第141話 大好きだから
あの頃の長い髪とは違う、セミロングの髪。あの頃の弾んだ声とは違う、酷く落ち着いて細い声。
あの頃の喜怒哀楽が現れた感情豊かな笑顔は、今は見る影もない。無表情で笑わない、いつもの久奈が俺を見つめていた。
いつも通り……いつの間にか『いつも通り』と思うようになってしまった。この姿が『いつも通り』になっていた。
本当は違うのに。本当の久奈は笑っていたのに……。
「なお君、大丈夫?」
「大丈夫って何が……あ、いてててっ」
上体を起こして辺りを見渡す。頭の中を走る痛みで片目を閉じかけるも、ぼやけた視界と思考で今ここが病院だと把握した。
「そっか、俺は倒れて……」
「ん……なお君完全に白目剥いて泡吹いてた」
「教科書に載るレベルの気絶っぷりだなおい……」
ボウリングの球を踏んで見事に後頭部から倒れた結果、見事に気絶。病院に運ばれたのか。
……そんなの今はどうでもいい。
「検査するってお医者さんが言ってた」
「平気だって」
「駄目。ちゃんと診てもらわないと」
立ち上がろうとする俺を久奈は片手で制し、もう片方の手を俺の頬に添える。
無表情ながらも心配そうに瞳は俺を見つめて決して逸れない。
「自分が誰か分かる?」
「分かるよ。久土直弥」
「私の名前は?」
「柊木久奈」
「私となお君はどんな関係?」
「俺と久奈は幼馴染」
俺らは幼馴染。
「俺らは小さい頃からずっと一緒」
「ん」
「ずっと、これからも……」
いつまでも一緒にいる。これからも、ずっと、一生。
約束した。俺らは笑顔で誓い合った。結婚しようと。
それなのに俺は、
「……ん、大丈夫だね。でもちゃんとお医者さんに診てもらお」
「そんなのどうでもいい」
「駄目だよ。検査はしなくちゃ」
「どうでもいいんだよ! いいんだ、俺のことなんて……!」
「なお君……?」
「全部、思い出した」
いつも隣で笑っていた。太陽のように眩しくて、とろけるような満面の笑み。大好きな久奈の笑顔。
いつも一緒だった。どんな時も一緒で仲良しで、大きくなったら結婚しようと約束した。
それなのに俺は、その全てを忘れていた。その全てを奪った。
「俺が久奈の笑顔を奪った。久奈に酷いことを言って無視して……俺が……俺のせいで……!」
笑う俺、アホ面の俺。
そして、怒った俺と無表情の俺。
「俺、久奈に怒ってしまった。久奈のこと大嫌いって言ってしまった」
「……」
「なあ久奈……久奈が笑わないのは、俺があんなこと言ったからなんだよな」
俺の問いかけに、久奈は少し間を空けて頷いた。円らで大きな瞳がこちらを見つめたまま、閉ざした唇が機微たる変化もなく黙したまま、静寂に溶け込むようにゆっくりと。
俺のせいだ。
男子達に煽られて我慢の限界を超えてマジギレしてしまい、怒って叫んで、見られて……久奈のことを無視してしまった。
謝ることも訂正することもせず無視し続けてタイミングを失って、冷たく当たってしまった。
そのくせ時が経つと全てをケロッと忘れた。以前のように今までのようにヘラヘラと笑って、笑わない久奈に対して笑えと強要して……。
最低だ。何が久奈を笑顔にしたいだよ。奪ったのは俺じゃないか。
ついカッとなった? 子供だったから引っ込みがつかなくなった? 小さい頃の出来事だから仕方ない? ふざけるな。そんなの言い訳にならない。
……俺は最低だ…………でも、どうして……
「どうしてだよ久奈……」
「……」
「確かに俺は笑わない子が好きだと言った。おとなしくて静かな子がタイプだって言った。だけど……」
怒って無視して冷たく当たって、女子から好きなタイプを聞かれてテキトーに答えて、それだけだろ。
たったそれだけのことを、目の前の幼馴染はずっと、何年もずっと守ってきた。本来の自分を消して徹底してなりきってみせた。
「あんな発言、子供だった俺がぶっきらぼうに言ったに過ぎない。それを久奈が真に受けることなんてないだろ……何年も、今も、どうして守り続けているんだよ!」
俺は言ったことも怒っていたことすら忘れていたんだぞ? 久奈に対して酷いことをしたくせに忘れた最低な奴だぞ!
「それだけじゃない! ……俺は結婚の約束も覚えていなかった」
記憶を巡り場面が変わり、最後に辿り着いたのは、過去の過去。
小学生より前、小さな小さな俺と久奈が交わした結婚の約束。それすらも俺は忘れていた。
だけど久奈は覚えていた。誓い合ったあの時から、小学生のあの事件を経て、今現在も、ずっと……!
