表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

トウコ

作者: もちづき

「ええ……、うっそぉ」                  

 甲高い嬌声がトウコの背を打った。

 何気なく振り返ると、トウコと同い年くらいの若い女の子が二人、なんの噂話にか楽しげに興じている。

 流行(はやり)の服で完全武装した彼女たちは、週末の今夜、何を求めてどこに向かって出陣していくのか。

 立ち止まってしまったトウコの脇を、気にする風もなくすりぬけて、キラキラと点滅するイルミネ−ションの波の向こうに消えて行く。

 トウコはしばらく彼女たちが消えた繁華街に見入っていたが、小さく肩をすくめると、再び歩き始めた。

 繁華街に入る手前の細い道を左に折れ。ブロック塀の続く人気のない道を、トウコは慣れた足取りで歩いた。

 中天にかかる見事な満月の恩恵を受けて、あたりは街灯が不要なほど、明るい。

 やがてその道は小さな川の流れに突き当たり様相を変えた。

 人家も疎らなこの道は、春には菜の花が、秋にはコスモスが咲き乱れる。

 晩秋の今は虫の音も途絶え、ススキが鬱蒼と茂っているだけだが、右手に川の流れを、左手に木々のざわめきを聞きながら歩くトウコの瞳が、次第に和んでいった。

 土手の石ころ混じりの道は、ヒールの高い靴には不適当だが、トウコが愛用しているようなスニ−カ−の下では、ジャリジャリと楽しげに唄う。

 冷たく張り詰めるこの静かな夜を、トウコは全身で楽しんでいた。

 お酒や、彼氏という存在にも興味はあるけれど、あの喧噪の光りの洪水に溺れるより、この川の流れに躰を浸したいと思うトウコだった。

「この季節じゃ凍え死んじゃうか……。それにしても、つくづく私って地味な性格よねぇ」

 我ながら呆れると、クスッと笑ったその背で、長い髪が揺れた。

 化粧っけもほとんどなく、トレ−ナ−やGパンしか着ない彼女の、若い女の子らしい唯一のオシャレのが、三つ編みで癖をつけた長い髪だった。

「派手にしたくても、そんな余裕はないけど」

ほっと吐き出した息が、白く凍る。               

 愚痴めいたセリフを紡いだ唇に、トウコは無理に笑みを張りつけた。

「さぁ、さっさと帰って早く寝よう」

 足を早めたトウコの靴の下で、慰めるように石が鳴る。

 持ち前の明るさで、石の歌に耳を傾けていたトウコだったが、川に添う道からアパ−トへの一本道に入った時、彼女の足がパタリと止まった。

 道沿いの小さな児童公園のジャングルジムの上に人影があった。

(……こんな時間に?)

 不審に思ったトウコが首を傾げたのと、その人影が振り返ったのは、ほぼ同時だった。

 若い、トウコとそう変わらないくらいの男が一人。

 まず目についたのは、丸縁の黒いサングラスだった。

 ヒョロリと背の高いその男は上から下まで黒ずくめで、ただ、本来黒いはずの髪だけが茶色だった。

(ロックでもしてる人……かな)

 不思議と恐怖感がないのは、愛敬のある丸めがねと、その男の口元に浮かんでいる優しい笑みのせいだろう。

 昼間トウコが仕事で見せる業務用の笑顔とは一線を画す、本当に暖かそうな微笑みだった。

 言葉もなく、ただじっと見つめあった二人だっが。

 若い男の指がクイクイとトウコを呼んだ。

(冗談……!)

 いくらなんでもこんな夜中、見知らぬ男と二人っきりで過ごす危険を知らぬほど、子供ではない。

 トウコはサッと躰を翻して、その場を後にした。

 後をつけられてはと、チラチラ振り返ったが、男は追いかける様子もなく、ただジャングルジムの上からトウコを見送っていた。

                     



