エピローグ、というよりも終わり
結局、佳奈が川野に取材することはなかった。
おそらく、だ。娘が川野に殺されたのは、話しを聞いた後である可能性もある。
確実なことだけを言うならば、入学祝いで私が買ってあげた、このパソコンの文章作成ソフトで作られたこのファイルはここで終わっている、となる。
文章が最後に保存された日付は、佳奈が殺された日。川野が娘の部屋にいたと供述した時間の、誤差範囲内。五年前の、2011年9月20日23:27 だ。
川野の言を信じるなら。川野の周りを嗅ぎまわった代償に、今まで取材したものを全て見せろという要求をどれだけ言っても呑まない佳奈を、カッとなって殺してしまった。それから、取材した全員の言葉が書かれた方のファイルを、印刷した後削除し、印刷したものを持ち帰った。こちらのファイルには、気付かなかったそうだ。
真実はわからない。嘘を言っているかもしれないし、川野が知らない真相があるのかもしれない。最後に保存したのは、殺される直前の佳奈である可能性だってある。しかし、第三者が変更したとすれば、誰が何を削除したかは、わかろうものだ。
川野の弁護士は精神鑑定の結果から無罪を主張した。しかし心神喪失状態もどれもこれも、川野が全く証拠隠滅をしなかった謎と、逮捕まで普通に学生生活を送っていた謎を氷解させただけだった。なにせ川野が削除しようとしたファイルは、ゴミ箱にしっかり残っていたほどだ。
山口が佳奈の死を聞いた日。佳奈や山口が通う大学は構内に大きな池があり、その三十メートルほど上に橋がかかっているという特殊な大学であったのだが、その橋から池へと飛び降りた。鬱陶しいほどの緑に囲まれた静かな水面に、山口は高く、大きな水飛沫をあげた。
見た目通り頑丈だった山口は骨の一本も折ることはなかったのだが、通行人が救急車を呼んでおり、病院へと運ばれた。奇しくも彼が病院へ到着したのは、警察が川野を確保した時間と、同時刻だったという。数日後、川野が山口に佳奈を殺せと指示されたという供述をしたため、事情聴取を受けた。
しかしそんな証拠もなければ、山口にそう指示されて川野が殺人を犯すとは、誰にも考えられなかった。山口に殺人教唆の嫌疑すらかかることなく、川野の狂言と判断された。山口は、死ぬつもりだったのではないという。責任の一端がある自分は、どうすればいいのか。そう考えていると、気づいたら落ちていたそうだ。
先日、会いに行った。あれから五年後の現在、山口は地元の市役所で下級職員として働いていた。本人は県の上級職を希望していたのだが、事件後大学を辞めた彼には、望むべくもなかったという。今は二年前に結婚した同じ職場の妻と、一歳になる娘と、幸せそうに暮らしていた。
『私は、自分にとって高いハードルのものだけを見ていました。今、分相応の生活をしている気がします。煙草も吸えない、慎ましい暮らしですが。体育会系だったからか夢見がちだったからか、高い目標を達成した先にのみ、幸せはあると思っていました』とは、山口の言葉だ。
彼は今、田畑と住宅地が調和したバランスで配置された、空が広い田舎に住んでいる。もう彼は赤くもなければ、狂ったような笑い方もしない。
川野は地元の刑務所で服役中だ。二人は同じ九州を地元としていたので、山口に話しを聞いたその足で、面会に行った。
新しい情報も二転三転した供述の変更も、今更なかった。最後に顔を合わせたときと同じで、始めに深く謝罪の言葉があり、私の問いに粛々と答えた。
しかし、山口の現状を伝えると、彼の様子は一変した。
娘の文章にもあった表情。糸のような細い目を、瞳全体が見えるほどに見開いて立ち上がると、彼と私を隔てる透明な仕切りを殴りつけ、聞き取れない言葉で叫びだした。監視が後ろから羽交い絞めにしたが、自らの後頭部で頭突きをして離し、突起もない滑らかな仕切りを握りしめ、私を睨んだ。また何かを叫びながら、次は額で、仕切りに頭突きを続けた。額の皮がずるむけ、血が流れ出るのも気に留めず私を睨みながら頭をぶつけ続ける川野は、恐ろしかったが滑稽にも見えた。これは、私が彼に悪意をもって接していることとは、無関係であると思う。
もしかしたら、川野は出所すれば山口の家族を殺すかもしれないな。
それもいいかもしれない。そんなことを思いながら、私は冷静な時の川野にも似た、無愛想な面会室を後にした。
ありきたりだが、有り体に言えば、彼らは会ってはならなかった。佳奈がいなければ、川野は殺人までは犯さなかっただろうし、川野がいなければ山口は、軽く大学生活を送っただろう。山口がいなければ――。
……いいや、それもわからないか。三人は全員が奇人だったが、川野は一人だけ、突出して異常だった。彼の精神分析の結果を見た誰もが驚いた。この男は、今まで社会にいたのだ。
彼らはお互いの触れてはいけない部分に、触れてしまう者だった。だから私は佳奈が、私の娘が、純粋な被害者とは思えないのだ。触れてはいけない部分が誰にでもあり、押せば壊れるスイッチが、誰にでもあるのだと思う。川野のスイッチは、複数あって押されやすかった。
