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ものぐさ博士と世話好き助手

作者: 樫本 紗樹

「あら、助手はどうしたの?」

「お見合いすると言って出ていったきりね」


 エレナは目を見開きながらも、私が差し出した薬を受け取った。普段ルーベンが対応していたとはいえ、いないだけでそこまで驚くのは大袈裟だ。


「いつ?」

「うーん。七日前くらい?」


 エレナは研究所を見回している。部外者はあまり見ないでほしいけれど、エレナが私の研究を売るとは思えないから、まぁいいか。盗める位置に薬も置いていないし。


「部屋が乱れていないから嘘ね」

「失礼な。私は元々生活能力があるの」

「ソフィア、嘘はいけないわ。助手が来るまで酷かったのは忘れていないわよ」


 それは認める。研究さえ出来ればいいと思っていたから、整頓なんて気にもしていなかった。だけど。


「ルーベンが勝手にするのを放置したせいで、片付ける事を覚えたの」


 道具を出しっぱなしにしておくより、定位置に戻した方が探す手間が省けると気付いてしまった。急がば回れではないけれど、研究にも仕事にも整理整頓は大切らしい。これに気付けただけでも、ルーベンを助手として雇った甲斐はあった。


「ちなみに助手のお見合いを止めなかったの?」

「ルーベンが結婚しようがしまいが私には関係ないわ」


 私達は仲良くやっていたと思う。だけど甘い関係ではなく、ものぐさ上司と気が利く部下だろうか。この関係がなくなる事を恐れてルーベンには何も言えなかった。その一歩を踏み出せなかった私に、彼のお見合いを止める権利はない。


「本気で言っているの?」

「むしろ何故私が止めないといけないのよ」


 ルーベンを助手として雇ったはずなのに、彼は仕事の助手だけでなく私の身の回りの世話までし始めた。給料は上乗せしなくていいと言うから彼に甘えていたが、元々私はこの研究所兼自宅に一人で暮らしていたのだ。


 面倒から逃れられると気軽に彼の行動を受け入れてしまった私も悪いのだろう。すぐに絆されてしまったし。ルーベンと一緒に過ごすのは楽しかったから、このまま続けばいいと思っていた。だけど三十歳目前の私が将来のある若者の未来を拘束してはいけない。年相応の相手と結婚するのは自然な事だ。


「ソフィアは罪な女ね」

「人の役に立とうと薬の研究をしているのに?」

「そういう話はしていないわ。もう、助手に逃げられたらどうするのよ」

「次を探すだけね。早速募集をかけようかしら」

「代わりが利くの?」

「希望は若い男性、給料は応相談で募集を出しておいて」


 一人で出来なくはないけれど、男手が便利と知ってしまった。資料など重い物を運ぶのだけは任せたい。爺さんが来てぎっくり腰になったら困るし、櫛より重い物は持てませーんとか言う女の子も困るし、助手は若い男に限るわ。


「本当に罪な女ね」

「職業紹介所職員に募集を依頼する事の何が罪なの?」


 そもそもルーベンを連れてきたのはエレナなのに。扱い難いらしくて定職出来ないけれどいい子だから宜しく、と満面の笑みで押し切られて彼を雇った恩を忘れたのか。だけどエレナが声を掛けてくれなかったらルーベンとは会えなかったわけで。楽しい二年を過ごせた事には感謝をしたい。そもそもどこが扱い難かったのだろう。進んで研究はしなかったけど、片付けも手伝いも身の回りの世話もしてくれたのに。


「だって助手は辞めてないのでしょう?」

「無断欠勤七日なら辞めたのよ。とにかく男手を至急宜しく。ほら、薬は渡したのだからもう帰って。助手が居なくて忙しいから」


 まだ何か言いたそうなエレナを無理矢理帰らせて、椅子に身体を預けた。いつもなら休憩しませんか、とルーベンが珈琲を淹れてくれる。だけど当然珈琲は出てこない。


 結婚後も助手を続けて欲しいけれど、結婚相手からしたら女性上司と二人だけの職場は嫌よね。私もその立場ならいい気分ではない。揉め事になるくらいなら退職させた方がルーベンの為だろう。そうなるともうルーベンの手料理が食べられないのか。それは惜しいなぁ。