「ただいま」

 アパ−トの部屋は真っ暗で、無人だった。

 八ヶ月前まで、笑顔で「おかえり」と迎えてくれた優しい母は、今頃は病院のベッドで静かに眠っているだろう。

 入浴を済ませ、コンビニのお弁当で遅い夕食を慌ただしく済ませたトウコは、ケトルでお茶を沸かしはじめた。

 唯一の贅沢をしている紅茶を片手に、トウコがゆっくりと寛いだのは、十二時を少し回った頃だった。

 暖かな紅茶から立ちのぼる香りは一日の疲れを癒してくれる。コタツに肘をついたトウコは、螺旋を描く湯気に見入った。

「かあさんも……飲みたがっているだろうな」                

 八ヶ月前、突然倒れ救急車で運ばれたその人は、日一日と痩せているようにみえる。

 今は、医者に云わせると、紅茶なんてとんでもないと云われる病状にある。

 紅茶が何よりも好きな人だったから、完治したら溺れるほど飲ませてあげたい。

 だけど……。

 トウコの顔が不安に揺れた。

「だけど…ほんとに良くなるの……かな」

 口をついた自身の言葉にトウコは震えた。

 プルプルと首を横に振って、不吉な考えを振い落としたトウコは意識を窓の外にむけた。

 そこに白銀の、眩いばかりの月が浮かんでいる。

「そっか。今夜、満月だったんだ……」

 その輝きにホッと溜息をついたトウコは、「ああ」と、唐突に思いついた。

「あの人、月を見てたんだ」

 いい年をした男がジャングルジムで月見とはいかにも妙だが、トウコはなぜか納得した。

「だからそれ程、怖くなかったのかな……」

 クスクス笑いながら、トウコはあの男の優しそうな笑顔を思い出していた。

 月を見るなんて忘れていた。

 毎月、毎月、母と見上げていた満月。

 あれほど母と愛でた月を、ずっと眺める事がなかった。否、そんな余裕なんてなかった。

 昼はコンビニで働き、間をぬって病院に顔を出して母の身の回りの世話をし。

 夜は十時過ぎまで、レストランの裏方で皿洗いをしている。

 それでも病院の入院費は滞りがちだった。

 正直云って十八の、何の資格もないトウコに、母の病は荷が勝ちすぎている。

「父さんが、生きていてくれたら……」

 こぼれたグチに、トウコは唇を噛み締めた。

 トウコの両親が、親の反対を押し切ってトランク一つで駆け落ちしたのは十七の時だという。

 今の自分と同い年の時には、母はすでに結婚し、自分を生んでいたのだ。

「そりゃ十七じゃ、どんな親も反対するよ…」

 しかも、駆け落ちしてたった一年。

 強引に奪った男は、身ごもった新妻を置いて、一人事故で死んでしまったのだ。

「母さんも、運がないから……」

 細面の優しい顔立ちの母は、良家のお嬢さまだったらしい。

 だが、その見掛けを裏切る力強さで、結局お腹の子供を堕胎すこともなく、そして飛び出した実家を頼ることもなく、女手一つでトウコを育て上げた。

 会った事もないが、手塩にして育てただろう娘の強情に涙しただろう祖父母たちが気の毒になる。

「もう少し、手を抜いて働いていれば……」

 トウコの瞳から涙が零れ落ちた。

「……夜間でいいって云ったのに、普通校なんかに通わせる…から」

 卒業間近だった。

 ようやく母の助け手になれると思った矢先の母の病だった。

「そもそも私なんて堕ろせば……。堕ろして実家に戻れば、もっと良い暮らしも出来たのに」

 コツンと硝子窓に頭をあずけ、瞑目する。

「ほんとに母さん、要領が……悪いから」

 役にたたない自分が腹立たしい。

 ただ、祈る事しかできない自分が情けない。

 両の掌で包むように持っていたカップに、ポタンと落ちた雫に、トウコは我に返った。

「………寝なくちゃ」

 考えても無駄なことを考えるのは、疲れているせいだ。

 ちゃんと眠って、睡眠を取って。

 そしたら元気になれる。なれるはずだ。

 そう、それにこれ以上悪いことなんて、起こりっこないんだから………。




 みぞれ混じりの雨だった。

 暗い夜道を、小走りに家路を辿っていたトウコは、ジャングルジムの上のぼんやりした影にギョッとして立ち止まった。

(まさか……、今夜も?)

 初めて彼を見かけた夜から、今日で丁度一週間になる。

 あれから毎晩、黒ずくめの男はジャングルジムの上にいた。そしてトウコが通りかかるとニッコリと笑いかけてくる。

 さすがにもう誘いかけて来ることはなかったが。

 彼の優しい笑みに、トウコがようやく笑みを返せたのは、昨日の事だった。

(まさか、こんな日に?)

