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ホモッサの屈辱 (世界史)

 本日の授業では、至高なるホモが明治政府にこうべれた歴史的事件について学ぶとしよう。


【歴史的背景】

 日本においては古来より社寺などで男色がたしなまれてきた歴史がある。

 戦国時代には男色は主に武士の間で「衆道しゅどう」にまで高められ、その作法が確立された。


 一方、男色は武家から徐々に庶民の間にも広がりを見せ、江戸時代には「陰間茶屋かげまちゃや」の誕生など、ごく一般的な営みとして定着したのである。


 ちなみに十返舎じっぺんしゃ 一九いっくによる滑稽本「東海道中膝栗毛」は、旦那ぱとろんの弥次さんと陰間あいじんの喜多さんが厄落としのため、手を取り合って伊勢参りに向かう旅物語であり、日本初のBL小説として認識されている。


 つまり、日本においては千年の長きにわたり「ホモの一人勝ち」だったのである。  



【事件について】


 明治維新によって日本には急激に海外から様々な異文化が流入してきた。

 これは宗教や各国の法も同様である。

 そうした状況で、主に一神教国家にて長らく施行されてきた同性愛者に対する弾圧思想なども日本にもたらされた。


 ところがどっこい。

 日本においては、同性愛者が弾圧された時代がないのである。

 それどころか日本においては「ホモの一人勝ち状態」だった。

 つまり既に日本では同性愛は解放されていた、いや、同性愛は常識だったのである。


 この状況に焦ったのは一神教の宣教師どもと、彼らに感化された狂信者ども、そして盲目的に欧米化に突き進んだ明治政府である。


 そうした事実に直面した明治政府をはじめとする西洋かぶれ共は、なんということかホモの一人勝ち状態を滅殺めっさつするために、明治5年に11月「鶏姦律けいかんりつ条例じょうれい」を発令したのだ。


 この法律は鶏姦あなるせっくすを禁じ、強姦の場合は懲役10年、和姦の場合も懲役90日と定めたのである。


 当然のことながら、世のホモたちは同法の施行に反対し、抵抗し、撤回させることを試みた。

 しかしながら相手は仮にも政府であり、正面からの抵抗は権力の態度を硬化させるだけだと当時の有力ホモたちは判断したのである。


 その結果、有力ホモ者たちは当時の明治政府関係者に「どうか鶏姦律条例を撤回してほしい」と内密にあたまげたのである。

 交換条件は「ホモ急進派」の抵抗を彼ら自身が押さえ込み、ホモ一人勝ち状態を自主規制すること。


 これが「ホモッサの屈辱」と呼ばれる事件のあらましである。


 当の明治政府としても、やみくもに欧米の文化を取り入れた結果、あちこちで面倒くさい事案を発生させてしまった状況であり、ここでさらにホモを敵に回す余裕などなかった。

 ここで有力ホモたちが頭を垂れてくれれば、明治政府のメンツも立つし、何より面倒くさい事案を一つ解決することができる。


 その後、明治13年に制定された「刑法」からは「鶏姦」の文字は消えていた。

 つまり「なかったこと」にされたのである。


 こうして明治時代をもってホモは表舞台から一旦姿を消すことになった。


 しかし人為的な抑制は人々の魂から発せられる解放の圧力に長く耐えられるはずもない。

 千年以上の長きにわたり人々の自然な営みとして伝えられてきた歴史が、いっときの権力により握りつぶされるはずもない。 


 今、世界中で「LGBTQA」が叫ばれていようとも、相変わらず日本では「ゲイ」でなく「ホモ」でなのである。

 つまりホモは至高なのである。


 なお、本文の参考出典を次に紹介しておくので、暇なときについでに学ぶとよいであろう。


 参考出典

「カノッサの屈辱 1077年」

 中世ヨーロッパにおいて、ローマ王ハインリヒ4世は北イタリアにおける自身の影響力を高めるために、ミラノ大司教などに自身の子飼いである聖職者たちを任じた。

 この行為に対し教皇グレゴリウス7世は聖職者の任命権は君主ではなく教会にあるしたが、ハインリヒ4世はこれを受け入れず、互いに皇帝の破門と教皇の廃位を宣言するという事態となった。


 この争いに乗じたのが、かねてからハインリヒ4世と敵対していたドイツの諸侯たちである。

 彼らは教皇の破門宣言を受け入れ、ハインリヒ4世の破門が解かれない場合は新たにローマ国王を擁立すると決議し、その場にグレゴリウス7世を招聘すると決定したのである。


 手詰まりとなったハインリヒ4世はグレゴリウス7世に使節を送り謝意を示したが、教皇はこれを受け入れなかった。


 こうしてハインリヒ4世はグレゴリウス7世に直接謝罪を行うという状況にまで追い込まれたのである。


 この事件は後に「皇帝すら教皇にひざまづいた」と教皇優位性を喧伝する材料として使用されたが、各国での評価はまちまちであり、特にドイツでは「強制的な謝罪」という意味での慣用句として引用される。


 なお、謝罪を行ったハインリヒ4世はその後再び叙任権闘争を開始し、グレゴリウス7世をローマから出奔させるに至っている。


 今日はここまで。

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