「博士! 僕というものがありながら何故募集をかけようとしているのですか」

「ルーベンが辞めると思ったからよ」


 エレナが帰ってからあまり時間は経過していない。多分お節介なエレナが募集をかける前にルーベンに連絡したのだろう。しかしこれだけ早く来られるのなら七日間も何をしていたのか。


「辞める気はありません」

「七日も休んでいたのは誰かしら」

「実家の住所とお見合いの日時を書いて、休暇届と共にここに置きました」


 ルーベンは音を立てて机を叩く。そこには彼がお見合いをすると言った日に置いていった紙がある。勝手に彼の机の物を見るのも悪いと思ってそのまま放置していたが、休暇届だったのか。物を置く時は一言欲しいなぁ。いや、あの日は研究に集中していたから適当に聞き流したかもしれない。

 ルーベンの手元に手を伸ばして紙を見ると、五日間の休暇申請と書いてある。日数が二日足りていない。堂々としているけれど無断欠勤ではないか。


「そもそも僕が居ないと博士は生活もままならないでしょう?」

「別に。研究所もご覧の通りよ」


 ルーベンは研究所を見渡して眉を顰めている。これは私の事を駄目人間だと思っているな。自宅の方も散らかしていないから確認しに行ってもいいぞ。私はやれば出来るのだ、やらないだけで。料理は出来ないから最近総菜しか食べていないけれど。あー、ここまで来たなら今日の夕飯を作って欲しいなぁ。


「博士、整頓出来るのですか」

「失礼ね。出来るわよ」

「いつも出しっぱなしではないですか」

「私が片付けるより先にルーベンが片付けていただけ」


 いくら元に戻した方がいいとわかっていても、所詮面倒臭がりだから後回しにする。それにルーベンが片付けるだろうと甘えてもいた。一人なら自分でやるしかない。折角ルーベンが整えてくれた研究所を昔の酷い有様にはしたくない。


「もう僕が用無しだから捨てるのですか」

「言い方がおかしくないかしら。ルーベンが勝手に出ていったのでしょう?」

「僕は博士が迎えに来るのを待っていました。それなのに簡単に捨てるのは酷いと思います」


 お見合いをすると出ていったのはルーベンの方なのに。何故私が迎えに行かなければいけないのか。六歳年下とはいえ、成人男性なのだから自分で判断をするべきだ。


「僕が結婚しても平気なのですか」

「好きにしたらいいわよ」

「僕の存在は博士の中で、この薬の粉よりも小さいのですね」


 ルーベンが机の上にある薬の包みを睨む。私が博士になったきっかけの薬だ。母の病を治したくて必死に研究した。母には間に合わなかったけれど、これで救われる人が増えたのだから、母はきっと笑ってくれていると思う。


「しかも若い男限定とはどういう事ですか。僕より年下に手を出すなんて犯罪ですよ」

「二年も一緒にいたのだから、私が公私混同しない事はルーベンが一番知っているでしょうが」

「知っていますよ。今身をもって実感していますよ」


 ルーベンは捨てられそうな子犬のようにふるふると震えている。だけどここで甘やかしたら駄目だ。家族を養うなら本気で博士を目指した方がいいに決まっている。


「結婚はいい機会だから独立しなさい。真面目に論文を書くなら推薦してあげる」

「捨てないで下さい。結婚なんてしませんから」


 ん? 何を言っているのか、この子は。


「お見合いを断ったの?」

「……断られたのです」


 あら。傷心だったのね。お見合いを断られて無断欠勤なら仕方がないのかな。いや、連絡は出来たはずだ。それでも解雇を言い渡すのは忍びない。傷口に塩はよくないだろう。


 だけどお見合い相手も見る目がないわね。確かにルーベンは前髪が長くて野暮ったいけれど、その奥に隠れている瞳は綺麗なのに。こうして働きやすい環境を作ってくれたし、休憩しようと思った時に出てくる珈琲は美味しいし、重たい物も嫌な顔をせず運んでくれるのに。


「もしかして給料が安かったのかしら。私が相場を知らないばかりに」


 元々助手なんて雇う気もなかったから、エレナに言われたままの金額を払っている。そう言えば二年間据え置きだ。ルーベンは仕事を色々と覚えたのだから、もう少し上乗せしてあげなければいけないのかもしれない。お見合い結婚なら給料は重要事項よね。気が回らない雇い主で申し訳ない。


