さよなら、九月
「大将、久しぶり」
「これはこれは、旦那。お久しぶりです」
「やっと飲みに来ることができて嬉しいよ」
「私も旦那の顔を見ることができて嬉しいです。さて、何になされますか?」
「とりあえず生で。あと漬物盛り合わせと」
「はいよ」
………………
「はい、お待ちどう」
「ありがとう…………あー、やっぱり仕事終わりのビールは美味いねえ」
「そりゃあよかった。かれこれ一年ぶりですね。お元気でしたか?」
「ぼちぼちかな。それにしても今年は大変だったろう?」
「いやいや、うちだけじゃないんで。まあ大変じゃなかったと言えば嘘になりますが」
「流行り病に台風に大雨、それから不景気。まあ不景気は今に始まったことじゃないけどさ。九月は特に何かといろいろある月だって言うだろう? 昔から嫌われやすいんだよな」
「そんなそんな、旦那まだ一杯目ですよ? もしかしてもうどこかでひっかけて来られましたか?」
「そんなことないよ、ここが一軒目さ。仕事終わりの一杯目はここに決めてるんだから」
「これは嬉しいことを言ってくださる」
「そうだ、大将も何か飲みなよ。そうだ生はどうだい?」
「じゃあお言葉に甘えて、生ビールいただきますね」
「やっぱり酒は一人で飲んでも美味いが誰かと飲む方が格段に美味いからねえ」
「それじゃあ旦那、いただきます」
「ああ、飲んでくれ飲んでくれ」
カチャン
「それにしても今年も暑かったねえ」
「そうですねえ、暑かったですねえ。例年夏は暑いとよくビールが売れるんですが今年は思うように店を開けられなかったんで少し辛いものが……おっといけない。失礼しました」
「いいよいいよ。でもこの店がこうして残っていておれは嬉しいよ」
「旦那みたいに来てくださる方がいらっしゃるんで私もできるところまで頑張ろうと思っているんですよ。私の居場所はここしかありませんから」
「すまないねえ、本当はもっと顔を出したいんだけどそれがなかなか……」
「何をおっしゃるんですか、こうしてまた顔を出してくださって私は嬉しいんですよ」
「そうかい、それはよかった。あ、大将、おでんはあるかい?」
「はい、今日から出せるように仕込んでおりました」
「じゃあおでん盛り合わせ。それからそうだな、熱燗……二合もらえるかな」
「はいよ」
………………
「はい、お待ちどう。今日は大根と白滝にちくわぶ。それからがんもにじゃがいもと餅巾着です。こんにゃくはサービスです」
「おお、美味しそうだ。大将のおでんは毎年楽しみなんだ。ここのおでんを食べるためにおれはこの三十日間頑張ることができたよ」
「そんなそんな、これ以上褒めても何も出ませんよ」
「お世辞じゃないさ…………ああ、やっぱり美味い。そして日本酒がよくあう。これは箸が止まらないよ」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
「そうだ、今日から営業再開だろう? おれは今日までしかこっちにいられないからさ、もし今日も店が閉まっていたらどうしようとずっとそわそわしてたんだ」
「そいつはご心配おかけしました。でもこうして店を開けられるのも支えてくれる皆さんのおかげですよ」
「大将はいつ来ても謙虚だねえ」
「いやいやそんな。そういえば10月だから神無月の旦那が今日からお忙しいんですよね?」
「ああ、あいつ今日から張り切ってたよ。でもなんだかずるいよなあ、あいつの出番になった途端店が開くんだから」
「まあまあそうおっしゃらずに。きっと来年には元通りになってますよ」
「そうだといいんだが……まあ、そうだな、止まない雨はなんとやらだな」
「そうですよ。来年もまたいらしてくださいな。きっと毎日店が開けられるようになってます。私はここでお待ちしておりますよ」
「ああ、必ず来るから大将も元気でな。お、お客が来たようだ。今日はもうおいとまするよ」
「ありがとうございます。お代は……」
「ああ、これで頼む。釣りはいらないよ」
「いやいや、これはいくらなんでももらい過ぎです」
「今年はもう来れないんだ。おれの気持ちだ、受け取っておくれよ」
「そんな……じゃあいただきます。本当にありがとうございます」
「いいんだ気にしないでおくれ。じゃあまた来年」
「はい、またのお越しをお待ちしております」
………………………………
「どうだった?」
「どうって何これ?」
昼休みにどうしても読んで欲しいと麻友からノートを渡された。そこには割烹着を着た小さなおじさんと、顔に『長月』と書かれたコートを着た男のイラスト、それから会話文が書いてあった。
「何って九月と小料理屋の店主のお話」
「うん、ごめん、意味がわからない」
「ふと、授業中に思いついたの。10月1日にね、営業再開になった小料理屋に九月が顔を出しにやってくるって話」
「九月って人の形してるの?」
「いいの、そんな細かいことは。九月は毎年9月1日に人間界にきて30日まで働くの。そして10月1日に十月に仕事を引き継いで10月2日になる前にカレンダーの世界に帰らなきゃいけないの」
「はあ……」
「でね、九月はこのおじさんのお店が好きなの。本当は9月1日から30日まで毎日通いたかったんだけれど小料理屋が営業自粛していたから行けなかったわけ。それで10月1日にやっと小料理屋が営業再開したから帰る前におじさんの店に来ることができて嬉しくて仕方がないの。どう?」
「どう? って言われても……何と言うかツッコミどころ満載だけど……」
「そうかなあ……細かいことは目をつぶってさ、この大人二人の関係を見てよ。なんだか萌えない?」
「これは萌なの?」
「自分はもう帰らないといけない。でも、十月はこれから毎日ここで大将と話しながらお酒を……なんて考えて少し嫉妬しちゃう九月がなんとも」
「萌えるとこそこなんだ……」
「そうよ、他にどこに萌える要素があるのよ」
「ごめん、私この話ついていけない」
「えー、でも今日10月1日にはぴったりなお話でしょ?」
「は?」
「え?」
「今日はもう10月3日ですよ麻友さん」
「え、でもほら黒板は10月1日って」
「あれは日直が書き直すのをずっと忘れてるだけでしょ」
「じゃあ九月はもうカレンダーの世界に帰ってるってこと?」
「いやそれあんたが考えた設定でしょうが」
「そんな…………今夜大将と九月の甘いひと時が行われると思ってたのに…………」
「あの、もうなんかよくわからないけど、どんまい……」
外では秋風が吹き、秋の訪れを告げている。
今年もおでんがおいしい季節の始まりである。