9話『出現!グリーヴァ!』
王都を出て半日。三人を乗せた馬車が揺れる道は、次第に寂しいものへと変わっていった。きらびやかだった王都の喧騒は遠くになり、代わりに風の音と、時折聞こえる鳥の声だけが耳に届く。
アンナは窓の外を眺め、カナリアは鞄から取り出したお菓子をそわそわと見つめ、ブリジットは腕を組んだまま、不機嫌そうに黙り込んでいる。奇妙なパーティの初仕事は、ぎこちない沈黙の中から始まった。
やがて馬車は目的地である廃村の入り口に到着した。御者に礼を言い、三人は荒れ地へと足を踏み入れる。
そこは、時間が止まったかのような場所だった。屋根が崩れ落ちた家々が亡霊のように立ち並び、乾いた風が戸のない窓を吹き抜けて、ヒューヒューと悲しげな音を立てている。かつては人々の営みがあったであろう道の真ん中には、枯れた雑草が茂るばかりだ。不吉なほどの静寂が、三人の肩に重くのしかかっていた。
「……なんだか、嫌な感じがしますわね」
ブリジットが腰のレイピアの柄に手をやり、警戒を露わにする。
「ええ。何かが、この土地の空気を淀ませているような……」
カナリアもまた、不安げに周囲を見回した。
アンナだけが、静かに目を閉じていた。彼女の肌が、この地に漂う微かな悪意を敏感に感じ取っている。それは、ダークミラーが放つ特有の気配だった。
「…来る」
アンナが呟いた、その瞬間。
ズシン、という地響きと共に、廃村で最も大きな建物だった教会の残骸から、巨大な影が姿を現した。
全長は大型の馬車を優に超える。全身は、鈍い光を放つ強靭そうな緑色の鱗で覆われ、太くしなやかな尻尾が大地を打っている。巨大な顎からは、見るからに毒々しい紫色をした牙が何本も突き出し、涎のように毒液を滴らせていた。空は飛べず、火も吐けない。だが、その巨体と強力な毒の牙を持つ大型の魔物。依頼書にあった標的、『レッサードラゴン』だ。
「グルルルルルル……」
ドラゴンは低い唸り声を上げ、その濁った瞳で侵入者である三人を捉えた。
その威容を前に、アンナは思わずといった様子で、ぽつりと呟いた。
「それって、ただの大きな毒トカゲじゃない?」
「アンナ様! 不謹慎です!」「あなたねえ! 少しは緊張感というものを持ちなさい!」
カナリアとブリジットから、同時にツッコミが入る。
しかし、アンナの言葉が挑発になったわけではないだろう。レッサードラゴンは、構うことなく猛然と三人に突進してきた。その巨体からは想像もつかないほどの速度だった。
「来ますわよ!」
ブリジットの鋭い声が響く。それを合図に、三人は完璧な陣形を取った。
「はあっ!」
最初に動いたのはアンナだった。彼女はその超人的な身体能力を解放し、弾丸のようにドラゴンの側面へと駆け込む。ドラゴンの注意を引きつける、最も危険な囮役だ。
「グガアアッ!」
ドラゴンはアンナを追って巨大な頭を振り、毒の牙が並んだ顎で噛みつこうとするが、アンナはそれを紙一重で回避する。そのままドラゴンの胴体を駆け上がり、背後へと回り込んだ。
「そっちよ!」
アンナが叫ぶと同時に、ドラゴンが長い尻尾を鞭のようにしならせて薙ぎ払う。だが、その動きを読んでいたかのように、アンナは高く跳躍してそれをかわした。
アンナが巧みにドラゴンの注意を引きつけている、その隙をブリジットが見逃すはずもなかった。
「シルフの舞!」
ブリジットの体は、まるで風に舞う木の葉のように滑らかに動き、ドラゴンの懐へと潜り込む。彼女の振るうレイピアは、ただ闇雲に攻撃するのではない。アンナが作った一瞬の隙、ドラゴンの分厚い鱗の継ぎ目、動きの起点となる関節、防御の薄い腹部。そういった急所を、驚くほど的確に、そして精密に突いていく。
「ギッ!」
鋭い切っ先が鱗の隙間に突き立てられ、ドラゴンが苦痛の声を上げる。しかし、致命傷には至らない。怒り狂ったドラゴンは目標をブリジットに変え、前足の鋭い爪を振り下ろした。
「させません!」
その攻撃を読んでいたのは、後方で杖を構えていたカナリアだった。
「プロテクション・ウォール!」
カナリアが叫ぶと、ブリジットの前に半透明の光の壁が出現し、ドラゴンの爪撃を甲高い音を立てて防いだ。
「助かりましたわ、カナリア!」
「お気をつけて、ブリジット様!」
防御魔法と、かすり傷を癒す回復魔法。派手さはないが、カナリアの支援がなければ、前衛の二人は一瞬で致命傷を負いかねない。アンナが撹乱し、ブリジットが攻撃し、カナリアが守る。初めて組んだとは思えないほどの見事なコンビネーションだった。三人の歯車は、完璧に噛み合っていた。
レッサードラゴンは、格下と見ていたはずの小さな獲物たちに翻弄され、みるみるうちにその体に傷を増やしていく。その動きは次第に鈍り、荒い息をつき始めていた。勝利は目前だった。
「私たち、息ピッタリだね!」
ドラゴンの攻撃をひらりとかわしながら、アンナが快活に笑った。その言葉に、ブリジットも口の端を上げて応える。
「当然ですわ! あなたの動きが予測しやすいだけのこと!」
