第106話 ブルーアワーに口づけを
観覧車の列に並ぶ。
時刻は夕方。オレンジ色の斜陽が観覧車の影を広く長くゆるりと伸ばし、巨大な物体が脈打つように回る様は見慣れないはずなのにどこかホッとする安心感に合わせて心が弾む。
観覧車とは謎の魅力がある。年を重ねてもやはりワクワクするものだ。
「閉園しちゃうわ。急ぐわよ!」
「るっせーな、観覧車に乗る為だけに遊園地来るとかアホすぎて気が乗らねーんだよ」
と、後方が男女の声でぎゃあぎゃあと騒がしい。どうやらカップルのようだ。
「うるさいっ。アンタは私に従えばいいのよ」
「いつまで主従関係のつもりですかアハン? お願いします、だろこのクソ女ぁ。分かったら今すぐ地面に額をこすりつけて恥部の一つでも見せろクソボケ」
「お願いの仕方の範疇を超えてるじゃない!」
「んじゃお願いはいいからパンツ見せろ。パンツの内側見せろ」
何この人ら!? 本当にカップル? 彼氏さん口が悪すぎるだろ。
案の定、彼女の方は激昂して地団駄を踏んでいる。そりゃ怒って当ぜ……、って……。
夕日に照らされたサラサラの煌く長い髪が波打ち、赤い顔をめいっぱい膨らませて怒る姿は気丈で威圧的。それでいて……おお、この人すんげー美人だ……。
「なお君? 見惚れてるの?」
不穏なオーラはすぐ真横から。
ぐい、と引っ張る力は強く、勢いがついて俺と久奈の鼻はぶつかった。
「べ、別に見惚れてない」
「じぃー」
「そ、その不満そうな目は何さ。や、ちょっと痴話喧嘩を見てただけじゃん」
「誰が痴話喧嘩だ。チラチラ見てんじゃねぇモブキャラ風情が。とりあえず恥部を露出して無意味に排泄しやがれ」
うおぉい彼氏の方に絡まれちゃったよ! なんでこの人呼吸するかのようにポンポンと悪態を吐けるの!?
「そうよ。ノーマルガチャで出てくるような奴が私達に話しかけないで。ウザイ死ね消えろ滅しろ」
うおぉい彼女の方も口が悪い! 初対面だよ? その暴言は初対面の人に向ける鋭さじゃないよね!?
即座に理解した。このカップルはヤバイ。
「ご、ごめんなさぁい!」
逃げるようにして慌てて観覧車に入る。一気に疲れが押し寄せた。ぎゃー怖い!
お、恐ろしい。他人に対してあそこまで毒を吐ける人がいるなんて。モブキャラ……確かに俺は無個性だけどさ……ぐすん。
「……」
で、問題はまだ残っている。久奈だ。
向かい側に座り、ジト目で俺を見つめてくる。じぃー、と。じぃ~、と。
「さっきの人、美人だったね」
「そ、そうだな」
「なお君見惚れていた」
「見惚れていたというか少し気になっただけで」
「ふーん。へえー」
「うっわ納得してない……」
観覧車特有の浮遊感に包まれる上に謎の圧迫感が加わる。ゴンドラが狭いわけではない、久奈から発せられる威圧が空気を重くしているのだ。ジト目が俺を捉えて離さない。
「……もう嫌なの」
「へ?」
「もう誰にもなお君を取られたくない」
ガタンと揺れた。久奈は俺の隣に座ると思いきり抱きつく。
本日何度目になるか分からない密着、けれど今までと違う緊張感が身を包む。
久奈の指が俺の制服に食い込み、引っ掻くようにしがみついて、微かに震えていた。
「なお君と離れ離れになりたくない……」
「な、なんでそうなるの。さっきのは俺が見惚れてただけじゃん」
「認めた」
「うぐっ。や、今のはそのぉ、って爪が肌に食い込んでる!」
「なお君はああいったタイプが好き? 胸の大きい人が好きなの?」
「え、さっきの人巨乳だったのか。見逃した!」
「……」
「あ、違う違う! 俺はああいったタイプは好みじゃない」
「本当?」
本当だって。
そもそもどうしてそんなこと聞くんだ。火藤さんの時も同じようなことを言っていたよな。……何か関係しているのか?
「胸は今すぐには無理だけど、口悪くなればなお君の好みになれる?」
「駄目だよ!? 久奈が下品な言葉を吐くなんてワタクシ許しませんわよ!」
もし久奈から「消えろ死ね」と言われたら吐血じゃ済まない。全身の穴から一斉に血を出す自信がある。俺死んじゃう!
