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第142話 そこにいたのは

 白のシーツと白の壁、黄色を足したベージュのカーテンが二方面に渡って仕切りとしての役割を果たす。不慣れなキツイ消毒液の匂いと清潔感に包まれて俺はベッドに寝そべっていた。

 そんな俺の枕元、丸椅子に座って両足をガバァァと広げているのは母さん。


「脳に異常なくて良かったやん。私は心配で心配で放屁が止まらんわ」

「体のメカニズムどうなってやがる。涙が止まらないみたいに言うな」


 病室独特の匂いを打ち消す驚異の異臭もとい悪臭。悲しい、母の屁を嗅いで我が家を思い浮かべてしまう自分のメカニズムが嘆かわしい。


「今日中に退院出来るんか? 無理せんでええで帰ってこんでええで、今日は寿司やから」


 ここぞとばかりに豪華な食事。ウキウキじゃねぇか。心配なのは息子の容態より寿司の取り分だろおい。


「じゃ、私は帰るわ」

「来て一分も経ってないんだが」

「急がんと出前が届く。ウニが私を待ってる」

「昼から寿司かよ」

「夜も寿司や。ええやろぉ、帰ってくんなよ」


 母さんはケラケラ笑って腰を上げる。

 こんの野郎、実母とは思えない面会時間の短さだぞ。


「じゃあな野糞愚息」

「何しに来たんだよ」

「いやだってやることないやん。久奈ちんが全てやってくれたんやから」

「……」


 病院に運ばれた昨日、久奈は面会時間終了ギリギリまで傍にいてくれた。検査に付き添ってくれて、自力で歩けると言っても肩を貸してくれて、傍にいてくれて……。


 ずっと、ずっと。

 久奈はいつも俺の隣にいてくれた。笑うことを禁じ、感情を出すことをやめて、二人の約束を一人ずっと忘れないでいてくれた。


 それなのに俺は……。


「落ち着いたら久奈ちんに別れの挨拶しときーや」

「……おう」

「今までお世話になったんや、当然やろが」

「……」

「あーウザ。辛気臭いわ」

「うるせ……」

「臭いのは母さんの屁だろ、ぐらい言えやアホ息子」


 吐き捨てるように言って母さんはカーテンを開ける。薙ぎ払うように動かした手を続けて反対方向へ流してカーテンは再び閉ざされる。


「……アンタが泣くなんてな。ビックリしたわ」


 カーテンの向こう、扉の開閉音に混じって微かに聞こえた母さんの声に反応して指先が音立てずに頬をなぞる。

 腫れた目から頬を通過し顎へ。渇いた痕はまだ残っていた。……昨日あれだけ泣いたら、ね……。



 久奈に酷いことを言ってしまった自分。笑顔を忘れ一時の感情で冷淡になった自分。そのくせその事自体を忘れた自分。

 そして大切な約束も忘れ、約束を果たせない自分が、憎かった。


 久奈は覚えていた。約束の為に一人尽くしてきた。

 何年も、何年も。俺の傍にいて、笑わずに……。


「久奈……ごめん…………」


 渇いたはずの痕にはまた何滴もの雫が流れ通る。一夜明けた今日も、どうしても、どうやっても、止まらなかった。






 退院は滞りなく終わった。荷物を持ち、外に出る。

 ……謝ろう。謝らなければならないがたくさんある。約束を忘れていたこと、果たせないこと。もう一緒にいることは出来ないこと。

 いっぱい謝って、そして、その後は……。


「止まれ」


 背後に気配。続けて肩を掴まれた。

 誰かがいる。後ろを振り返る一弾指の間に五指が食い込んでいき、かけられているのは声だけでないと気づく。

 声だけじゃない。敵意が、刃物のように突き刺さる。


「まさかこんなところで会えるとはな、久土直弥」


 見下ろす双眸に宿る憎しみの炎は目が合うと拍車を増す。剥き出された敵意、苛立ち。

 そこにいたのは、水流崎だった。


「な、んでここに……!?」


 今年度の学園祭実行委員長だったが、学園祭当日にその役職もろとも学籍も剥奪された男。久奈に手を出そうとした最低野郎。

 もう会うことはないと思っていた。長身で、クセが強いながらも良い感じに毛先をはねさせた髪の毛、顔は誰が見てもイケメンと言…………イケメン?


