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転生令嬢冒険者は元・ニセモノ魔法少女!  作者: 軟膏
第一章『旅立ちの時!』
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1話『ミラガルドにて』

光と闇の壮絶な死闘から、どれほどの時が流れたのだろうか。

次元の彼方、剣と魔法、そして冒険が息づく世界『ミラガルド』。その一角に、ミラナティア伯爵が治める穏やかな領地があった。


領都の中央広場は、今日も活気に満ち溢れていた。石畳の道には様々な露店が軒を連ね、香ばしい焼き菓子の匂いや、鍛冶屋が槌を打つリズミカルな音が混じり合う。荷馬車を引く馬のいななき、客を呼び込む威勢のいい声、子供たちのはしゃぎ声。それらすべてが、この地の豊かさと平和を物語っていた。


人々は誰もが笑顔で、その日常を謳歌していた。

その、瞬間までは。


「どけーっ! 馬だ、暴れ馬だぞーっ!」


突如、広場の端から響いた切羽詰まった叫び声が、平和な空気をナイフのように切り裂いた。見れば、一頭のたくましい栗毛の馬が、目を血走らせ、口から泡を吹きながら猛然と広場に突っ込んできたのだ。背には鞍も手綱もなく、何かにひどく怯え、パニックに陥っているのは明らかだった。


「きゃあああっ!」

「危ない!」


人々の陽気なざわめきは一瞬で悲鳴に変わり、我先にと逃げ惑う。露店のテーブルクロスが引っかけられて果物が宙を舞い、積み上げられた木箱の山がガラガラと崩れ落ちた。馬は狂ったように頭を振り、蹄で石畳を激しく打ち付けながら、人や物を蹴散らして疾走を続ける。誰もがその凶暴な勢いを前に、なすすべもなかった。


衛兵が駆けつけようとするが、群衆に阻まれて思うように進めない。このままでは、広場の反対側で遊んでいる子供たちが危ない。誰もがそう思い、息を呑んだ、その時だった。


雑踏の中から、ひらりと一つの影が舞い上がった。


それは、柔らかな薄紅色の髪をポニーテールに揺らした、一人の少女だった。革のチェストプレートに白いブラウス、動きやすそうな紺色のキュロットスカートという、冒険者を思わせる軽装を身に着けている 。


「まあ、あの方は…!」

「アンナ様だ!」


群衆の中から、驚きと期待の入り混じった声が上がる。


少女の名はアンナ・ミラナティア 。この地を治めるミラナティア伯爵家の令嬢である。しかし、彼女の動きは、深窓の令嬢と呼ぶにはあまりにも常軌を逸していた。


アンナは、逃げる人々の流れに逆らうように走り出すと、目の前にあった露店の屋根をトン、と軽い音と共に蹴って跳躍した。そのまま隣の建物の壁を蹴り、さらに高さを稼ぐと、まるで重力など存在しないかのように軽やかに屋根の上に着地する。その一連の動きは、猫よりも俊敏で、鳥よりも滑らかだった。


「はあっ!」


短い気合と共に、アンナは屋根から屋根へと飛び移り、暴れ馬との距離を一直線に詰めていく。彼女の澄み切ったアズールブルーの瞳 は、怯える馬の姿を真っ直ぐに捉えていた。


「アンナ様ーっ! お待ちください、無茶ですーっ!」


少し遅れて、後方から悲鳴のような声が聞こえた。きっちり三つ編みにした濃い紫色の髪を振り乱し、クラシカルなメイド服の上からモスグリーンのローブを羽織った少女 、カナリア・リバーホームが、大きな鞄を背負ったまま必死の形相でアンナを追いかけていた 。彼女はアンナ付きのメイドであり、姉妹のように育った親友でもある 。しかし、主人の常人離れした身体能力 には到底ついていけず、その距離は開くばかりだった。


アンナの耳にもカナリアの声は届いていたが、今は振り返る余裕はない。暴走する栗毛馬は、もう子供たちがいる場所まで目と鼻の先だ。

(間に合わせる…!)

アンナは最後の屋根の縁を力強く蹴った。彼女の体は、美しい放物線を描いて宙を舞う。狙うは、狂ったように疾走する馬の背中。常人ならば、落下した衝撃と馬の勢いで骨が砕けてもおかしくない危険な賭けだった。


だが、アンナは完璧なタイミングで、馬の背中にすとん、と降り立った。まるで最初からそこにいたかのように、衝撃を完全に殺して着地する。


「ヒヒーンッ!」


突然背中に乗られたことで、馬はさらに激しく暴れ、アンナを振り落とそうと体をくねらせる。しかし、アンナは驚くほどの体幹の強さでその背に留まり続けると、その細い腕を馬の首にそっと回した。


