18話『侯爵令嬢、過去を語る』
月明かりが、手入れの行き届いたスヴァンフルート家の庭園を銀色に染めていた。大理石の噴水が静かな水音を立て、夜風に揺れる薔薇の甘い香りが、ブリジットの乱れた心を撫でる。彼女は、パーティの喧騒から逃れるようにして、一人この場所に駆け込んできた。窮屈なドレスのコルセットが、まるで父の期待という名の鎖のように、彼女の体に食い込んでいる。
「……馬鹿みたいですわ」
噴水の縁に力なく腰を下ろし、ブリジットはぽつりと呟いた。きらびやかなパーティ会場から漏れ聞こえてくる、楽しげなワルツの音色。そのすべてが、今の彼女にはひどく空々しく、自分だけが世界から切り離されてしまったかのような、深い孤独感に襲われていた。父の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。『安全な暮らし』『それがお前の役目ではない』。娘を愛するがゆえの言葉だと分かっている。痛いほどに。それでも、その言葉は鋭い棘となって、ブリジットの誇りを深く傷つけた。込み上げてくる涙を、彼女は奥歯を噛み締めて必死にこらえる。侯爵家の令嬢として、人前で涙を見せることなど、許されないのだから。
「やっぱり、ここにいたんだね」
不意に、背後から優しい声がかけられた。振り返るまでもない。それは、どんな時でも真っ直ぐに自分を見つめてくれる、大切な仲間の声だった。
アンナが、ブリジットの隣に、そっと腰を下ろした。彼女も、パーティ用に用意されたのだろう、少しだけフリルのついた可愛らしいドレスを着ている。
「やっぱり、お見合いの話は嘘だったね。私の直感、外しちゃった。ごめん」
アンナは、ばつの悪そうな顔で謝った。だが、ブリジットは力なく首を振る。
「いいえ、貴女のせいではありませんわ。わたくしが、父を信じきれなかっただけのこと…」
ブリジットは俯いたまま、握りしめた拳にぐっと力を込めた。抑えていた感情が、堰を切ったように溢れ出す。
「なぜ、分かってくださらないのかしら…! わたくしは、ただ剣を振り回して遊びたいわけではない! 仲間と共に、この国の民を、苦しむ人々を守りたいだけなのに…! 父は、わたくしをただ城の中に飾っておく、綺麗なお人形にしたいのですわ!」
その悲痛な叫びに、アンナは黙って耳を傾けていた。そして、しばらくの沈黙の後、静かに口を開いた。
「私の父様も母様も、最初は旅に出ることに、やっぱり反対だったんだ。すごく心配してくれた。あんなにボロボロになってアントゥルーと戦った後だったから、なおさら。でもね、最後は『お前は私たちの誇りだ』って言って、送り出してくれた」
アンナは、遠い故郷を思うように、夜空を見上げた。
「ブリジットのお父さんも、きっと同じだよ。ブリジットのことが、大切で、心配で、どうしようもないんだと思う。ただ、その伝え方が、ちょっとだけ不器用なだけなんだよ」
アンナの言葉に、ブリジットの心の壁が、ほんの少しだけ、音を立てて崩れた気がした。彼女は、ぽつり、ぽつりと、誰にも話したことのなかった自分の過去を語り始めた。
「……父が、わたくしに対してあれほど過保護になるのには、理由があるのです」
それは、ブリジットがまだ五つにもならない、幼い頃の記憶。
彼女の母は、太陽のように明るく、そして誰よりも気丈な女性だった。輝く金髪とアメジストの瞳は、母譲りのものだ。幼いブリジットが、小さな木剣を振って騎士の真似事をしていると、母はいつも、口では「女の子がはしたないですよ」と窘めながらも、その目元は優しく笑っていた。父である侯爵も、そんな妻と娘の姿を、愛おしそうに眺めている。スヴァンフルート家には、温かい光が満ち溢れていた。
あの日までは。
「わたくしの母は……わたくしが幼い頃に、魔物の襲撃で亡くなりました」
その声は、かろうじて震えを抑えていた。
「父と母、そして護衛の騎士たちが領地の村を視察していた時のことでした。突如、森の奥から、見たこともないような数の魔物の群れが現れたのです。ゴブリン、オーク、巨大な狼…。父も、騎士たちも、必死に戦いました。ですが、敵の数が、あまりにも多すぎた…」
