14話『不気味な依頼』
王立魔法研究院から帰ったその夜。王都の宿屋の一室は、静かな寝息と、小さな魔法のきらめきに満たされていた。
ベッドの上では、アンナが大の字になって、すやすやと幸せそうな寝顔で眠りこけている。今日一日の出来事で心身ともに疲れたのだろう。その傍らで、カナリアはランプの灯りを頼りに、床に座り込んでいた。彼女の前には、ギルドの売店でなけなしの金貨をはたいて買った、数冊の初級魔法の呪文書が広げられている。
「…ルーメン・スフェラ…光よ、集え…」
カナリアは、小声で呪文を詠唱する。すると、彼女の指先に、蛍ほどの小さな光の玉がぽ、と灯った。しかし、それも数秒と経たずに、頼りなく揺らめいて消えてしまう。
「うぅ……やっぱり、難しいです……」
彼女は悔しそうに唇を噛むと、今度は別のページを開いた。
『アクア・バブル』。小さな水の球体を生成する、ごく初歩の元素魔法だ。アンナが得意な体術や、ブリジットの華麗な剣技に比べれば、あまりにも地味で、戦闘の役には立ちそうもない魔法。それでも、今のカナリアは必死だった。治癒魔法と防御魔法だけじゃない 。もっと、もっと多くのことを学んで、少しでもアンナの力になりたい。その一心だった。
「……根を詰めすぎると、体に毒ですわよ」
不意に、背後から静かな声がかけられた。カナリアがびくりとして振り返ると、ベッドの上で上半身を起こしたブリジットが、本から顔を上げてこちらを見ていた。
「す、すみません! 起こしてしまいましたか!?」
「いいえ。貴方のその熱意が、少々眩しかっただけですわ」
ブリジットはベッドから降りると、カナリアの隣に静かに腰を下ろした。ランプの光が、彼女の金色の髪を柔らかく照らし出す。
「アンナが眠った後も、ずっとそうしているのでしょう? そんなに必死になって、一体どうしたというのですか」
その問いに、カナリアは俯いた。
「……はい。あの、アンナ様のお話を聞いてから……私、もっともっと、頑張らなきゃって、思ったんです」
「彼女自身が、元のティアドリームとかいう戦士のコピーだという、あのお話のこと?」
「それも……あるんですけど……」
カナリアは、きゅっと唇を結んだ。
「鏡の女王って人の事を話している時のアンナ様……すごく、辛そうだったから……。アンナ様は、いつも明るくて、強くて、みんなを引っ張ってくれるけど……本当は、すごく重たいものを、たった一人で背負ってるんだって……そう思ったら……」
言葉が、詰まる。
「私は、アンナ様の侍女で、それに……友達なんです。だから、私……アンナ様の隣で、ただ守られているだけじゃなくて、ちゃんと力になりたい。アンナ様の心を少しでも軽くできるくらい、強くなりたいんです」
その健気な決意を聞いて、ブリジットはほう、と小さく息を吐いた。
「……仲が、よろしいのね。貴女たち」
その声には、いつものような棘はなく、どこか羨むような、優しい響きがあった。
「はい!」
カナリアは、顔を上げてにっこりと笑った。
「私、元々は、すごく貧しい家の出なんです。たくさんいる弟や妹たちを食べさせるために、ミラナティア伯爵家に奉公に出ました。少しでも家族の生活を、楽にしたくて」
それは、ブリジットが初めて聞く、カナリア自身の身の上話だった。
「でも、私、お貴族様のお屋敷での作法なんて、全然知らなくて……。高価なお皿を割ってしまったり、奥様のドレスにスープをこぼしてしまったり、本当に、失敗ばかりで……」
カナリアは、遠い目をして当時を振り返る。
「その度に、厳しいメイド長に叱られて、もうクビになるって、何度も思いました。でも、そんな時、いつも私を庇ってくれたのが、アンナ様だったんです」
まだ幼かったアンナは、メイド長の前でいつも、「それ、私がやったの! カナリアは悪くない!」と、胸を張って嘘をついてくれたのだという。もちろん、すぐにバレて、結局は二人一緒に叱られるのが常だったが。
「アンナ様は、昔からずっと、変わらないんです。誰かのために自分を犠牲にすることを、少しも厭わない。だから、あの日、ティアドリームという方を庇って命を落としたというお話も……私には、すぐに信じられました。アンナ様は、そういうお方なんです。昔からずっと……私の、ヒーローなんです」