「その顔……え?」


 水流崎の顔は腫れていた。涙でくぼんだ俺の目よりも凄惨で、というか目も鼻も含め顔全体が青あざだらけでボコボコのボロボロ。イケメンだと言われていたあの顔は見るも無惨な荒れ地のようになっていた。

 ひ、ひでぇ。激闘を経たボクサーみたいな顔なんだが。


「……殴られたんだよ」


 水流崎は憎たらしそうに、けれど弱々しく声を漏らして歯を軋ませた。

 殴られた? にしても、そこまでボッコボコに殴る人がいるのか。それこそ殴り殺そうとする勢いの……あ、

 脳内で天使と悪魔がパネルを持ち上げた。パネルには『もしかして:久奈パパ』の文字。てゆーかそれ天使と悪魔の仕事? 違うでしょ。


『久しぶりに登場したくなった』

『そうですわ』


 帰れ。俺の意識内からログアウトしろ。

 だがまぁおかげで察した。怒号と怒り狂ったおっさんの鬼面が脳裏に浮かんだよ。あの人がやったのね。

 ……なんというか、その、ナイスです。


「あの女の頭おかしい父親が犯人に決まってる……! そう言ったら、今度は親父が俺を殴りやがった。誰も俺のことを信じない、誰も……クソッ、どいつもこいつも……!」

「知るかよ。つーか久奈をあの女呼ばわりするな」


 寧ろ殴り倒されただけで済んで幸運だろうが。刺殺や絞殺されてもおかしくないからかな。それだけのことをやらかしたんだよ、お前は。


「除籍されて親からは見捨てられて、今までの女共は俺を助けようとしない、無視しやがる……っ、ふざけんな、ふざけるなふざけるな、俺を誰だと思っている」


 ブツブツと悪言を飛ばしては頭を掻き毟り、噛みしめた下唇からは血が滲む。……顔面よりも心の汚さと崩壊っぷりの方が見るも無残だな。

 だが全てお前自身が招いたことだ。同情する気も許したつもりもない。


 俺だってお前を殴りたいが、久奈パパがこれ程にも徹底的に殴ってくれたのなら俺はもう何もしねーよ。そして死ねー。


「二度と俺と久奈の前に現れるな。俺と久奈の邪魔をす……っ」


 言いかけて、口が止まる。

 俺と久奈の邪魔をするな、なんて言ってどうする。俺はもう久奈と一緒にいられないのに。

 ……俺はいなくなる。そうしたら久奈を守ってあげる人がいなくなる。また水流崎のような奴に襲われてしまうかもしれ


「お前のせいだ」


 掴まれた肩に再び痛みが走る。

 立ち塞がる水流崎。見下ろす双眸と、振り上がった拳。


「お前が邪魔しなければ完璧だった。退学になることもなかった。全てを失わなかった。全部、お前のせいだ!」


 歪みに歪む形相。青腫れの頬に赤の血色が混ざって水流崎は睨み叫び振り下ろす。

 来る。天使が悲鳴をあげる。悪魔が避けろと命令する。

 避けろ。逃げろ。分かっているのに、咄嗟のことで体は動かない。


「久土直弥、お前さえいなければ!」


 体が動かない。そのくせして、思考は淀みなく動いていた。どうしようもない自分に、呆れていた。

 分かっているのに何も出来ない。久奈との約束も忘れてしまい、久奈に悲しい思いをさせて、辛い思いをさせて、そして何も出来ないでいる。


 久奈に謝る。謝って、それで、謝った後どうする。……何も出来ない。どうすることも出来ないだろ……。

 いつも謝ってばかり、ごめんと言ってばかり。笑顔を奪った、笑わせることが出来ない。

 分かっているのに、どうしたらいいか分からない。何をすればいいのか、分からない……っ。


「お前もボコボコにしてや」

「そこまでだ」



 眼前にまで迫っていた拳が消える。水流崎の顔もブレて、横へと吹き飛んでいった。

