第72話 うずめる笑顔
俺のマジギレ全力パンチを食らって月吉は気絶。あまりに大きな音を立てたので部室にいた長宗我部と勅使河原さんが出てきた。勅使河原さんの「空気読もうな」的な視線が怖かった。
今日の俺は盗み見や覗き見でやらかしてばかりだ。月吉を思いきり殴ってしまったし。
詫びた後、倒れた月吉は長宗我部達に看てもらい、学校を後にした。
「……」
「……」
公園のベンチに座る俺と久奈。それぞれ互いに自分の手元を見つめて喋らない。
ごうごうと鳴る程の吹き荒ぶ風が木々の枝を震えさせて俺らの肌にも鋭く冷えた針のように突き刺さる。葉が削がれた木々、どんより薄暗い曇天。色少ない景色の中で誰にも相手にされない遊具が寂しそうに身を縮こまらせていた。
寒くて寂しい。公園は朽ちた廃工場のように沈んで暗く、口を開くこともまっすぐ前を見ることも容易には許してくれなかった。
「今日は……」
しばらく経ち、久奈が固く閉ざした口を開いた。
吹きやまない風の中で聞こえる掠れた声。俺は両手の指を交互に絡めて耳澄ます。俺はまだ、重たい口を開けずにいた。
「今日は、バ……レンタインデー。だから、なお君にチョコを渡そうと思ったの」
久奈の声は、震えていた。
長い付き合いと、簡単に言ってしまえるかもしれない。でも俺にとっては、俺らにとっては、本当に長くて人生の大半を共にした年月。
今の声はその中で一番……悲しい声だった。雪催いの風で削られながらも、俺の奥底にまでハッキリと響き伝わった。
「渡しそびれちゃって、いつ渡せばいいか迷って……いっぱい、いっぱい考えて……っ、そしたら月吉君に邪魔されて……」
隣に座る久奈の膝上には箱が一つ。包装紙がビリビリに破かれ、乱雑に開封された箱の中にはチョコレート。ハート型のチョコが四つ。それらは並び、クローバーの形を成す。
いや、成していたのだろう。床に落ちるまでは。
久奈から奪い取った月吉が齧りやがった。それに加えて俺が殴った拍子に月吉の手からこぼれたチョコは床に叩きつけられてヒビが入って、欠けて砕けてしまったものもある。
「ごめんね。チョコ、ボロボロだね……」
眉を下げてしょんぼりする久奈の瞳にまた涙が浮かぶ。久奈が謝ることなんて一つもないのに。
……月吉の馬鹿野郎。このチョコは本来、俺宛てだったのだ。それをあいつが奪って一口食べて、挙句の果てに落としやがった。まあ落としたのは俺が殴ったせいなんだが。
そうさ……悪いのは俺だ。久奈から貰えないと諦めて久奈の機微たる変化を見抜けなかった。
俺がもっと勘が良ければ、もっと頭が回れば。久奈からチョコを受け取れたし、勘違い大馬鹿野郎から即座に奪い返すことが出来たんだ。
「もう食べれないね……。もう一回作るから……っ、今度はちゃんと渡すから……なお君、ごめんね……ごめんなさい……」
どうして久奈が謝るんだ。悪いのは俺なんだ。俺の方こそ、ごめん。
……馬鹿か俺は。謝ってどうする。二人落ち込んでどうする。鬱屈している場合か。今俺がすべきことはそんなことじゃないだろ!
「久奈」
口を開く。名を呼んで、口を開けて、久奈の手元から箱の中のチョコを一つ取って、
「貰っていいか?」
「え……」
「俺へのチョコなんだろ? だから食べていい?」
「でも床に落ちて汚れたから……」
「んなの関係ねー」
開いた口にチョコを放り込む。舌の上で転がし犬歯で噛み砕き、その甘さとまろやかさが口中に広がっていく。何これ超デリシャス。
「すげー美味い」
「き、汚いよ」
「汚いわけあるか。久奈が作ってくれたんだ、床に落ちた程度で食べられないヤワなものじゃない!」
「……なお君」
「俺が今までに何回お前の手作りチョコを食べたと思ってんだ」
「九回」
「回数を問うたわけじゃない!」
そうじゃなくて! 何回も食べてきたんだ、目の前にあるのに食べないなんて俺には考えられない。垂涎ものだっての。
もう一度作り直さなくていいんだ。最高に嬉しいチョコレートは、ここにある。
「あ、奪う感じで食べちゃったな。これじゃあ月吉と同レベルだ」
「んーん。全然違う。だって、私が食べてほしいのはなお君だけなんだから」
久奈が箱を手に持つ。蓋を閉じて破れた包装紙で包み、俺の目をしっかりと見て、久奈は俺へとバレンタインチョコを差し出してくれた。
「なお君、ハッピーバレンタイン。チョコを受け取ってもらえますか……?」
「もちろん!」
手と手を重ね、両手でチョコレートを受け取る。
今年も貰えた……くぅ~! やっぱ久奈から貰えると嬉しいっ!
「お腹壊さないでね?」
「俺のストマックなめんな。久奈の作ったチョコで腹壊すわけがない」
たとえ砂場に落ちようが雨に打たれようが久奈の作ったチョコでは絶対に腹イタリアにはならないさ。腹イタリアってなんだよキモイな。
手に取り、もう一つ食べる。うん、美味い。優しい味が体をポカポカさせて吹き荒ぶ風なんて全く感じません。
「美味い!」
「ほ、本当?」
「おう。こんなチョコを食べられる俺は世界で一番の幸せ者だ」
「それは言いすぎ」
はっはっは、言いすぎじゃないっての~。俺はマジでそう思っている。
「でも良かった。なお君に食べてもらえて……」
「なあ久奈」
「ん、何?」
「毎年ありがとうな。嬉しい、なんて言葉じゃ安っぽいかもしれないけど」
月吉に齧られても床に落ちても、そんなの関係ない。久奈が俺の為に作ってくれた、ただそれだけで俺はこんなにも嬉しいんだ。
だからさ、悲しい顔をしないでよ。
毎年チョコをくれる幼馴染に、いつも傍にいてくれる久奈に、俺は笑いかける。久奈が笑わない分も俺がとびきりの笑顔で補おう。
「本当に嬉しいよ。俺、久奈の作るチョコが大好きだ」
「っ、っ~! なお君ズルイ……」
「久奈?」
「胸貸して」
目にも留まらぬ速さで久奈が俺の胸元に抱きついてきた。顔をうずめてピッタリとくっつく。
「へ? へ?」
「今、顔見ないでね」
「見ないというか見えないんだが」
「見ちゃ駄目」
ぎゅーと抱きつく久奈。顔を覗こうにも俺の胸元にくっついて見ることは叶わない。
そう言うなら無理して見ないけど……急にどしたの? なお君に抱きつきたいモード?
「うー……不意打ちズルイよ……」
「全部食べていいか?」
「ん」
残り三つのチョコを食べ終わっても久奈は顔を上げなかった。
ただ一つ、俺の胸元は火照ったように熱くて温かくて、寒さなんてへっちゃらだった。