「給料に不満はありません」

「そう?」

「ですからここに一生置いて下さい。独立なんてしたくはありません」


 才能がなければそれでもいいのだけれど、この子はあるからなぁ。私の下にいるより、もっといい環境があると思うのだけれど。本当に何故ルーベンは他で勤められなかったのかしら。研究より人の世話をする方が好きなのかも。だけど、それでは彼の才能が勿体なさすぎる。


「博士は僕が助手だと困りますか?」

「とても助かっているわ」

「それならいいではありませんか」


 いいのかなぁ。この子の未来を潰すような選択をここでして後悔しないかな。そもそも女性博士の下で一生働く男性助手という肩書は、結婚に不利なのではないだろうか。私は気にしないけれど、普通は気にするよねぇ。


「助手は博士を目指すものよ」

「僕は肩書など気にしませんが、博士は気になりますか?」

「博士の称号は国に認められた証だから持つべきよ。ここを辞めたくないのなら、共同研究所にしてもいいし」


 何も独立を薦めなくてもいいのだ。お互い博士になって共同研究をするのも悪くない。助手を雇って二人きりでなくなれば、ルーベンの結婚相手も納得してくれるだろう。珈琲と料理は美味しいから手放し難い。でも妻以外の女に手料理を振る舞うのは面白くないか。うぅむ、珈琲だけで我慢するしかない。


「僕が博士になったら、若い男を助手として雇いますか?」

「力仕事担当は必要だと気付いちゃったからね」

「つまり僕が力仕事を引き受ければ助手は雇わないのですか?」

「それは構わないけど、大変なのはルーベンだよ」


 二人の方が気を遣わなくていいのかもしれないけれど、論文を纏めながら力仕事をするのは簡単な事ではない。それにルーベンが若い女性と結婚した後で揉めると思う。だが、伝える前に彼は瞳をキラキラと輝かせていた。


「僕、頑張ります」





 ルーベンはお見合いを断られた事が余程悔しかったのか、あの日から私の助手をしながら懸命に研究に取り組むようになった。そして論文を完成させてしまった。正しくはやる気がなかっただけで、論文の元自体は頭の中にあったらしい。臨床試験はこれからだけれど、多分問題なく実用化出来る薬。彼は博士号を国から与えられる事になった。


 ルーベンが巣立つのは寂しいなぁ。でも博士になった人を身の回りの世話要員にするのは良くない。一緒に居たら彼に甘えてしまう。彼はここを出てより多くの研究を重ね、素晴らしい薬を作っていくべきだ。


「これからはルーベンの事を博士と呼ばないといけないわね」

「いえ。ルーベンでいいです。その代わり博士の事をソフィアさんと呼ばせて下さい」

「それは構わないけど、何だかくすぐったいわ」

「ソフィアさん。共同研究所にするという約束は覚えていますか」


 私の言葉を流してルーベンは続ける。一応私にも乙女心はあるから、好きな人に名前を呼ばれた余韻に浸りたいのに。

 だけどあの時に約束したのは助手を雇わないという事で、共同研究所に関しては約束した記憶がない。そもそも彼の才能を考えると、共同は足を引っ張る可能性が高くて申し訳ない。


「共同研究所にしてもいいと言ったのは覚えているわ」

「ここの名前をロペス薬局にして貰えませんか」


 この研究所の名はエステバン薬学研究所。私の名字がエステバンでルーベンの名字がロペスだ。流石に可愛い助手の祝いだとしても、それは譲りたくない。そもそも共同なのに共同は何処へ消えた。乗っ取りではないか。確かにルーベンの方が将来性はあるけれど、それならいっそ独立するべきだ。そもそも私は研究費捻出の為に調剤をしているだけで、生涯研究者でいたい。


「嫌」

「わかりました。それなら婿で大丈夫です」

「は?」


 何を言いだしたのか全く分からない。


「ソフィアさんと結婚出来れば形は拘りません。両親も納得してくれると思います」

「私がいつ結婚するなんて言った」

「共同研究所とは夫婦で研究する場所ですよね? 研究はもう嫌ですけど」


 絶対に違う。博士が二人以上いて、同じ研究をしていたら共同だ。しかもあの論文を書き上げておいて、もう研究が嫌とはどういう事なのか。せっかくの才能が勿体ない!