 倒れ伏す痛々しい音と呻き声、華麗な着地音が後を追う。


「手を出されては困るよ。彼のライバルは僕なのだから」

「え……なんでお前まで……っ!?」


 着地したそいつは、至極当然のように取り出した櫛をオールバックの髪に通す。気持ち悪いぐらい完璧に整った髪には似合わない太くて濃い眉。

 何よりウザったらしいのはその表情。どうだと言わんばかりに鼻高々と天を仰ぎ、自身に心酔しきったナルシストな微笑み。




 そこにいたのは、月吉だった。


「ぐっ、誰だお前は!」

「僕かい? 恋のライバルさ」

「はあ!?」

「恋の宿敵さ」


 突然の乱入者に驚き声荒げる水流崎と、どこ吹く風とドヤ顔をやめない月吉は全くもって会話が噛み合っていなかった。

 あの、月吉君? 恋のライバルが聞き取れなかったわけじゃないからね? 宿敵って言い直せばいいってことじゃないぞ?


「やれやれ、間一髪か」

「月吉……」

「僕が助けてあげるよ」


 勝ち誇ったように剣眉を釣り上げる月吉は水流崎に向けて右手を突き立てた。

 助けるって、一体何を……


『どうされましたか』

「やあ警察かい? 増援を頼む」


 ………………通報するんっっっかい! ドヤ顔でイチイチゼロにコールするんかい! 上から目線で助けを乞うなよ!


「今から指示する場所に来てくれたまえ。迅速に頼むよ」


 だからなんで上から目線んんん!? あと通話中にも櫛で髪整えんな! 意味ねーだろ!?


「邪魔しやがって……何のつもりだ……」

「何って、ただの最善策だが? ただの勝利確定さ。……ただで済むと思わないことだね、水流崎章宏君」

「っ、俺の名前を……!」

「僕の天使に手を出そうとした男だ。完膚なきまでに潰せるこの機会、僕は逃さないよ」

「クソが……!」


 水流崎は手足をバタつかせ不恰好な四足歩行で立ち上がると逃げていった。

 だが月吉は後を追おうとしなかった。去っていく水流崎の背中を眺めて不敵に笑う。


「そちらこそ、人生終了を覚悟しておくんだね。逃げても無駄さ。必ず捕まえて裁いてあげるよ。警察の力でね」

「いやお前の力じゃないんかい」

「むっ、まだいたのか久土君」


 うわっ、こちらを振り向いた月吉のドヤ顔の酷さよ……。なんだそのドヤにドヤを塗ったようなドヤ顔。他人に助けてもらおうとしたくせにドヤドヤ顔やめろ。いやまあ俺も似たような手段でナンパ男を撃退してきたけど。


 少し安堵したせいか、溜め息が出てきた。

 対する月吉は依然としてドヤ顔。俺に話しかけてくる。


「ここは僕に任せて早く行きたまえ。君にはするべきことがあるだろ」

「は? 何を言って……」

「柊木さんと仲直りしたまえ」

「……別に仲違いしたわけじゃねぇよ。そもそも、月吉君に言われる筋合いは」



「大概にしろ。この僕が、負けを認めているんだ」



 月吉純治。久奈に付きまとって勘違いな態度と発言を連発。俺を敵視して勝負を挑んでは負けて、負けてもを認めずイラつかせる。

 こいつと良い思い出なんて一つもない。不快でしかない。久奈のバレンタインチョコを食べた時は本気でムカついた。


 そんな月吉が、今までに見せたことのない表情で俺を見る。


「先程は恋のライバルと言ったが嘘さ」

「……?」

「先程は恋の宿敵と言ったが嘘さ」

「いや言い直さなくていいから!」

「君達に何があったか知らない。だが僕は分かる。僕には分かる! 君と柊木さんは一緒にいるべきだと」


 月吉は一歩こちらへ近づく。そしてまた一歩、さらにもう一歩。

 俺の前に立ち、携帯を持っていない左手を大きく振りかぶって……はあ!?