憎まれ口を叩きながらも、その表情には確かな手応えが浮かんでいる。
アンナとブリジット、二人の心が一つになった、その瞬間だった。
「――ほう、貴様が女王様の失敗作か! 噂通り、威勢がいいではないか!」
地の底から響くような、邪悪な声が戦場に響き渡った。
三人は同時に動きを止め、声のした方を見上げる。そこには、いつの間に現れたのか、廃村の教会の崩れた屋根の上に、一人の大男が仁王立ちしていた。
夕陽を背に、肩まである赤毛を猛々しく逆立て、筋骨隆々の巨体は、それ自体が凶器のような威圧感を放っている。その全身から立ち上る禍々しいオーラは、レッサードラゴンの比ではなかった。
アンナの心臓が、警鐘を乱れ打つ。あの男から感じる気配は、森で出会ったラメントと同質。そして、より濃密で、暴力的だ。
「あなたは…!? まさか、ダークイマージュ!?」
アンナの叫びに、大男は心底愉快そうに、その口を大きく歪めた。
「その通り! 俺様はグリーヴァ! ダークイマージュ三幹部が一人よ!」
グリーヴァと名乗った怪人は、天に向かって高らかに咆哮した 。その声だけで、大気がビリビリと震える。
ブリジットとカナリアは、その圧倒的な存在感を前に、息を呑んで身構えた。状況は一変した。目の前のドラゴンだけではない。規格外の敵が、もう一人現れたのだ。
「わざわざ出向いてやったってのによぉ、てめえらのお陰で、こいつはもう使いモンにならねえじゃねえか」
グリーヴァは、満身創痍のレッサードラゴンを見下ろし、心底つまらなそうに吐き捨てた。そして、その手に持っていた黒い鏡の破片――ダークミラーを、まるで玩具のように弄びながら天にかざした。
「だがまあ、いい。てめえらには、もっといいオモチャを用意してやったぜ」
ダークミラーが不吉な光を放つ。すると、グリーヴァの足元の地面が盛り上がり、土をかき分けて、一体の『何か』が這い出てきた。
それは、かつて人間だったものであろう、歪な人型をした怪物だった。肌はどす黒く変色し、虚ろな目が憎悪の光をたたえている。
「アントゥルーゥ……」
間違いなく、アントゥルーだった。
だが、グリーヴァの狂気はそれだけでは終わらない。
「そして、こいつもお前らにくれてやる!」
彼はそう叫ぶと、弱って地面に伏しているレッサードラゴンに向かって、もう一つのダークミラーを力任せに投げつけた。
黒い鏡片は、吸い込まれるようにドラゴンの背中に突き刺さる。
「グギャアアアアアアアアアアッ!!」
レッサードラゴンの断末魔が、荒れ地に響き渡った。
黒い瘴気が、ダークミラーが突き刺さった場所から、まるで墨を流したようにドラゴンの全身へと広がっていく。緑色だった強靭な鱗は、見る見るうちに禍々しい漆黒へと変色し、その表面にはひび割れた鏡のような、不気味な紋様が浮かび上がった。
そして、グリーヴァが生み出した人型のアントゥルーが、まるで引き寄せられるかのように、苦しむドラゴンへと歩み寄り、その体にずぶずぶと溶けるように吸収されていった。
融合。それは、悪夢そのものの光景だった。
ドラゴンの体が、ありえないほどに膨れ上がっていく。背中が裂け、そこから吸収したアントゥルーのものだろうか、不気味な黒い腕が何本も突き出す。目は憎悪に燃える赤黒い光を放ち、もはや知性の欠片も感じさせない、純粋な破壊衝動の塊へと変貌を遂げていた。
それはもはや、レッサードラゴンではない。二つの絶望が一つになった、まったく新しい、より凶悪な怪物だった。
「さあ、お遊びの時間だ! 思う存分、絶望しやがれェ!!」
グリーヴァが腹の底から高笑いする中、強大に『進化』したアントゥルーが、天に向かって咆哮した。
その咆哮は、先ほどまでの比ではなかった。衝撃波を伴うその声だけで、周囲の建物の壁がガラガラと崩れ落ちる。
次の瞬間、怪物の姿が消えた。
「どこへ――!?」
ブリジットが叫ぶより早く、凄まじい衝撃が彼女の体を襲った。見えないほどの速度で接近した怪物の薙ぎ払った一撃が、彼女を紙切れのように吹き飛ばしたのだ。
「ブリジット様!」
カナリアの悲鳴が響く。アンナは咄嗟に駆け寄り、吹き飛ばされたブリジットを抱きとめた。
「ぐっ……! か、硬い……なんて力……!」
ブリジットは口の端から血を流し、驚愕に目を見開いていた。彼女の渾身の防御ごと、その攻撃は貫いてきたのだ。
そして、その脅威はすぐにアンナたちにも向けられる。怪物が振り下ろした、岩山のような剛腕。アンナはブリジットを抱えたまま、全速力で後ろへ跳躍する。直後、先ほどまでいた場所の地面が、クレーターのように陥没した。
次元が違う。速さも、力も、先ほどのレッサードラゴンとは比べ物にならない。
絶望的な力の差。
グリーヴァの高笑いが、戦場に響き渡る。三人の顔から、血の気が引いていくのがわかった。
これが、ダークイマージュ幹部の力。これが、アントゥルーの真の恐怖。
たった今生まれたばかりの、奇跡のような連携は、絶対的な暴力の前に、いともたやすく打ち砕かれようとしていた。