「大丈夫、大丈夫よ」


それは、叱責でも命令でもなく、優しく語りかけるような声だった。


「もう怖くない。大丈夫。私がいるから」


アンナは馬のたてがみを優しく撫で、その首筋をポンポンと軽く叩いてやる。不思議なことに、アンナの温かい手のひらと、穏やかな声に触れた馬は、少しずつその猛々しい勢いを失っていった。血走っていた目は徐々に落ち着きを取り戻し、荒い呼吸も次第に穏やかになっていく。あれほど激しく打ち鳴らされていた蹄の音も、やがて止まった。


広場の真ん中で、少女を乗せた栗毛の馬は、まるで魔法にでもかかったかのようにぴたりと静止した。


静寂。

一瞬の沈黙の後、広場は割れんばかりの歓声と拍手に包まれた。


「うおおお! さすがアンナ様だ!」

「すごい! あの暴れ馬を素手で!」

「怪我はございませんか、アンナ様!」


人々が安堵の表情で駆け寄ってくる。アンナは馬の背からひらりと飛び降りると、安心させるようににっこりと笑いかけた。


「みんな、大丈夫? 怪我した人はいない?」


自分のことよりも先に、周囲の心配をする。その姿に、領民たちはますます彼女への敬愛を深めるのだった。

そこへ、ぜえぜえと肩で息をしながら、ようやくカナリアが追いついた。その顔は心配で泣きそうになっている。


「アンナ様~! ご無事ですか!? もう、心臓が止まるかと思いました…!」


「ごめんごめん、カナリア。心配かけたね」


アンナは悪びれる様子もなく、いたずらっぽく笑う。そして、すっかり大人しくなった馬の鼻面を優しく撫でた。


「うん! この子、蛇に驚いて、ただ怖がってただけだから。もう大丈夫よ」


その言葉通り、馬はアンナの手に気持ちよさそうにすり寄っている。アンナの瞳には、動物の感情さえ読み取るような、不思議な優しさが宿っていた。


アンナ・ミラナティア。彼女はこのミラナティア伯爵領で、知らぬ者のない有名人だ。十三年前、当時まだ子宝に恵まれなかったミラナティア伯爵夫妻が、森のほとりで偶然にも発見した赤子 。それが彼女だった。身元を示すものは何もなかったが、夫妻はこれを天からの授かりものだと信じ、実の子として愛情を注いで育てた。夜明けの空のような柔らかな薄紅色の髪と、澄み切ったアズールブルーの瞳を持つ赤子は、アンナと名付けられた 。


夫妻の深い愛情の元、アンナはすくすくと、そして驚くほど伸び伸びと育った。幼い頃から、その身体能力はずば抜けていた。普通の子供が歩き始める頃には走り回り、木登りは猿のように巧みで、どんなに高い場所から飛び降りても怪我一つしなかった。


貴族の令嬢としての作法や勉強は少々苦手だったが、その明るく心優しい性格と、誰に対しても分け隔てなく接する態度は、領民たちから絶大な人気を集めた。困っている人がいれば、身分など関係なく真っ先に駆けつけ、その超人的な力で助けてしまう。そんな彼女を、領民たちは敬意と親しみを込めて「おてんば姫」と呼んだ。


「まったく…また伯爵様と奥様にご心配をおかけしますよ」


カナリアがやれやれと溜息をつく。彼女はアンナと同い年で、物心ついた頃からアンナ付きのメイドとして仕えてきた 。もはやその関係は主従というより、活発な姉を見守るしっかり者の妹といった方が近い 。


「大丈夫だって。父様も母様も、私のことは信じてくれてるから」


アンナはそう言うと、馬の持ち主だという男性にお礼を言われながら、にこやかに馬を引き渡した。広場はすっかり元の活気を取り戻し、人々は口々にアンナの活躍を称えている。


この世界に来て、十三年。

アンナの記憶は、このミラナティア領で始まったものだけだ。それ以前のことは何も覚えていない。時折、夢の中で砕け散る鏡の光景や、知らない誰かの悲しい声を聞くことがあったが、目が覚めればすぐに忘れてしまう、断片的なイメージに過ぎなかった。


今の彼女にとって、優しい両親と、心配性の親友、そして自分を慕ってくれる温かい領民たちに囲まれたこの生活がすべてだった。心から満たされた、笑顔の絶えない毎日。それは、かつて彼女が失い、そして心の底から求めていたものなのかもしれない。


しかし、この時アンナはまだ知らなかった。

この世界の空にも、かつて彼女が戦った絶望の影が、静かに、しかし確実に忍び寄りつつあることを。そして、彼女のその類稀なる力が、決して偶然の産物ではないということを。


今はまだ、ただの心優しくおてんばな貴族の令嬢。


アンナ・ミラナティアの物語は、この平和な日常から、やがて大きく動き出すことになる。

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