 いつもは月明かりで目立つ黒のいでたちが、今夜は雨の帳にまぎれてはっきりしない。

 ためらいながらも公園に入ったトウコは、ジャングルジムに歩み寄った。

「あ……の…」

 雨に霞む街灯に、その人はジャングルジムのてっぺんにぼんやりと座っていた。

「あのっ……! 濡れてますよ」

 なんて間の抜けた呼びかけだと自分ながら呆れる。だけど名前なんて、呼び名なんて知らないから。

 振り向いたその人は、ジャングルジムのすぐ下に立っているトウコに、微かに驚きを見せ、そして、いつもの笑顔を見せてくれた。

「あの……今夜は絶対、月、出ませんよ」

 ぐっしょりと濡れたその人は、ニコニコと笑いながら下りてきた。

「……え…と」

 笑顔を見せながら、答えてくれない男にトウコは小首を傾げた。

 そんなトウコに、男は自分の唇を指で押さえ、それから駄目だと云うように手をヒラヒラさせた。

「あ、口が……」

 口が、効けない?

「ご・ごめん……なさい」

 ニコリと頷く男に、気まずく俯いたトウコだったが、はっとして男に傘をさしかけた。

 濡れた丸めがねを外した男は、ありがとう、と云うようにトウコに会釈した。

 思った以上に小さな、けれど優しいその目に、トウコはほっとして。そして、それに勇気づけられたように、云った。

「あの……、寒くないですか? よければ……家近いから、洋服とか、乾かしていかれません?」

 常のトウコなら絶対に発さないようなセリフだった。

 見知らぬ男を、こんな時間に部屋に招くなど、トウコ自身も驚いていた。

 トウコの内心を読んだように、男は声なく笑った。笑って、そして首を横にした。

「でも……」

 懐の奥から少し湿った手帳を取り出した男は、白紙のペ−ジに『もう帰るから』と綴った。

 そして、少し踊るような癖のある字が、『明日、また?』と、続いた。

「はい……!」

 トウコは考えるより早く返事を返していた。

「明日は、きっと月、出ますよ。あの……貴方、月を見てたんでしょ?」

 穏やかに頷いた男は、そして、もう帰りなさいと云うようにトウコの背をそっと押した。

「あ……っと、よければ名前……!」

 振り向いたトウコの問いに、男はちょっと笑い、手帳に『当てて』と書き込んだ。

 その悪戯っぽい笑みに、トウコもつられて微笑む。

「ルンペルシュティルツヒェン?」

 ぷっと噴き出した男はそして、再度帰るように促した。

 その促しに、トウコは今度は素直に従った。

 走り去るトウコの背中を、冷たい雨に打たれながら、男は懐かしげに見送っていた。

  


『ルンペルシュティルツヒェン』

 それは小人との約束。

 明日は命を奪われるという日、突然現れた小人。

 その小人に、願いを叶えてやるから最初に生まれる子ども差し出せと誓わされた女がいた。

 小人はあっさりと願いを叶え、やがて子どもを産んだ女のもとを訪れた。

 連れて行かないでくれと懇願する母親になった女に、小人は一つの条件を出した。

『俺の名前を当ててみろ』

 意地悪な問題。

『名前を当てたら、黙って消えるよ』

 絶対に当たらないことを知って出された問題。

『当てられなかったら、今度こそ子供は俺のもの』

 母親は、隠された名前を必死で探す。

『ルンペルシュティルツヒェン』

 そして偶然手に入れた小人の奇妙な歌。

『絶対にわかりっこない。俺の名前はルンペルシュティルツヒェン』




「それからどうなったんだっけ?」

 寝入りばなにぼんやりと思い出した昔話。

「願いを叶える小人……か。本当にいたらいいのに」

 シトシトと窓を叩く雨。

 ひとりで聞く雨音は寂しい。

「かあさんも……寂しがってるかな」

 毛布を首まであげてポツンと呟く。

「小人、こないかな……」

 お礼はちゃんとするから。                   

 昔話の女のように、願いを叶えるだけ叶えさせて、仇で報いるようなことはしないから。

 だから来て……。

 お礼なら出来るかぎりするから、どうか私の願いを叶えて。

 うっすらとトウコの瞳に涙が滲む。

 誰か……。誰でもいい。

 願いを……叶えて。




「右のポケットと左のポケット、どっちにします?」

 姿を見せた途端の唐突な問いに、ジャングルジムの上の男は首を傾げた。

 トウコは、膨らんだコ−トの両ポケットをポンと叩いた。

「紅茶とお茶。さぁ、どっちがどっちでしょう?」

 クスッと笑った男は、右手を高く上げた。

「残念。右は、お茶」

 投げられた缶をなんなくキャッチした男は、小さくウィンクした。

「え? お茶の方が良かったの?」

 嬉しそうに頷いた男に、「おじさんみたいね」とトウコは笑った。

 ジャングルジムの上で言葉なく月を見上げる二人は、昔っからの友人のようだった。

       



