、ラメントが見逃すはずもなかった。影の中から伸びた無数の手が、ブリジットの体に絡みつき、動きを封じる。
「ぐっ…!」
身動きが取れなくなったブリジットに、アントゥルーの巨大な鉤爪が迫る。絶体絶命。
その時だった。
「ブリジット!」
「ブリジット様!」
グリーヴァとヴェクサスと戦っていたはずのドリームとミラクルの声が響き、二条の光がブリジットへと注がれた。ドリームからは力の、ミラクルからは守りの光が。二人の仲間が、自らの戦いの最中に、ブリジットへと力を送ってくれたのだ。
「これは…!」
力がみなぎる。ブリジットは全身の力を振り絞り、ラメントの影の拘束を強引に引きちぎった。そして、迫りくる鉤爪を、強化された力で辛うじて弾き返す。
しかし、状況が好転したわけではない。2対1という構図は変わらず、ラメントの執拗な妨害を受けながら、父の姿をしたアントゥルーと戦うのは、あまりにも分が悪かった。
「ここで、お前たちの戦力を確実に削ぐ。ミラージュアモーレとかいう、おめでたいチームごっこも、今日で終わりだ」
ラメントの冷たい声が、ブリジットの心を絶望へと引きずり込もうとする。
「くっ…!」
焦りが、ブリジットの剣筋を鈍らせる。アントゥルーの薙ぎ払った一撃を避けきれず、彼女の体は壁際まで大きく吹き飛ばされた。
「ブリジット!」
ドリームが、仲間の危機に思わず叫ぶ。
「よそ見をしている暇はないぞぉ!!」
その隙を、グリーヴァが見逃すはずもなかった。彼はドリームの腕を掴むと、力任せに投げ飛ばし、瓦礫の山へと叩きつける。純粋な力勝負では、ドリームに勝ち目は薄かった。
ミラクルもまた、ヴェクサスのデータに基づいた的確な攻撃に、防戦一方を強いられていた。
「君の魔力パターンは完全に把握した。次はこの角度から、このタイミングで、この威力の攻撃が来る。そうだろう?」
ヴェクサスは、ミラクルの次の行動を完璧に予測し、その魔法が発動する前に、ダークミラーの刃で魔法陣そのものを破壊する。
「そんな…!?」
なすすべもなく、ミラクルもまたヴェクサスの一撃を受け、床に倒れた。
三人は、分断され、それぞれの敵の前に膝をつかされようとしていた。
ブリジットは、霞む視界の中で、仲間たちが傷ついていくのを見ていた。わたくしのせいで。わたくしが、もっと強ければ。
(力が…力が、必要ですわ…!)
彼女は、最後の望みを託し、懐から取り出した王立魔法研究院製の銀色のパクトを、天にかざした。それは、まだ何の力も宿していないはずの、ただの玩具。だが、今はこれに賭けるしかなかった。
「どうかわたくしに力を…! わたくしの思いに応えなさい! チェンジ・ミラージュ!!」
魂からの叫び。しかし、パクトは微かな光を放っただけで、何も起こらなかった。変身は、できない。
その無慈悲な現実に、ブリジットの心が折れかけた、その瞬間。
アントゥルーの追撃が、無防備な彼女の体を捉えた。
「がはっ…!」
ブリジットの体は、まるで木の葉のように宙を舞い、大広間の壁に叩きつけられて崩れ落ちた。口の端から、赤い血が伝う。
「どうして…! わたくしの思いは、届かないというのですか…!?」
「おっと、変身失敗かい? 面白いデータだねえ。やはり、あのパクトは持ち主の強い『願い』がなければ起動しない、ということか」
ヴェクサスが、興味深そうに分析する。
万事休す。誰もがそう思った。
だが、瓦礫の中から立ち上がったドリームは、諦めていなかった。
「…まだよ! ここで諦めたら、ブリジットが、お父さんと仲直りできないじゃない…!」
その言葉は、グリーヴァに向けたものではなく、ブリジットの心に届けるための叫びだった。
床に倒れていたミラクルもまた、杖を支えに、ふらつきながらも立ち上がる。
「そうです! わたくしたちは、ただ敵を倒したいわけじゃありません! 大事な友達の、大事な家族を取り戻すためです! そのために、わたくしたちは戦っているんです! だから、負ける訳にはいきません!」
仲直り――。
その言葉が、ブリジットの心の奥深くに、雷のように突き刺さった。
そうだ。わたくしは、父に認めてもらいたかった。一人の戦士として、対等な存在として。でも、それだけじゃなかった。心の奥底で、本当に願っていたことは。