 どこから説明すればいいのか迷っていると、ルーベンの表情が徐々に翳っていった。


「僕を騙したのですか」

「騙すも何も、共同研究に夫婦かどうかなんて関係ないわよ」

「それなら論文を撤回してきます。助手のままでいいなら助手がいいです」

「落ち着きなさい」


 今更あの論文を撤回出来るはずがない。臨床試験の準備は始まっていて、止めたら助かる命が救えなくなってしまう。ルーベンは己の能力を理解していないが、誰も作れなかった治療薬の論文なのだ。世の中が彼を放っておくはずがない。


「博士は誰でもなれるものではないわ。国に論文が認められて初めて得られる称号なのよ」

「要りません」

「それなら何故論文を書いたの」

「ソフィアさんが肩書を気にすると言うから手に入れただけです。確かに博士と助手よりは博士同士の方が世間体もいいと思いましたから」


 肩書を気にするなんて言ったかしら。一年前の話なんて細かく覚えていない。


「ルーベンが博士になれば女性達の見る目も変わるわ。もうお見合いで振られないはずよ」


 無断欠勤した罰として給料は据え置きにしたままだが、博士になった以上国から手当が支給される。臨床試験で安全性を国が保証してくれれば製薬の収入も増えるし、経済面は問題なくなるはず。


「ソフィアさんは僕がお見合いで相手を探せるように、博士号を取得するように勧めたのですか」

「まぁ、そうね」


 ルーベンと二人で過ごすのは心地よい。研究一筋でここまで生きてきたけれど、彼との生活はなかなか楽しかった。だけど研究しなくていいからと逃げの姿勢で結婚するのは、私が許せない。


「ソフィアさんがどれだけお見合い話を持ってきても全部断りますからね」

「意固地にならない方がいいよ。どこに縁があるのか分からないのだから」

「僕はずっとソフィアさんが好きなのに。どうして僕を受け入れてくれないのですか」


 ルーベンがおかしな事を言い出した。問い質そうとしたけれど、彼がそれより先に私の手を握る。急な行動に言葉を失い何とか視線を彼に向けると、そこには切なそうな表情があった。


「ソフィアさんも僕の事を悪くは思っていませんよね。それなのにどうして僕に他の女性との結婚を薦めるのですか」

「それはルーベンの幸せを願っているから」

「僕はソフィアさんが好きなのに、他の人と結婚して幸せになれると思っているのですか」


 だって私は研究しか出来ない。

 整理整頓は出来るようになったけれど、料理は出来る気がしない。ルーベンが作ってくれるものは何でも美味しいのに、何も返す事が出来ない。彼が博士になってしまったから、もう何も与えられない。


「ルーベンはこの先沢山の人を救う薬をもっと作れる。多くの幸せを実感出来るよ」

「見知らぬ人を沢山救っても僕には何の意味もありません。ソフィアさんの為に珈琲を淹れて、喜ばれる方が余程僕には有意義なのです」


 六歳年下の助手と結婚なんて現実味がないし、歳を取ってから振られるのも嫌だなと尻込みをしていたのに。これほど熱のこもった視線を向けられて断り続けれられる程、私の心は固くない。そもそもルーベンを好きな気持ちは変わっていない。


「私は研究第一だから、結婚した所で何もしてあげられないよ」


 ルーベンの表情が一気に明るくなった。おかしい。喜ぶような言葉は一言も発していない。


「大丈夫です。ソフィアさんに奉仕する事が僕の至福なので、ソフィアさんは妻でいてくれたらそれでいいのです」

「私を駄目人間にするつもりなの?」

「思った以上にソフィアさんが自活出来たのは衝撃でした。本当は一年前に結婚を申し込んでくれると思っていたのですが」


 一年前? まさかあのお見合い話はそもそも嘘だったの?