「そう云えば、ずいぶん細くなっちゃって……」

 え? と顔を覗き込まれてトウコは、首をふった。

「ほら、月。初めて会った夜は、満月だったでしょ?」

 ああ、と頷いた男は、月を降り仰いだ。

 銀の、折れるほどに細い月が、随分と低い空に浮かんでいる。

「ほんと、舟……みたい」

 ポソリと呟いたトウコは、笑った。

「かあさんも……月が好きなの。今は入院してベットから出られないから、月見なんて出来ないけど」

 冷めてしまった紅茶を、ずずっと啜る。

「ずっとね。毎月毎月、満月の日に、かあさんと二人でお月見をしてたの。死んじゃったとうさんが、月が大好きだったからって……。あ、天体観測とか、そんなんじゃなくて。私たちが今眺めてるみたいに、ただ見ているのが好きな人だったって……。かあさん、嬉しそうに云ってた。そしてね、とっておきの紅茶を入れて、あ、とうさんは紅茶が駄目だから、仏壇には日本茶を入れて……ね。二人でお茶を飲むの。そう云えば若いのにお茶が好きなんて貴方と同じだね?」

 相槌を求めたトウコは、ぼうっとした目で遠くを見ている男に気づいた。

「あ……ごめんなさい。こんな話、退屈?」

はっとした男は首を横にした。そして優しい目で、先を促す。

「あ……うん、そのとうさんがね、月は天を渡る舟だって。いつかあの舟に乗りたいって。いつもそんな事を云ってたって……。 なんだかロマンチックだよね。女の子がよく見るみたいな夢」

 飲み終えた缶をトウコは、空き缶入れめがけて投げた。カランカランと缶は、乾いた音を立ててゴミ箱に納まった。

 パチパチという男の拍手に、トウコはニコッと笑って、そうして小さく呟いた。

「そんな夢みたいな事ばっかり云ってて、あっけなく一人で逝っちゃった……。今頃、月の船にのって楽しんでるのかもしれない……」

 ふっと曇った男の顔を取りなすように、トウコは続けた。

「……ごめんなさい。変な話になっちゃって」

 明るくふるまうトウコに、男の顔はますます曇り、取り出した手帳に『父親を恨んでる?』と、綴った。

「……ううん。別に私、死んだとうさんを恨んでもいないし、片親なのを卑屈に思ってなんてない。そりゃ、寂しいと思う事もあるし、すごく不安な時もある。とうさんが生きていてくれたらって何度も思ったけど。でも、とうさんだって、本当はもっと生きていたかっだだろうって……思うし。それに、とうさんの分まで、かあさんが……愛して…くれたから」

 ポタリとてのひらに落ちた涙に、トウコは自分が泣いていたことに気づいた。

 慌ててハンカチを差し出した男の、戸惑った顔に、トウコは無理に微笑んで見せた。

「ご・ごめんなさい……。あぁ……私ってば最低」

 素直にハンカチを借りたトウコは、ごしごしと涙をふいた。

「今のは、……違うの。今のは、ちょっと自己嫌悪しちゃって」

 心配そうに自分を見る男に、トウコは肩をすくめた。

「私は、かあさんにこんなに愛して貰えるような、良い娘じゃないって……事、思い出しちゃって…。それで、ないちゃったの。情けないよね……」

 驚いた顔をした男は、手帳を広げた。

『君は、いい子だよ』

 トウコは首を横にした。

「私は、嫌な子供なの……」

『違う。一生懸命昼も夜も働いて、病気のお母さんの世話だって、ちゃんとしている。トウコは、親思いの優しい良い子だ』

 頑なに首を横にし続けるトウコに男は、もどかしげに字を綴ろうとする。

 その男の手を、トウコはそっと遮った。

「違うの……。本当に、トウコはヤナ奴……なの。私が一生懸命働くのは、かあさんを失いたくないから。もちろん、かあさんは大好きだけど。だけど、それより私が、私が……必死なのは、自分のため……」