(わたくしは…ただ、父様と、仲直りがしたかった…)
母がいた、あの頃のように。難しい理屈や、貴族の体面なんて関係なく、ただ純粋に、父と娘として笑い合いたかった。いがみ合うのではなく、互いを思いやり、支え合う、温かい家族に戻りたかった。
貴族としての気高い意志も、民を守るという誇りも、すべては偽りではない。だが、その根源にあったのは、たった一つの、あまりにも純粋な願い。
「愛」だった。
「わたくしが求めていたのは…憎しみを打ち破る力じゃない…! わたくしの思いを、父様に伝えるための力…!」
その、心の底からの叫びに、何かが応えた。
ブリジットは、ゆっくりと、しかし力強く立ち上がる。その手の中で、これまで沈黙を守っていた銀色のパクトが、まばゆい黄金色の光を放ち始めたのだ。
「パクトが…!」
光は、ブリジットの持つレイピアにも伝播する。すると、実用一辺倒だったはずの剣が、まるで生き物のようにその姿を変え始めた。鍔の部分から、黄金に輝く美しい翼の装飾が広がり、剣身には優雅な紋様が浮かび上がる。それは、ただの武器ではない。持ち主の誇りと愛を体現した、聖なる剣だった。
「パクトよ! この思いに…ただ一人の娘の、この切なる思いに応えなさい!!」
ブリジットは、覚醒したパクトを再び天に掲げ、今度こそ、確信を持って叫んだ。
「チェンジ・ミラージュ!!」
その言葉を合図に、ブリジットの視界は、先ほどとは比較にならないほどの、温かく、そして力強い黄金の光に完全に染め上げられた。
意識が、どこか別の場所へと飛翔する。そこは、果てしなく広がる、真っ白な空間だった。
(ここは…? カナリアが、変身する時に見たと言っていた、心の宇宙…)
『その通りです。そして僕は、あなたの心の輝きを写し出す、あなたの鏡像…』
どこからともなく、優しく、そして凛とした声が響く。声の主はいない。だが、ブリジットには分かった。これは、覚醒したパクト自身の声なのだと。
「わたくしの思い、通じたのですわね」
『はい。誇りを、民を、そして何より、たった一人のご家族を守りたいという、あなたの気高く、そして純粋な愛の気持ち、十分に伝わりました』
「ならば、今こそ…!」
『呼んでください。あなたの胸の中で、今、新たに生まれたその輝きの名を! あなた自身の魂の結晶、その名を!』
ブリジットは、自らの胸に手を当てた。そこには、確かに感じられる。黄金色の、翼のような形をした、温かい光の結晶が。それは、父への愛と、空を自由に翔ける鳥のような、束縛されない生き方への憧れ。彼女の魂そのものだった。
ブリジットは、現実世界へと意識を戻すと、その結晶の名を、高らかに叫んだ。
「ウィングクリスタル!!」
その名をトリガーに、光の奔流がブリジットの全身を包み込む。
彼女の輝くブロンドの髪は、ひとりでに編み上げられ、金の翼をかたどった髪飾りがきらめく、豪奢で、しかし戦いやすいポニーテールへと変わっていく。
パーティのために着せられた窮屈なドレスは光の粒子となって消え去り、代わりに、白を基調とし、金のラインが走る、騎士の甲冑を思わせる優雅で機能的な戦闘服がその身を包んだ。背中には、光でできた美しい翼が広がる。
そして、アメジストの瞳は、どんな闇をも貫く、絶対的な意志の輝きを増していた。
光が収まった時、そこに立っていたのは、もはやただの侯爵令嬢ではなかった。
誇りと愛を翼に変え、戦場を舞う、黄金の戦士。
彼女は、生まれ変わった聖剣を構え、自らの真の名を、高らかに宣言した。
「天翔ける、気高き翼! ミラージュティアウィング!!」
その声は、大広間の隅々まで響き渡った。
ラメントが、初めて驚愕に目を見開く。グリーヴァとヴェクサスもまた、そのあまりにも神々しい降臨に、動きを止めていた。
そして、ブリジットの父であったアントゥルーが、その本能の奥底で、目の前に立つ黄金の戦士の姿に、かつての最愛の妻の面影を見たかのように、一瞬だけ、動きを止めた。
新たな戦士、ミラージュティアウィングが、今、この地に誕生した。
それは、絶望の闇を打ち破る、希望の光の誕生の証だった。