混乱の中、一匹のオークが、恐怖で立ちすくんでいた幼いブリジットに狙いを定めた。巨大な棍棒が、振り上げられる。もうダメだ、と誰もが思った、その瞬間。
母が、ブリジットの前に立ちはだかった。
「母は、わたくしを庇って…その一撃を、背中に…。わたくしの目の前で、血だまりの中に、崩れ落ちていきました…」
その日を境に、城から光は消えた。父は、最愛の妻を守れなかったことを、生涯の悔いとして、その心に深い傷を負った。そして、妻が命をかけて守ったたった一人の娘、ブリジットだけは、何があっても自分が守り抜かなければならないと、固く誓ったのだ。
「それから、父は変わりました。わたくしが剣を握ることを禁じ、ドレスと宝石を与え、家庭教師をつけて、淑女としての教育だけを徹底させました。わたくしを、どんな危険からも遠ざけるために…。父の愛情は、痛いほど理解できます。母を失った父の悲しみも。でも…!」
ブリジットは顔を上げ、涙に濡れた瞳で、アンナを真っ直ぐに見つめた。
「でも、その愛情は、いつしかわたくしを閉じ込める鳥かごになりました! わたくしは、母のように、誰かを守れる強い人間になりたい! 父に守られるだけのお人形ではなく、自らの足で立ち、自らの剣で、民の笑顔を守りたいのです! それが、母の娘である、わたくしの誇りなのに…!」
父の愛と、自分の信念。その間で、ブリジットの心は引き裂かれそうになっていた。
ブリジットの魂からの告白を、アンナは黙って、しかし真剣な眼差しで受け止めていた。すべてを聞き終えると、彼女は力強く、そして優しく言った。
「ブリジットは、もうお人形なんかじゃないよ」
その言葉には、一片の疑いも同情もなかった。ただ、絶対的な真実として、彼女の心に響いた。
「ブリジットは、強くて、優しくて、ちょっと意地っ張りだけど、誰よりも仲間を想ってくれる、立派な冒険者だ。私は、そんなブリジットとチームを組めて、本当に良かったって思ってる」
「アンナ…」
「お母さんも、きっと今のブリジットを見たら、すごく誇りに思うよ。『よくぞ、私の娘として、立派に育ってくれました』って、きっとあの空の上で、笑ってる」
アンナはそう言って、にっと笑った。その屈託のない笑顔は、ブリジットの心に絡みついていた、長年の呪いのようなものを、いともたやすく解きほぐしていく。
そうだ、自分はもう一人じゃない。このどうしようもない想いを、分かち合ってくれる仲間がいる。共に戦い、背中を預けられる、かけがえのない友がいる。
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。ブリジットの瞳から、こらえきれなかった大粒の涙が、次々とこぼれ落ちる。それは、悲しみや悔しさの涙ではなかった。アンナという光に出会えたことへの、感謝と安堵の、温かい涙だった。
「アンナ様ー! ブリジット様ー! こんな所にいらしたんですね!」
そこへ、心配して二人を探しに来たのだろう、カナリアがドレスの裾をたくし上げながら、小走りでやってきた。そして、泣いているブリジットの姿を見て、ぎょっと目を見開く。
「ブ、ブリジット様!? どうなさったんですか!? いけません、アンナ様! ブリジット様を泣かせるなんて!」
「ええっ!? 私のせいじゃないよ!」
慌てて弁解するアンナと、オロオロしながらもハンカチを差し出すカナリア。その二人の姿が、あまりにもおかしくて、ブリジットは涙に濡れた顔のまま、ふっと笑みを漏らした。
「ふふっ…ありがとう、二人とも。もう、大丈夫ですわ」
涙を拭い、彼女はすっくと立ち上がった。そのアメジストの瞳には、もう迷いはなかった。
「さあ、戻りましょう。そして、父にもう一度、きちんと話をしてきます。わたくしの覚悟を」
その背中は、もうただの令嬢のものではなかった。自らの運命を選び取り、仲間と共に未来を切り拓いていく、一人の強く、美しい戦士の背中だった。