「何故私から結婚を申し込まないといけないのよ」

「主夫になりたいので結婚して下さい、というのは流石に抵抗がありました」

「主夫になんかしないわ。博士として研究をしないなら結婚はしない」

「卑怯です!」

「どこが!」





 結局、研究所の名前はそのまま据え置かれている。ただし博士として研究を続ける事をルーベンに約束させた上で結婚する事にした。彼と共に毎日美味しい料理を食べられる事が何よりの幸せだ。


 ルーベンの両親の所へ挨拶に行った時はとても喜んで貰えた。年上の女性の婿になりたいと言う息子を咎めないのかと不安になったが、どうやら彼の母親が私の薬で助かったらしい。


 それでルーベンは私の所に来たのかと思えば全く違った。エレナから研究を無理強いしない場所として紹介されたそうだ。確かに彼ほどの才能があれば、論文を書くように普通の博士なら言う。私は基本面倒臭がりだから指導なんてしたくないし、助手以上に身の回りの世話をしてくれる彼で満足する駄目博士だったのが良かったのだろう。縁とは本当に不思議なものだ。


 しかし、これからは違う。やる気のないルーベンに研究をさせるのが私の役目。約束を反故にさせるものか。ただ、研究をさせる為には譲歩が必要である。


「ソフィアさん。ご褒美を下さい!」


 ルーベンが満面の笑みで論文を差し出してきた。とりあえず論文を受け取って中身を確認する。しっかり確認しないと、適当な事を書くからいけない。真面目な論文の最後に惚気話を書くなんて誰が予測出来るのか。おかげで酷い目を見た。ルーベンが勝手に書いたのに、何故私が書かせた事になるのか。本当に納得がいかない。


 ……何、これ。この発想はなかった。何故気付かなかったのだろう。少し手直しをしたら、国から褒章が出るかもしれない程の大発見だ。これがあれば魔物退治が捗るに違いない。


「ソフィアさん?」

「もう少し内容を煮詰めるわよ」

「ご褒美は? 旅行をする約束をしました」


 そう言えば約束と言う名の譲歩をした。一体何日の予定かわからないけれど、ルーベンは自分のやりたい事なら手を抜かない。多分綿密な計画があるはずだ。


「つまり数日予定を空けてあるのね」

「それは旅行の分しかありません」

「それなら一人でどうぞ。私はこれを煮詰めるわ」


 ルーベンは泣きそうな顔をしている。その顔をしたらこちらが引くと思ったら大間違いだ。無視して論文を広げると、彼は奥に消えていった。

 拗ねると面倒なのよねぇ。早めに切り上げようか。一日でも残れば付き合ってあげよう。


 心安らぐ香りにつられて顔を上げると、ルーベンがもの言いたげにカップを置いた。今日の珈琲も美味しそう。


「どこを煮詰めるのですか。すぐに取り掛かります」

「旅行は?」

「こんな事もあろうかと明日から十日間空けてあります。二日で煮詰めて、八日間は僕に下さい」

「旅行が二日で、煮詰めるのが八日の間違いじゃない?」

「この論文でソフィアさんの時間をたった二日しかくれないのですか?」


 ルーベンが悲壮な表情を浮かべている。二日で十分だと思う私がいけないの?


「結婚してから四六時中一緒にいるわよ」

「それとこれとは別です。研究を忘れて僕だけを見てくれる時間を八日くれないのなら、論文を燃やします」

「待って。わかったから、私情で大発見を燃やさないで!」


 結局、ルーベンが物凄い集中力を発揮して本当に二日で仕上げてしまった。最低でも五日はかかると思ったのに。おかげで八日間も甘やかされて疲れた。甘やかされて疲れるなんて意味が分からないのだけど、実際そうなのだから仕方がない。


 今思えばわざと不完全な論文を出したのだ。普段なら八日の休暇など受け入れない私の性格を見越して、仕方ないから付き合おうと思わせる為にそうしたに違いない。彼はやりたい事に対しては綿密な計画を練る性格なのだから。


 でもまぁ、彼が楽しそうだったし、私も楽しかったからいいか。今後約束する時は日数をはっきり告げるようにする事を学んだしね。彼がお見合いの一件で学んだように、私も学ぶんだぞ。活かせるかどうかは別問題なのが悲しい所だけど。


「ソフィアさん、例の薬草が育ちましたよ」


 一回論文を書くと暫くルーベンは私の助手に戻るが仕方ない。こちらも譲歩を続けるのは精神的に辛いし。よし、暫くは自分の研究に集中しよう。

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