そこまで一気に語ると、カナリアは照れくさそうに頬を掻いた。
「……って、すみません! ブリジット様! え……? あの……」
ふと、隣のブリジットの様子がおかしいことに気づく。彼女は、俯いて、その肩を小刻みに震わせていた。そして、ぽた、ぽたと、大粒の涙が床に落ちていく。
「ブリジット様!? すごい、涙が……っ! ど、どこかお具合でも!?」
「うっ……ううっ……!」
ブリジットは顔を上げ、そのアメジストの瞳を涙でいっぱいにして、しゃくりあげた。
「ご、ごめんなさい……! わ、わたくし……そういう、うっ……健気な子の話とか、友情とか……そういうのに、めちゃくちゃ弱くてぇ゛……!! うわああああん!!」
ついに、彼女は子供のように大声で泣き出してしまった。高慢で、常に冷静沈着を装っていた彼女の、あまりにも意外な一面だった。
「え、えええっ!? あ、あの、泣かないでくださいまし、ブリジット様!」
今度はカナリアが、号泣するブリジットを慌ててなだめる番だった。二人の少女の、涙と笑いの入り混じった、温かい夜は、そうして更けていった。
翌日。三人が冒険者ギルドに顔を出すと、掲示板の前が少しざわついていた。
「何かあったのかしら?」
ブリジットが首を傾げながら人だかりを覗き込むと、その中央に、一枚だけひときわ新しい依頼書が貼られているのが見えた。
依頼内容は『北の鉱山跡に出没した魔獣の群れの討伐』。一見すると、Cランクチーム向けの、ごく普通の依頼だ。しかし、問題はその但し書きにあった。
『特記事項:鉱山跡の深部にて、人語を解する黒い怪物、通称『アントゥルー』らしき魔物の目撃情報あり。討伐には多大な危険を伴うため、アントゥルーへの対処経験を持つ腕利きの冒険者チームの参加を、特に歓迎する』
「アントゥルー……!」
アンナの目が、カッと見開かれた。
「また、あいつらが……!」
だが、その依頼書を少し離れた場所から見ていたフェルディナンドは、厳しい顔で眉をひそめていた。あまりにも、タイミングが良すぎる。そして、記述が具体的すぎる。『アントゥルーへの対処経験を持つ者』など、今の王都にはミラージュアモーレをおいて他にいない。これは、明らかに彼女たちを名指しで誘い出すための、巧妙に仕組まれた罠ではないか。
しかし、アンナの正義感と行動力は、そんな慎重な思考を遥かに上回る。
「これだ! 私たちが行かなきゃ!」
彼女は迷うことなく人垣をかき分け、依頼書をビリッと剥ぎ取ると、受付カウンターへと駆け出した。
「あ、アンナ様、お待ちください!」
「まったく、あの方の行動力は……!」
カナリアとブリジットが、やれやれと溜息をつきながら、その後を追う。
「嬢ちゃんたち、待ちな」
依頼の受理を済ませた三人を、フェルディナンドが低い声で呼び止めた。
「その依頼、何か妙だ。あまりにも話が出来すぎている。まるで、君たちが出てくるのを待っていたかのようだ。……罠の匂いがする」
元Sランク冒険者の、研ぎ澄まされた勘が、明確な危険信号を発していた。
「受けるにしても、いつも以上に十分に気を付けるんだ。少しでも危険を感じたら、プライドも報酬も捨てて、迷わず撤退しろ。いいな? これはギルドマスターとしての命令だ」
真剣な眼差しで、フェルディナンドが強く警告する。
「うん、わかった! 大丈夫、任せて、フェルディナンド!」
アンナは、彼の心配を吹き飛ばすかのように、ニカッと笑って元気に答えた。そして、二人の仲間を振り返る。
「さあ、行こう! 困ってる人がいるかもしれないんだから!」
「はい、アンナ様!」「ええ、仕方ありませんわね」
三人は、ギルドに集う冒険者たちの声援を背に、新たな戦いの地へと勢いよく出発していった。
その頼もしくも危うい後ろ姿を、フェルディナンドは腕を組みながら、厳しい表情で見送っていた。
「……嵐の前の静けさ、でなければいいがな」
彼の重々しい呟きは、ギルドの喧騒の中に静かに消えていった。
ダークイマージュの巧妙な罠が、その牙を剥く時が、刻一刻と迫っていることを、今はまだ誰も知らないのだった。