 トウコは絞り出すように言葉を紡いだ。

「かあさんが死んでしまったら、私は一人ぽっちになるから……。だから、私は、かあさんに生きていて欲しい……の! 私は、ただ一人になりたくないだけなの……!」

 トウコの切ない告白を違うと云うように、男は彼女の両腕を掴んで、首を強く横に降った。

「か・かあさんは……病気ですごく苦しんでいるのに、命がけで病気と闘ってるのに……。わ・私は、自分の為だけに、かあさんという存在を失いたくないって……思ってる…の! 自分の都合が一番で……、自分が一番かわいくて、かあさんの苦しみなんて、二の次にしか思ってないの……!」

 トウコは、血が滲むほど唇を噛み締めた。

「ねぇ、最低……でしょ? こんな親不孝な娘のために、かあさんは倒れるまで働いていたん…だよ? あんまり哀れじゃない? ずっとずっと苦労して育てたのがこんな娘だったなんて……、こんな馬鹿馬鹿しい話って…ないよ……!」

 心の奥底に隠していた想いを全部、トウコは曝した。

 言葉にして、自分の汚さを他人に知られるのは辛かったが、それよりも母に対する罪の意識の方が強かった。

 母が好きだったから、だから自分の心に潜む身勝手な想いが許せなかった。

 自分の想いを誤魔化すには、トウコの心は純粋過ぎた。

「私は……」

 不意に抱き寄せられ、トウコは身じろいだ。

 広い胸に包み込まれて、優しく頭を撫ぜられる。

 それは恋人の抱擁ではなかった。

 暖かくて、優しくて、そして切ないほど懐かしい温もりに、トウコは自然に目を閉じた。

(あったかいなぁ……)

 ぼんやり思って、そして唐突に我に返った。

「え……と、その…ごめんなさい……!」

 いいや、と小さく笑って首をふる男にトウコはもう一度、甘えてごめんなさいとペコリと頭を下げてジャングルジムを降りた。

「ハンカチは、洗って明日返します。あの……明日…」

 コクンと頷いた男に、トウコはホッとしたように微笑んだ。

「今日はグチを聞いてくれてありがとう。じゃ、また明日」

 そのまま踵をかえして走って帰ろうとしたトウコを、ジャングルジムから飛び降りた男が止めた。

『忘れてた』

 何を? と見つめるトウコにニッコリと笑った男は懐から小さな石を取り出した。

『お守り』

「お守り?」

『そう。月の石。幸せになれるお守り』

「月の石……って。ムーンストーンって半透明の宝石なら知ってるけど」

『あれは偽物。これは本当の月の石』

 真面目な顔で差し出されたソレは、どこにでも転がっていそうなジャリにも見えた。

「本当に幸せになれるの?」

 うんと、一つ頷いた男の瞳はどこまでもまっすぐで、トウコは本当にそれを信じたくなる。

「でも、そんな大切なもの……」

『トウコのために取ってきた』

 ほんの少し目を見開いたトウコは、ただの石にしか見えないそれを大切にそうに両手に握り込んだ。

「ありがとう」                      

 嬉しそうに男も微笑む。

「……母さんが、幸せになりますように…。一日も早く元気になりますように」

 切ないその望みに、男の顔が少しだけ曇ったのを、トウコは気がつかなかった。

 


