第147話 完全復活
引っ越してしまうから。お別れになるから。だからせめて最後に告白をした。
言ってしまえばつまりそういうこと。何かドラマチックなことがあったわけでも映画のクライマックスのように感動を呼ぶ展開だったわけでもない。
久奈が俺のことを好きと言ってくれて、俺も久奈のことが好きだと伝えて、俺らの関係は幼馴染から恋人へと変わった。
言ってしまえばただそれだけの、簡単なことだ。
互いのことを好いている、愛している。だから俺らは恋人としての交際を始め、時が経ち大人になればいつかは結婚する。
よくある話かもしれない。高校生が口に出す一生一緒なんて言葉は軽く思われてしまうかもしれない。
でも俺にとっては本当に特別なんだ。心の整理が追いつかないくらいに膨大で、かけがえのない程に、幸せなことなんだ。
幼い頃から一緒に過ごしてきた久奈。その久奈が俺の彼女になってくれた。それがどれ程嬉しいことか。そしてこれからも一緒にいてくれることがどれ程に幸せなことか。
久奈、大好きだよ……俺のことを好きになってくれてありが
「起きろクソ息子」
「あばばば!?」
ノックもせず部屋に入ってきた母さんが屁を放つ。
放屁は毎度のことであるがまさかのジャンピング放屁。母さんは主婦に似つかわしくない無駄な跳躍を華麗に決め、ベッドに腰掛けた俺の顔面にピンポイントで照準を合わせやがった。
「臭っ! そして強っ!? ちょっとした空砲じゃねーか!」
「どや、その名もアクロバティック屁ん獄や」
「アド街ック◯国みたく言うな!」
ああぁこのクソ母親が! 人が人生最高レベルの幸せに浸っていたのに邪魔するんじゃねぇよ! 感慨深く感動しつつエモーショナルなアレがああなってそんでセンチメンタルなようで文学的な超絶ハピネスなアレがこうなって何を言っているのか自分でも分からぬ。
とりあえず窓を開けて換気しよう。獣臭がするバケモノじみた屁の臭いに鼻をひん曲げながら実母を睨む。
母さんは随分と気合いの入った服を着ていた。
「あーはいはい、柊木さん達と温泉旅行だから今のうちに屁を出し切っておこうってことね」
「せやで」
相変わらず久土家と柊木家は仲が良いですの。ゴールデンウイークに日帰りで行ったばかりなのにまたしても温泉ですか。しかも今回は一泊するそうな。仲よっすぃーだ。
……引っ越すから最後にもう一度旅行に行っておこう。そういうことなんだよな。
「今回はアンタも参加させてやろうと考えてたんやで。ホンマに行かんでええの?」
「いいよ、俺は」
「あっそ。ノリの悪い奴やな」
「ほっとけ」
「んじゃ後はご自由に。……久奈ちんと仲良くな。一緒に過ごせる最後の時間、ちゃんと大切にしぃや。そんで、ちゃんとお別れの挨拶しとくんやぞ」
「……」
今回の一泊二日の温泉旅行、行くのは俺の両親と久奈の両親の四人。俺と久奈は行かない。俺らは二人でお泊まりする。
このお泊まりが、俺と久奈が一緒に過ごせる最後のお泊まりだ。
……分かっていても、どうしようもなく辛いな。
「泣くなや」
「泣いてねぇよ」
「あっそ。出発するから見送りしろ。柊木さんらがアンタに挨拶したいんやと」
母さんを先頭に獣臭する臭い自室を出て廊下を歩き玄関へ向かう。
俺は、母さんの背に隠れて涙を拭った。
「おはようございますぅ。今日明日はよろしくお願いします」
「うふふ、こちらこそ」
母さんはマンションの廊下に出た途端に余所行きモード。深々&仰々しくお辞儀をし、それを見て久奈ママも頭を下げて挨拶を返す。
うーん、久奈ママの気品ある微笑みの前ではウチの母さんの余所行きモードがいかにお粗末なのか一目瞭然だ。見栄張りおばさんのしょぼくて薄い仮面とは桁違いに美しく優雅な久奈ママ。
「直弥君もおはよう」
「あ、はい」
「うふふふふふふふふふふふふふふふ」
「すんません、『あ、はい』って返しだけで驚異的な微笑みを浮かべるのはやめてください」