久奈は覚えていた。久奈は忘れていない。
そして、俺の前で笑わないことを続けてきた。久奈はずっと守り続けてきた。おとなしくて静かな子で笑わない、それを何年も徹底して尽くして、そうしてずっと俺の傍にいた。
「なんでだよ……! どうしてそこまでして……!」
「なお君が大好きだから」
添えられた手は音を立てずに俺の手に重なる。ぎゅっと握られて、二人の体温は混ざって一つの温もりとなる。
見上げた先にあったのは無表情。俺だけをまっすぐに見つめ続ける。
「出会った時からなお君が好き。幼稚園の時から、小学生の時も、中学生の頃も、高校生の今も、そしてこれから先も一生ずっと好き」
っ……!
「世界の誰よりも何よりも大好き。なお君を愛してる」
だから俺の好きなタイプになろうとして……
「っ、な、何言ってんだよ。だからって……」
「ん……分かっていたよ。おとなしくて静かな子になっても、それはあまり意味がないってこと」
乱れる呼吸、荒れてやや早口になる言葉。久奈らしくない声。それが今までで一番心の奥底にまで響き渡る。
響いて、反響して、心臓の嫌な鼓動に絡む。罪悪感が押し寄せる。
「なお君がついカッとなって口走ったことも分かってる。本気で言ってないことも分かってる」
「分かっているならどうしてだよ! 静かにしなくてもいい、おとなしくしなくてもいい、そんなの必要ない。笑ってもいいのに、なんで……なんでずっと無表情で……!」
「最初は、あの時は……なお君に無視されるのが辛かった」
痛い、胸が痛い。自分が憎くてムカついて、久奈を見ていると悲しくなる。
締めつけられるような痛み、潤んでぼやける視界。久奈の瞳が揺れる、久奈の瞳も潤む。それでも俺だけをまっすぐに見つめる。
「怒ったなお君が怖かった。こっちを見てくれないのが悲しかった。他の女子がなお君に近づくのが嫌だった。だから、なお君の好きなタイプになれば私を見てくれると思った。なお君がテキトーに呟いただけのこと、大して意味のないこと。……それでもいい。なお君と一緒にいられるなら、なんだってするよ」
「ひ、さ……な」
重ねた手が熱くなる。
「なお君が私を笑わせようとしてること、本当は知ってた。……ごめんね……本当はいつも笑いたかった。なお君と二人、笑いたかった」
久奈の思いが溢れて、俺の中に飛び込んでくる。痛い。痛い。
「でも笑ったら嫌われるかもしれない。それがどうしても頭から離れなくて、笑っちゃ駄目だと思い込み続けたの。静かでおとなしくて笑わない、そうしたところでなお君は覚えていないし意味ないと分かっていても無理して我慢して……」
次に飛び込んできたのは、久奈自身。
潮が引いていくような静けさに包まれた病室で、久奈は俺の胸元に飛びついて抱きつく。
「変な意地張って、笑顔を見せないようにして……そんなこと無意味だって分かってるのにやめれなくて……」
いつも抱きしめてきた体。いつものように温もりを感じるのに、胸の奥底が痛くて痛くて悲鳴をあげそうになる。
だけど口からは悲鳴どころか声さえ、息すらも出てない。何も言えなくなった俺の胸元で小さな声だけが聞こえる。
掠れたような、弱々しく、震えた声。
「だから……もう、我慢しなくてもいい……?」
顔を上げた久奈は、泣いていた。
「もう、我慢しなくていいよね……? 無表情じゃなくてもいいよね……? 笑ったり怒ったり悲しんだり……いっぱい泣いてもいい……?」
「あ、あ……」
「離れたくないよ。私はなお君と一生、一緒にいたい……っ、ただ、それだけなの……!」
涙が溢れて、彼女の瞳から溢れて止まらない。
「辛いよ……なお君と離れ離れになりたくない……!」
溢れて止まらない涙。久奈の頬を伝う。
自分の頬からも涙が落ちる。流れて止まらない。胸が痛い。
「こんなことなら、もっと笑えば良かった……なお君と笑えば良かった……なのに、今は涙しか出てこないの……っ」
泣き崩れる。震える両手は俺の服を掴み、泣き崩れる。おとなしくて静かな子を徹してきた幼馴染が声をあげて嗚咽を漏らして泣き崩れる。
その姿が、たまらなく痛い。心に突き刺さる。
そんな風に苦痛に感じることすら、今の俺には許されない。
誰のせいだ。俺のせいだろ。この最愛の人から笑顔を奪って泣かせているのは全て俺のせいだろ……っ!
痛い。俺の痛みなんてどうでもいい。俺自身の辛さなんてどうでもいい。久奈が泣いている。それが一番辛い。久奈の方が痛いに決まってる……!
「なお君、大好きだよ……っ、っ……!」
最愛の幼馴染が俺を抱きしめてしがみついて泣き叫ぶ。
俺は何も言えず、涙が止まらず、泣き続けた。