「月の石か……」

 トウコの枕許には小さくて汚い石と、丁寧にアイロンの充てられたハンカチがおいてある。

 一人の部屋がそんなに辛くなくなったのは、あの男に出会ってからだった。きっとそれほどに、自分は寂しかったのだろう。

「いいもの貰っちゃった……」

 もちろん本物だとは思わないけれど。

 明日、病院に持っていって母に月の石を見せてあげよう。

 素敵な思いつきに、トウコの顔に極上の笑顔が広がっていた。




「公園で、男の人と?」                     

 ほんの少し心配そうな顔で、トウコの母は聞き返した。

 長い髪を三つ編みに編んだ母親は、年よりもずいぶんと若くみえる。

「だいじょうぶ。ヘンな人じゃないから。二人でね、ジャングルジムのてっぺんで、お月見してるの」

長い入院生活で、青白て透けて見える小さな顔がほのかに嬉しげになった。

「お月見?」

「そう、もう今は満月じゃないけど。いつも一時間くらい二人して月を眺めてるだけで、」

「おしゃべりもしないで?」

「うん、その人、口が効けない人なの」

 ふっと、物問いたげな表情を浮かべた母親に、トウコは首を傾げた。

「母さん?」

「どんな……人、なの?」

「いつも黒ずくめの服で。黒い丸めがねをして、髪は脱色していて茶色で」

 トウコの説明に、母親がつめていた息をそっと吐き、それから苦笑を浮かべた。

「トウコ、それは……。あまり大丈夫な男の人に聞こえないけど」

「でも、笑顔がとっても優しい人なの。本当に、本当に優しい人で……。だから心配しないで、ね?」

 ムキになる娘に、母親は優しい笑顔を向けた。

「心配せずにはいられないけど。でも、トウコがこの頃明るいのは、その人のせいなのね?」

 トウコは、目をみひらいた。

「私は、いつも元気だ……よ?」

 そっと母親はトウコの手をとった。

「ごめんね、トウコ。お母さんがこんなで……。毎日、お仕事、辛くない?」

 トウコは首を大きく横にした。

「大丈夫……! ぜんぜん大丈夫。私、丈夫だし、タフだし。平気だよ。本当に、本当に……。…だから」

 そっと母親に抱きしめられて、トウコは涙をグッとこらえた。

「だから……母さんも元気になってね」

 頷きながら、ごめんねと繰り返す母親に、トウコは、それにねと声をかけた。

「その人に、ね。お守りもらったんだよ」

「お守り?」

「そう、ほら、これ『月の石』なんだって」

 ポケットから取り出した石を、てのひらに乗せ、母親に得意気にみせる。

「あのね、これ幸せになれる石……って。かあさん?」

 突然大きくあえいだ母親に、トウコは息を呑んだ。

「かあさん……!!」

 激しく咳き込みだした母親に、トウコは慌ててナ−ス・コ−ルを押した。

「かあさん? かあさん……! 誰か、誰か早く来て……ぇ!」




 胸に鉛の固まりがあるような気がする。

 大好きな紅茶の香りにも、なにも感じない。

 今はただ、突然、発作を起こした母の痛ましい姿がだけが脳裏にある。

 駆けつけた看護婦や、医者の手当てが効いたのか、ほどなく母親は落ち着いたが、疲れきった母親の寝顔に、トウコの胸は締めつけられた。

 主治医に心配ないから今夜は帰りなさいと云われ家に戻ったものの、心配せずにはいられない。

 本当に、急にどうしたんだろう……。

 最近は、あんまり発作もおきてなかったはずなのに……。

 フッと溜め息をつき、パジャマに着替えようと、脱ごうとしたトレ−ナ−の胸ポケットから、ポトリとおちたのは。

「あ、月の石……」

 そっと拾いあげる。

「石、喜んでもらえなかった……な」

 なぜか母親は喜ぶと思っていた。

 無条件に。

 ふと、トウコの心が、何かに思い当たった。

――― 月の……石…? ―――

「そう云えば……」

 前に、聞いたことがあるような気がする。

 以前にも見た事が、なかっただろうか?

 トウコは石を目の高さにまで持ち上げた。

 どこで?

 記憶を探ったトウコは、しばらくして思い出した。

 あれは、まだ……小さくて、そう、小学生にもなってない頃だった。



『かあさん、トウコも欲しい』

 母にしがみついて泣いて欲しがったのは……。

『お月さまのお石、トウコも欲しいの』



「あれは……確か…」

 古びた母の化粧台をバタバタと探る。

「あっ……た…」

 探り当てた、小さなガラス瓶に大切に入れられてるのは。

 ゾクリとトウコの背が震えた。

 トウコは貰ったばかりの石と、それを並べた。

 同じ物、だった。




『駄目よ、トウコちゃん。これは駄目なの。これは母さんが、父さんから貰った大切な物なの』

『とう……さん?』

『そう、父さん。とても優しいの。母さんのためにね、取ってきてくれたの。ずっと幸せでいますように……って。だからトウコちゃんにあげられない。ごめんね』

『トウコのとうさん、どこ?』

『お船よ。お月さまのお船に乗ってるの』                   




「どうして……?」

 本物だとは思わないけれど、どこからみても同じ種類の石を『月の石』と見做す偶然があるのだろうか?