「危な!?」


 なんとか躱せば、月吉は自身の勢いを殺せず転げて、地面へ倒れ伏せた。


「ふっ、この僕のパンチ、君なら避けると分かっていたよ」

「じゃあなんで殴りかかってきたんだよ」

「ああ分かっていたさ、僕が執拗にアプローチしても柊木さんの気を引くことは出来ないことぐらい。……僕に勝ち目がないことぐらい百も承知さ」

「……月吉?」


 立ち上がる月吉。見れば、オールバックの髪が乱れていた。

 だけど、月吉は髪を整えようとしない。櫛を放り捨て、俺を見て尚も語る。


「僕と柊木さんが相思相愛だと仮定して、際限なくそして都合良く、二人で仲睦まじく過ごす未来を僕が敷衍し語ったところで所詮は妄想の域を超えることはなかった」

「な、なんだよ急に……」

「無味浅薄なる饒舌に過ぎない。どれだけ勘違いしようとも、僕と柊気さんは決して相思相愛ではない」



 前々から変な奴だとは思っていた。

 けど。だけど。こんなこと言う奴だったか……? なんで、なんで月吉は、まるで俺と久奈を応援するようなことを言うんだ……。


 あれだけ久奈につきまとって、久奈のことが好きだ好きだと喚いていた奴が今、どうしてこんなことを、


 なんで、なんで月吉は本気の眼差しで俺を見てくるんだよ……?


「僕がどれだけ伝えても届かなかった。それが君なら簡単に届くじゃないか。ならば届けないでどうする、伝えないでどうする!」

「ち、ちょ、落ち着けって」

「僕は冷静だ。自分のことも君達のことも理解したつもりさ」

「急すぎて何がなんだか……」

「君達の事情を僕は知悉していない。それでも、ただ一つ分かることがある」


 月吉の声は叫びになる。どこか遠くから近づき聞こえてくるパトカーのサイレン音にも負けない月吉の声。


「君達は昔も今もこれからも、一緒にいるべきだ。柊木さんと相思相愛なのは久土君、君なのだから!」


 土と汗で汚れてボサボサの髪に太くて濃い眉毛。憎たらしくてウザったらしい表情。ナルシストで勘違いの馬鹿。

 あれだけ嫌いだった月吉が今は……カッコ良く映って見えた。


「……僕はライバルにもなれなかった。ああ哀れだよ、ああそれで結構さ! 僕が好きだった人とその人が愛する君の為に出来ることなら何でもしよう」

「月吉」

「水流崎章宏のことなら僕に任せて。彼は僕が絶対に地獄の底まで叩き落してあげるよ。ふふっ、楽しみだ」

「いや、月吉?」

「だから君は行きたまえ。愛する人の元へ!」

「いやだから!? なんだよお前、なんとなく良いこと言っている風だけどイマイチ分からねぇから!」


 急に登場して心情を吐露されてこっちは「お、おぉう……?」な心境だわ!


「いいから君は自分のすべきことをしたまえ」

「すべきこと……」

「パトカーがそこまで来ている」


 月吉に背中を押され、もつれる足が倒れないよう慌てて数歩先を走っていく。


 謝って、たくさん謝って、

 そうして、その後は……まだ、分かっていない。


 残された時間で俺が久奈に何をすればいいのか






「……今まですまなかったね。せめて最後くらいは君達の為に。邪魔者の相手は邪魔者に任せてもらおう。だから久土君、柊木さんのことは任せたよ。……ふっ、決まった」






 月吉と別れて一分足らず。数台のパトカーが俺の横を通り去っていく。


 あいつは結局何が言いたかったんだよ。

 俺と久奈が相思相愛? 一緒にいるべきだ?

 …………そんなの、出来るならそうしたいよ。でも、無理なんだ。別れはすぐそこまで近づいているんだ。


 せめて出来るのは謝罪することだけ。

 もう、他には何もない。残された時間で俺が久奈に何をすればいいのか分からないんだ……っ。


 ……久奈、ごめ


「久土」






 消えていくサイレン音。周りの音も消えて、視界の先に映る人物の音しか聞こえない。

 その人の声、その人の髪が舞いなびく音。


 キラキラとギラギラと兼ね備えた栗色の髪の少女。





 そこにいたのは、金城だった。

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