それに触れた、触れられた人間は、二人だけでも安定を崩して円満を乱し調和を壊して、物語を崩壊させる。彼らがいれば物語はうまくいかない。なるようになるものが、なるようにならない。シナリオをぶち切り、ルールも無視する。形式美なんて、知ったことではない。そんな存在が三人もいては、うまくいくはずなんてないのだ。
それに、佳奈。主人公なんて、いなかったんだよ。二人は異常者と、明るく気弱で繊細で卑怯な凡夫だ。お前はただ、石を月と間違えるほど待ち焦がれていたんだ。
佳奈は、二人の人間関係を追った。それが自分の首を絞めるとは、思わずに。
人間関係は、変化する糸のような線だ。太くなり細くなり、弱くなり強くなる。もつれもすればほつれもし、集まってまとまり、絡まって切れる。邪魔でしかない線もあれば、何の意味もないような線もある。でも、誰でも大事な線を持っている。例えそれが、あちらに結ばれていなくとも。
彼らはそれをどうした。無邪気な好奇心で、引っ張るべきでない方向に引っ張った。悪意をもって、醜い形に結んだ。ついには、線を出す点自体を消させた。
加奈の好きな中国文学から借りてくるならば、
『君子危うきに寄らず』
額面のみを読むなと、教えておけばよかった。落ちそうな崖に行かない、それだけでは足りないのだ。崖から落ちたいと思うような場所に行くな。崖から突き落としたいと思うような人間に近づくな。近くにいるだけでさえ、自分を崖から突き落としたいと思わせてしまう人間からは、離れろ。
……まぁ、戯れ言だ。
最後に上書き保存を押したのは、山口だと私は確信している。山口は、寄ってはいけない人間から離れられなかったので、塀の向こうへ追いやったのだ。
佳奈は気づけないまま、山口の激情とやらに、あの日、触れてしまった。軽々しく触れてはいけないものに、幾度目かの刃物を挿しこんだ。
後から知ったのだが、山口亮太の父は厳格だが子どもたちを思っており、そんな父を彼は畏敬していた。そして、妹も、彼にとってかけがえのない存在だった。山口は、犯罪者になるわけにはいかなかったのだ。
山口は長い間、よく耐えたのだろう。自分の柔らかく大事なものを踏み躙られ、面白半分で暇潰しの道具に使われ、それでも汚れた宝物にすがりつく彼を人は、「そんなもので大げさな」と嘲笑った。私には、なぜ山口が川野を庇っていたのか理解できない。すでに明らかだった川野のストーカー性を知らせていれば、少しは溜飲も下がっただろうに。しかし、理解できないままに彼に同情する私は、川野を憐れんだ山口なのだろうか。
きっと、佳奈が山口の柔らかいものに触れなくとも、山口は、川野が佳奈を殺すよう仕向けただろう。私は五年間、娘が殺されたことを思い出し続けた。耐え難いものだ。まして、山口は壊した張本人を目の前にしながら、憎しみと憐れみの間で葛藤し、家族という枷で自分を縛り、三年間耐えたのだろう。今の私にはわかる。限界だった。
一度目の好機を逃して絶望する彼の前に現れたは、救世主と映ったのかもしれない。山口が佳奈に自分の大事なものを差し出したのは、ファイル自体を削除しなかったのは、筋書き通りだったのか。それとも、死にゆく佳奈への手向けのつもりだったのだろうか。いつ何を訊いても、あの男はとぼけるばかりだ。
なぁ、一つぐらい教えてくれよ。お前はあの日、どれほどの喜びで飛び込んだんだ?
……山口は答えないだろう。今の状態が、あの男の描いたの結末なのだから。山口が佳奈と川野を必死に読み込んで完成させた、死にもの狂いの物語。普通の人生のように、悲劇とも喜劇ともいえず、理不尽で納得など到底できない、そんな壊れた物語。その主人公役を、彼は佳奈に与えた。自らは脇役となり、その脇役の人生を普通の人生にすることを、壊れていない人間になることを望んだ。
壊し壊された彼の。川野と佳奈を読み切った山口なら、楽観はしていまい。自分が人並みに生きることの難しさは、知っているだろう。
だが彼は、それでも幸せを求めもがいている。道徳も美しさも気にせず、無様に。
はははっ。なんと厚かましいのだろう。そう、前途ある娘を同級生に殺させてなお、あのみっともない男は、幸せを求めているのだ。川野の不幸を何よりも望む、そんな程度の罪を背負う私ですら、自身が幸せになれるとは思えないというのに。
そう、罪と罰だ。誰かの不幸を幸せと感じる人間には、幸せが見えない。今の私には、例え佳奈をもう一度最初から育てられる機会が与えられたとしても、同じ幸せは得られない。悲しみだけが理由では、ない。
……だが、このままゆけばいい。私は、あえて彼に贖罪を求めようとは思わなかった。彼に罰が下るならそれで良し。下らぬなら、それも良しだ。
それでも願わくは、この物語が、これでおしまいであるように。
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