「そりゃ、石なんて……みんな同じようなものばかりだけど」

 もう今夜はとても眠れそうにない。

 なにかにすがるようにさまよった視線が、窓の外で気弱げに光る月でとまった。

 弧をかく銀の月は、すでに地平に姿を消そうとしている。

 胸がドキドキとざわつく。

 ふいに立ち上がったトウコは、そのまま部屋を飛び出した。

 めざすのはあの児童公園。

 なぜ、そこに行こうとしているのか。なぜこんなにも気がせくのか。

 わからないまま、トウコは走っていた。




 そして、トウコがそこで見たのはあの男と、その男の腕に抱かれている若い女の姿だった。

「……母さん?」

 今の、ではない。

 昔の、トウコと同じくらいの年頃の若い母の姿だった。

 そして、

「とう……さん」

 彼が父なのだと、トウコはすんなり認めた。

 そう、母の、男を見る顔のなんと輝いている事か。病院で伏せっている母と、なんと違って見えることか。

<やっと……会えたね…>

 トウコは、ピクンと身体を震わせた。

 頭に直接聞こえるような、囁き声の主は男のものだった。

 手話で会話する父母の指の声が、なぜかトウコにも分かる。聞こえる。

 母親が小さく笑った。

<……トウコから聞いたとき、最初はあなただって、わからなかったわ…>

 男も少し笑った。

<昔、生きていた頃、ちゃんと口が効けたら、声が出たら、唄歌いになるのが夢だったからね>

<歌えるの?>

<ここではムリだけど、向こうでは、ちゃんと歌えるよ>

 嬉しそうに笑った母親が、男の胸に顔を寄せた。

<本当に、一緒に来る気?>

 少し複雑そうな、迷っているような問い。

<ダメ……かしら?>

 母親の目は真剣だった。

 やっぱりという思いに、トウコの足から力がぬけていく。

(母さんを、迎えに……きたの? ねぇ、父さん、母さんを……つれていくの?)

 トウコは公園の立ち木に縋るように蹲った。

(しかた……ないけど。こんな出来損ないの娘じゃ……見捨てられたって……、何も云えないけど)

 カタカタとトウコの歯が鳴っていた。

(私……馬鹿だ。よりにもよって父さんに、一番、汚いとこをみせちゃって)

<お願い。つれていって……>

 目をつぶっても、頭の中に直接聞こえる母の声に、トウコはぎゅっと拳を握り込んだ。

(痛……っ!)

 知らず握り込んだてのひらに痛みを感じて、そっと開いた。貰った石が、掌にくいこんで血がにじんでいる。

(幸せになれるお守り……って言ったくせに。嘘……つき…)

 深い諦めの溜息で、その石を草むらに投げ捨てた。

 顔を見つめあう二人を見てられなくて、トウコは膝を抱えて顔を埋めた。

(明日っから……一人ぼっちだ)

 確信があった。これは夢じゃない。     

 病気で苦しむ母を、父が助けにきたのだ。

 明日、母は目を覚まさない。

 明日、自分が見るのは、きっと微笑みを浮かべて旅立った母の死に顔だろう。

 母にとっては幸せなことなのだ。

 父が死んでから十数年。その間もずっと父だけを愛してきた母なのだから。

 でも……。

(でも……どうしよう。喜んで……あげられない…よ。かあさん……)



『ルンペルシュティルツヒェン』

 トウコの頬に、涙が一筋流れた。

 今、思い出した。

 おとぎ話の中では、名前を言い当てられた小人は、母親の目の前から消え失せてしまうのだった。

 そして母親と子供は幸せになる。

 あの黒ずくめの父の本当の名前なら知っている。いつだって母が嬉しそうに父の名を口にしていたから。

 その名を呼べば、父は母をおいて消えてくれるだろうか?

(そんな……こと出来ない)

 小人を呼んだのは自分だ。

 母を幸せにしてくれと願ったのは自分だ。親不孝な自分に出来る精一杯のこと。

 そして今、小人の代わりに父が来てくれた。

 母を幸せにするために。

 あんなに幸せそうな母を、自分の身勝手だけで引き止められない。

 どんなに、それが辛くても。

(ねぇ、母さん……)



<トウコが……>

 ふと、聞こえた母の声。

<トウコが可哀相……。これ以上あの子に面倒をかけたくないの>

 慈愛に満ちた声だった。

<あの子が迷惑だと云ったの?>

<云わないけれど……毎日毎日、くたくたになるまで働いて。それでも追いつかなくて。それは全部、私のせいなのよ?>

<でも君がいなくなったら、あの子は本当に一人ぼっちになってしまうよ? その恐ろしさを、寂しさを一番知っているのは、君じゃないか?>

 押し黙るトウコの母に、男は続けた。

<僕が死んで、お腹の子と二人っきりになった時、君は残された赤ん坊を邪魔だと思った? 手のかかるトウコを、迷惑だと思った?>

<そんな事、一度だって思わなかったわ>

 言い切った母に、トウコはおもわず顔を上げた。

<むしろあの子のおかげで、私は一人ぼっちにならずに済んだのよ>

 にっこりと男は笑った。

<トウコもね、同じ事を云ったよ。君が死んだら一人になってしまうと。それが怖いと。でも、そんな気持ちを恥じてもいた。君が病気で苦しんでいる事より、一人になる自分を気に病むなんて、最低だと>