前言撤回。ウチの母も久奈の母も厄介さで言えば差異はないかもしれません。もはやホラーだよそれ。うふふの域を超えてるからそれ。
「やあ、おはよう直弥君」
気さくな朝の挨拶と共に俺の手を握るのは久奈パパ。
落ち着きのある紳士な姿に騙されてはいけない。これ裏ボスです。ほら、俺の手がミシミシ悲鳴あげてらぁ。
久奈パパはダークな微笑で俺を見つめる(睨む)。
「久奈のことよろしく頼むよ」
「う、うっす」
「君と久奈は幼少時から何度もお泊まりしているし二人きりで同じ屋根の下で過ごすことも経験しているだろうけどだからと言って初体験を経験しようとはなってはいけないよ? 分かるよね? 私が何を言いたいのか直弥君分かるよね? 私の大事な久奈の大事な部分に触れようものなら君のをへし折るからね」
「すんません、『う、うっす』のみで娘溺愛をフルパワーで発揮しないでください……」
つーか朝から何とんでもないこと口走ってんの? 大事な娘の大事な部分ってなんだよ。言うなよ。へし折るってなんだよ。怖いよ。
健全ではない話に織り交ぜて釘を刺してきた久奈パパであったが、「冗談だよ」と言って手を離してくれた。
「改めてお願いする。直弥君、久奈のことをよろしく頼む」
「は、はあ」
「もし万が一あのクソ野郎が現れたら私の代わりに殴り倒してほしい」
あのクソ野郎とは水流崎のことだろう。ふと浮かぶ、イケメンの砕け散って見るも無残になった顔。
……気になるので俺は声を潜めて質問する。
「あの、実は裏でコッソリ殴り倒したでしょ?」
「おや、知っていたのかい。当然だよ、久奈を襲おうとした奴だよ? 最低でも顔が変形するまで殴らないとね」
自慢げに語る久奈パパの顔はとても晴れやか、普段通りの柔和で落ち着いた微笑みを浮かべていた。それが逆に怖かったですはい。
要するに俺が久奈に手を出したら顔が変形するまで殴られてへし折られるってことですねはい。
「ま、まぁ、大丈夫だと思います。意外と優秀な奴がいて、今絶賛懲らしめているらしいですよ」
長宗我部から報告があり、月吉が水流崎を徹底的に追い詰めることを今の生き甲斐にしたんだとさ。月吉、お前の生き甲斐それでいいの?
ともあれ月吉のしつこさは俺自身も嫌になるくらい味わってきた。水流崎は久奈パパによって物理的に復讐を食らい、月吉によって精神的に追い詰められることになるのだ。
当然俺も十分に警戒しますよ。俺がいる限り、久奈は俺が守る。うん……俺がいなくなるまでは。
「うふふふふふふ、大丈夫ですよあなた。直弥君がいれば間違いなく安心よ」
「ああ、そうだな。直弥君、私達の娘を頼……いや、それよりも、久奈と一緒にいてあげてくれ」
一緒にいてあげてくれ。
それはきっと、やはり、お別れのことを意味しているのだろう。
久奈の両親が俺を見つめる。微笑みが似合う二人の、その瞳がどこか寂しそうに映ったのは気のせいではない。俺はほんの少しだけ顔を下げて頷くことしか出来なかった。
……残された時間は僅か。
やっと好きと言えたのに。付き合い始めたのに。俺らを待っているのは幸せなことばかりではなかった。
お別れは、もうそこまで迫っていた……。
「なお君なお君、抱きしめて」
「……」
互いの両親が出発して数分後。久奈は俺の体に抱きついて離れない。
「なお君なお君、ぎゅーってして。ぎゅううぅってしてほしい」
「……あの、久奈?」
「なお君遅いっ。もういいもん、私からぎゅーってする」
既にぎゅーとしていますが? 俺がするまでもなくあなたが渾身のぎゅーをしているんですが?
なんということでしょう、久奈が抱きついて離れない。それどころかさらに力を入れて密着してくりゅ。噛んだ。
別れの時が迫っていることにウジウジしている俺とは違い、久奈さんはとても元気でしたとさ。今なんて俺の首元にちゅっちゅとキシュしてくる。噛んだ。地の文で噛むな俺ぇ。いやこれは噛むわ。首元にキシュて。恋人かよ! あ、恋人だった!
