第135話 離れたくない
引っ越し……?
「な、何言ってんだよ」
「せやから引っ越しやて。なんべんも聞くなや」
「俺は? 学校は?」
「転校やろ。その辺も早めに調べんとなぁ」
引っ越し。転校。言葉が耳に入り、抜けていく。
母さんが何を言っているのか理解出来なかった。
「そ、んな急に言われても」
「そら転勤は急なもんやろ」
ドラマを観ながらぼんやりと返す母さん。尻をボリボリ掻いて大きな欠伸をして、俺の方を見向きもしない。こちらの反応なんて全く意にも介さない、あっけらかんとした態度。
それが、今語られたことが本当なのだと、冗談で言っているわけじゃないと暗に告げているかのようだった。
「はは……待てよ、ジョークはやめてよ」
ジョークじゃないことは分かっている。本当は聞いた時に理解していた。
でも口が勝手に動く。否定しなくちゃいけないと焦った。
心のざわつきが、心臓の嫌な鼓動が、額に滲む汗が、それら全てが突きつけられた事実を否定しろと訴えかけてくる。
「嘘やない。近いうちに荷物も運ぶからいらん物は捨てとけ」
嘘だ。タチの悪いドッキリだ。引っ越しなんてしない。
否定し、目を背ける。
その一方で、心奥では着々と理解の速度を上げていく。嘘じゃない。ドッキリでもない。引っ越しは、覆ることのない、本当のことだと。
理解していく。理解して、っ、嫌だ……。
「私もいらんドラマのDVD捨てんとなぁ。にしてもホンマこの俳優は演技がクサくてかなわん……あ?」
何言ってんだよ。なんだよそのサラッとした感じ。淡々と決定事項を述べて、言うだけ言ってはい終わり。そんなの認めてたまるか。
俺は嫌だ。引っ越すのは嫌だ。
自然と体が動いていた。母さんの前に立つ。
心臓から響く嫌な鼓動は今も全身を無慈悲に打ちつけて、目の奥がズキズキと痛む。
「どけや。私のドラマ鑑賞を邪魔したらどうなるか分かってるやろ」
「なんだよ引っ越しって」
「知るか。決まったものはしゃーないやろが」
「うな……」
「あん?」
「簡単に言うな……!」
どうしてだ。大きな声を出した自分、全身が痺れるように痛くて、目の奥も心臓も何もかもが痛い。痛くて熱くて、喉が絞まって呼吸が出来ない。
出来なくても叫びは出る。感情が、溢れ出す。
どうしてだ……痛い、痛くて、嫌だよ……!
「決まったモンはしゃーない言うとるやろ。いいからどけや」
母さんは俺を押しのけてケタケタ笑う。どうでもいい、大したことじゃない。そう言わんばかりに。
なんで……なんで母さんは呑気に構えているんだよ。なんでもう受け入れているんだよ。
そんな簡単なことじゃない。俺は、俺には……!
「分かっているのか! 引っ越しだぞ? このマンションから、この地から、どこか遠くに行くことになるんだぞ!」
「わーっとるわ。別にええやん」
「ふざけるな! 俺は……俺は…………!」
「っ……なんやねん。アンタらしくない」
っっ、俺は……俺は!
「俺は絶対に嫌だからな!」
そうして、最後に叫んだのは何十分前だろう。
意識が戻った時、俺は無数の雨粒に打たれて走っていた。
ビショビショに濡れて、向かう場所があるわけでもなく走り続ける。
走って走って、息が切れても足を止めることなくどこに行くわけでもなく、ひたすら走った。
「はぁ、はぁ……っ、ぐ」
容赦なく雨は降り続ける。それでも走り続ける。
どうして自分がこんなに動揺しているのか。柄にもなくマジになって怒りに任せて叫んでいるのか。
……本当は全て理解しているんだ。一番最初から、引っ越しと言われた時には気づいていた。
でも認めたくない。俺は引っ越したくない。転校したくない。
だって、引っ越したら久奈と……
「久奈と離れ離れになりたくない……っ」
頭に浮かぶ、幼馴染の顔。思い浮かべて、痛みが走る。
言葉に出してしまった。引っ越しすることが何を意味するか口に出してしまった。不安が心の中に広がっていく。
久奈が好きだ。世界の誰よりも大好き。全てを投げ出してでも大切なのが久奈だ。
俺は、久奈がいないと駄目なんだ。あいつがいないと俺は笑えない。
「あぁクソっ! ……泣いてんじゃねぇよ馬鹿」
雨で濡れた頬の上を別の滴がなぞり流れる。
離れ離れになると想像しただけで溢れてくる、零れてしまう涙が雨粒に混じって地面に落ちていく。
あいつと離れることをほんの少しだけ考えただけで涙がこんなにも……。
「久奈……っ」
走って走って、不安は消えず、足が止まる。
見上げた天からは雨がいつまで経っても降り注ぎ止まらず、俺の涙も止まらなかった。
「お、お母さん、今、なんて言ったの? なお君が……お引越し……?」