<最低だなんて……。そんな事、絶対ないわ……! そんな風に思えるのは、それが何より大切なものだからよ。絶対に失いたくないから、失う事がとても怖いのよ。汚いなんてとんでもない>

 男は、その答えに満足そうに笑った。

<それが分かっていて、君は、トウコを置いて逝こうというのか?>

<本当にトウコは……、こんな手のかかる母親でも、いて欲しいのかしら?>

<その答えは、君が一番よく知っているだろ? 君が育てあげた自慢の娘だ。優しくて、純粋で、誰よりも思いやりがあって。どんな女の子より、可愛い>

 親馬鹿と笑うかい? と、男は照れ笑いに頬をかいた。

<でも、本当に、あの子に自分の血が流れているのかと思うと、ひどく嬉しくて、胸が高鳴ったよ>

<私たちの、子供ですもの>

 誇らしげに云う母を、父はしっかり抱きしめた。その若い母の姿が、次第に薄れていく。

<こんどは、いつ会えるかしら?>

<その気になれば、月のある夜には、いつだって>

 フワリと少女のような微笑みが、空気にとけて消える。

 最後に、ありがとう、と。

 互いが、互いにかけたその一言に込められた想いの暖かさ。

 トウコは、沸き上がる想いに胸を詰まらせていた。

(父さん、母さん……)

 生まれてきて良かったのだと、今初めて胸のつっかえがおりる。

 ずっと、ずっと母の重荷でしかないと思い込んでいたから……。

 そんな自分が、母の支えになっていた。それだけでなく、両親に誇ってもらえる存在でいられたなんて、思いもしなかったから。



 涙で涙でぼやけた視界の中に、自分の前に立つ父の姿があった。

「とう……さん」

 ためらいがちの呼びかけに、男は微笑んだ。

 そして、なげ捨てたはずの『月の石』を、トウコの掌にポトンと返してくれた。

 トウコはそれをぎゅっと握りしめた。

 何か云いたいのに、何を云っていいのか分からない。

 分かっているよと云うように頭を優しく撫ぜられて、トウコは肩の力を抜いた。

『ずっと一人でがんばらせて、ごめんね』

 耳に聞こえる幻の父の声はひどく暖かかった。

 トウコは首を何度も横にふった。

『なにもしてあげれない、悪い父親だね……』

 違う、とトウコは何度も首を横にする。

 来てくれたから。今、こうしてここに来てくれただけで、いい。

 死んでもずっと母さんと自分を覚えて、愛してくれていると分かっただけで、もう十分だったから。

『かあさんは、少し弱気になっていただけだから。もうすぐ全部良くなる。それまでもう少し頑張れる?』

 うん、と頷いたトウコは、

「……また、会える?」と、呟いた。

 縋るようなトウコの問いに、男は静かに首を横にした。

『トウコには、もうすぐとうさんより大切にしたいと思える人が現れるよ』

「そう……なの?」

『そう。悔しいけどね。しょうがない』

 立ち上がって踵を返した男の姿が、ぼんやり薄れていく。

「父さん、ありがとう……」

 父さんは、母さんを迎えにきたんじゃなかった。

 私に、母さんを返しにきてくれたんだね。

『バイバイ、トウコ』

 一度だけ振り返った男は、最後に優しい笑みを残して消えた。

 頬を伝わる涙をそっと払ったトウコは、

「本当にありがとう……」

 そう小さく呟いた。

 想いを込めたその呟きが、はたして消えかかる月にまで届いたのか……。



 結局、あの『月の石』が本物だったのかどうか、トウコは今も知らない。知らなくていいと思っている。

 ただ、あの石をくれたのが、父であったという事実があれば良い。

 小さなアスファルトのカケラにしか見えない石は、トウコが一番苦しくて、寂しい時に駆けつけてくれた父の想いの証し、だった。

 だから。

 トウコは、前向きに生きている。

「父さん、元気?」

 時折、石に話かけながら。



                      END


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