「ん、んーっ」
「うほぉい? 何してるのん?」
「なお君をぎゅーしてる。なお君の首にちゅーしてる」
「別に正答を求めたわけじゃないんだが? なぜそんなことをするのかを尋ねているんだが!?」
「だって私となお君は付き合っているから」
間髪入れず答えた久奈は立て続けに「時間がもったいない」と付け加えてぎゅー&ちゅーを再開する。それのみに没頭し、俺の体はあっという間に沸騰寸前でござい。
おっふ、俺の彼女ヤバイっす。何この子、今この瞬間を思う存分に満喫して堪能してやがるぜぇ!?
「なお君は私の彼氏」
「そ、そだな」
「もっと言うと私の婚約者」
「約束したからね」
「よって私は幸せ」
「えーと、めでたしめでたし?」
「んーん。もっと」
Motto? これ以上に俺の心身をもっとホットにするおつもり? 上手いこと言おうとしたけど今の俺は幸せメーター振り切れて思考がトロン状態、無理です。とろけてしまいそう&吐血してしまいそう!
「ねぇなお君。なお君の唇、はむはむしていい?」
!?!? それなのにこの子ったらもう!! も、もうぅ! 嘘だろおい、とんでもないワードを放ちやがったんだが!?
「は、はむはむ?」
「ん、はむはむ」
はむはむ? は、破夢破夢ぅ!?
がふっ、ごふっ、なんてことだ。振り切れたはずの幸せメーターの針が吹き飛んでいった。それ程に今の発言は破壊力があった。
デレデレの久奈、ヤヴァイです。すげぇ可愛い。え、やだ、俺の彼女が可愛い件について。
「私は予約済み。はむはむしても良い権利がある」
「や、はむはむはちょっと……」
「じゃあ唇にキスして」
「言い直さなくていいから! 意味変わってねぇから! どっちにしろ俺は悶えることになるから!」
「なお君、んー」
あぐぅ!? 久奈が俺の唇をはむはむちゅーしようと攻めてきた。ごぱぁ! ぉぎゅふ! 心の吐血が止まらねぇ久奈の暴走も止まらねぇ!?
わ、分かってるってばよ? 約束したやん、予約したって言ったやん!? いつかするから、近いうちに俺の方からカッコ良く(予定)決めるからっ。だから今はやめて、今そんなことしたら俺たぶん幸せのあまり死んじゃう。
「んー! 早く」
「あ、後でな」
「やだ、今すぐ」
あらやだ俺の彼女かんわいいぃぃ! とか言ってる場合じゃねぇよ!?
「どうどぅ。夕飯の買い物とか色々やることあるでしょ」
「ん、分かった」
なんとか久奈を納得させることに成功。ふぅ、分かってくれたか。
ようやく久奈は俺から離れ……ん、ん? 久奈が離れてくれない。あれれー? おかしいぞー? どうしてだろうねー?
「分かってないよね、何が分かったのかな!?」
「今から夕飯のお買い物に行く。お買い物しながらぎゅーしてキスしてはむはむしてナデナデする」
「欲張りすぎだろ! 肉エビ天きつねカレーうどんか!」
「なお君のツッコミ意味分からない。てことでお姫様抱っこして」
「てことで!?」
例えるならエバー初号機、例えるなら大猿化したサイヤ人、久奈の暴走は凄まじかった。というか今現在も凄まじい。
現在、夕飯の材料を買いにスーパーへ向かっている。近くのスーパーではなく、なぜか久奈は遠くの方へ行こうと言い、なぜかバスではなく電車を利用している。
あ、ちなみに今回長いですよ。俺は誰に言ってるの?
「なぜに電車なのさ。バスでいいじゃん」
「バスは普段から乗ってる。たまには電車」
「つっても電車は混み具合がなぁ」
タイミングの問題なのか、電車の中は非常に混んでいた。
立つのがやっとのスペースに、久奈をドア側の方へ立たせて俺は久奈をガードするべく踏ん張っている。ぎゅうぎゅう詰めにされていると、久奈がぎゅーぎゅーと押してきた。
「……今日のあなた、ぎゅーが好きですね」
「私が好きなのはなお君」
ハートがズッキュンキュン。俺、悶え死にそうっす。久奈どうした、野球で言うなら全打席場外ホームラン級の凄まじさだぞ!?
あかんで久土。せやかて久奈のペースやで久土。
これまでも時折発動してきた久奈の甘えっぷり&抱きつきっぷり。それが今、おとなしくて静かな子にならなくちゃという枷が外れたおかげで完全復活を果たした。久奈☆全開☆である。
「ん、幸せ」
「シンプルな一言! 素うどんか!」
「なお君ツッコミのキレ落ちた?」
「う、うるせぇい! 悪かったな」
「んーん、別にいいよ。私が幸せなことは変わりない」
とろーんとデレデレ、そんな久奈の発言に心を狂わされたのは俺だけじゃないらしく車内から吐血音が聞こえる。な、なんかすいません。
「押すなって。あなた壁際でしょ」
「なお君とくっつきたいから」
「……電車に乗ろうと提案したのはこれが狙いか」
「んっ。なお君とたっぷり密着出来る」
ごぱっ、と吐血音に加えて「クソが」「見せつけやがって、うぅ……!」「これなんてギャルゲー?」といった声も聞こえてきた。たぶん俺らのこと言ってる。つーか背中に数多の視線を感じる、お前死ねって視線を感じるよ!?
「ちょ、押さないでぇ」
あと久奈の押し方にも問題がある。久奈は両手を後ろに組み、胸のみでぐいぐいと押してくるのだ。
「なお君どう?」
「どうって、何が」
「興奮する?」
こちらを見上げる、悪戯っ子のように嬉々とした瞳。けれど不安げな色も混ざっていた。こ、興奮て。電車の中で言わないでよ。
そりゃドキドキしまくりだ。久奈の胸が全て当たってる。もれなく全面積ピッタリくっついてる。
ただ、まぁ……さすが久奈と言うべきか、何も成長していないと言うか。久奈は他の人と比べると小さいので所謂女子特有の柔らかさってのは微塵も感じない。壁に張りついている感覚だ。
「……私ぺったんこじゃないもん」
俺の思考を察した久奈がムスッと頬を膨らませる。きゃわわ。
あ、あぁなるほど。不安げだったのはそういうことらしい。
「大丈夫だって、女性の良さはそこだけじゃないよ」
慌ててフォローするも、久奈はムスッとしたまま。
「むぅ。なお君は巨乳が好き」
「なぜそうなる!」
「私で興奮してくれない」
「痴女みたいな発言しちゃ駄目!」
「もっとくっつけば分かる? んーっ」
いくら押しつけられても変化なし。今まで幾度と抱き合ってきたが久奈から膨らみというものを感じたことがない。逆にすごいと思うよ? 以前にも言った通り希少なステータスだって。寧ろ長所として誇るべきだ。
しかし久奈は不満であり不安そう。ぺたぺたと胸を押しつけて、悔しげに悲しげに俯く。
「うー……」
……おいおい俺のアホ野郎。少しとはいえ、久奈が悲しそうにしているぞ。悲しませないって約束しただろうが。
「あのな久奈、俺は今の久奈が良いって何度も言ってきたでしょーが」
あなたひんぬーでいいの。ひんぬーなことを気にしたり落ち込んだりしなくていいの! あ、でもひんぬー気にしている姿も可愛いかも。じゃなくて!
「何度だって言ってやるよ」
仮に久奈が大きくても俺の気持ちは変わりない。密着してぎゅーってもらえている今この瞬間、ドキドキして嬉しくて幸せなことには変わりないんだよ。
「俺は巨乳好きじゃない。俺が好きなのは、久奈だよ」
「なお君……っ~」
「分かったか?」
「ん」
「久奈、大好きだよ」
「んっ」
不安も不満も、悲しそうな瞳の揺らめきも消えた。
久奈は少しだけ離れると、反動をつけるようにして一気に抱きついた。俺の胸に顔をうずめて俺の名を呼ぶ久奈。
ん、ほら聞こえるだろ。俺の心臓、こんなにもドキドキ鳴っている。
何度だって言うよ。久奈がいるだけで、俺のことを想ってくれるだけで、俺は幸せなんだよ。
「リア充すぎる……がふっ」
「可愛すぎる……がはっ」
「女性専用車両とかいいからカップル専用を作ってくれ頼む俺もう辛い……!」
「おい待て勅使河原、感化されて俺を抱きしめるな。お前の全力の抱擁は背骨に重大なダメージが残、あがががが」
……ほ、ほら聞こえただろ? 怨嗟の声がそこら中から轟いて、って今なんか知り合いの声と骨砕ける音も聞こえたぞ!? 同じ車両に乗っていたんかい!?