「今のままでいいの。今の久奈が一番だ」
気づけばゴンドラは茜色から紫紺に変わるどんより暗い空に近づき頂上へと迫る。
窓から一望出来る景色は圧巻そのもの、奇想天外ファンタジーな場内を新たな色で染め直して所々からライトが芽吹くように光り溢れる。
俺は久奈の手に手を重ねる。肌に食い込む爪を引き剥がすことはせず優しく握って、久奈の頭に自分の頭を乗せた。
「あ……」
「久奈がいないと駄目なんだ。他の誰でもない、久奈が一番大切だ。……俺だって離れ離れになりたくない」
嫌いって言われた時はショック死寸前だった。それくらい嫌なんだぞ。
久奈がいないと俺は笑えない。
「ああ、そっか」
「なお君?」
「俺の方こそ、笑わせてもらっているんだ」
笑わせると決意して何度も挑戦して失敗の連続。久奈が笑わないならその分も俺が笑おうと思ってきた。
違う。そうじゃない。心の底から笑えているのは久奈が傍にいるから。
久奈が笑う笑わないの以前に、久奈がいないと俺は笑えない。満たされないんだ。
「俺は誰にも取られないよ。久奈と離れ離れにもならない。久奈と二人でいる時が楽しくて嬉しくて自然と笑みがこぼれて、すげー幸せだから」
重ねた手は互いの温もりで熱くなる。触れ合う髪の毛先からも互いの想いが伝わり合う。
熱くてとろけて、幸せだった。
「っ、なお君……」
「なあ、久奈」
「な、何?」
「…………俺、今、すげー恥ずかしいこと言ったよね」
ぐ……ぐあああ!?
俺は馬鹿なの? ムーディーな感傷に浸って真顔で臭い台詞を言っちゃった! 臭い、今の臭いよ。麺太の体臭くらい臭った!
はい恥ずかしい! 俺は恋愛ドラマの主人公か! 悶えりゅうううぅ。
「あばばば顔が熱くてヤバイ」
「……私も同じ気持ち」
「ご、ごめんよぉ。一緒に悶えようぜ」
「んーん、恥ずかしいって意味じゃない。私も楽しくて嬉しいの……私は今のままでいるね。おとなしくて静かな子でいる」
おう! 久奈は今のままでいいのだっ。バストアップ体操はしなくていいからね? 久奈は久奈で素晴らしい価値があるんだから。希少なステータス!
「あ、もう頂上過ぎちゃったな」
観覧車は見た目より回るスピードは速い。頂上にいる時間なんて数秒。
「なお君、観覧車って何するところだと思う?」
「そりゃ景色を眺めるものだろ?」
「ブブー」
「違うのか」
「……ちゅー、するところ」
「え?」
指を絡ませて頭を並べた状態のまま久奈は少し離れて俺を見上げて目を閉じた。
観覧車を見上げる時のように顔をこちらに向け、観覧車のようにゆっくりとこちらに近づいてきて……っっ!?
「なお君……」
陽が落ちた。空は茜空と夜空の狭間、濃い青色に染まる。
下から届くライトではゴンドラ内は照らされない。静かで狭くて薄暗い、その中で久奈が迫る姿がハッキリと映った。
……さすがに俺もこれは分かる。そういう空気と言いますか、雰囲気と言いますか、その……。
っ! 直弥よ、男になれ。
観覧車の頂上でやることと言えば一つ。それを久奈は望んでいる。待っている。
渇く唇を少しだけ前に出し、暴れ狂う心臓を抑えることなくさらけ出し、ほんのちょっと、少しずつ前へと乗り出し、久奈の元へ。
覚悟を、決めるんだ。
「久奈」
「なお君……」
「てぇい!」
夜景の綺麗なレストラン。洒落た照明が洋風な内観に神秘さを醸し出す。
俺は『厚き情熱に唸れ 牛フィレ肉のロースト 誉れ高き赤ワインソースと共に』を一口運んで、やや俯きがちに恐る恐る口を開いた。
「久奈……まだ怒ってる?」
「……」
黙ったままお肉を食べる久奈はツーンと夜景を眺めている。口を尖らせて目を細めて、チラッと横目で俺を見るとフィレ肉にナイフを入れて一言。
「なお君の馬鹿」
「そ、そう言うなって。ち、ちちちチューはしただろ」
「おでこだった」
「……」
「なお君の馬鹿」
「ひいぃ……」
あの時、あの最高の瞬間。ビビった俺は久奈の額に口づけした。唇同士じゃなくて、おでこ。
いや待って! 俺的にはそれでも相当に頑張ったよ!? おでこにキスだって高難易度だからな!
だが久奈は不満なご様子。遊園地を出た後もこんな感じでムスッとしている。
う、うぅ、だってまうすとぅーまうすはレベルが高すぎる。覚悟を決めたのに無理だった……。
「き、機嫌直してよ。久奈の好きな『黒めよ ブラックココアのマドレーヌ』も頼もうか?」
「……」
「だってぇ! 緊張したもんビビったもぉんん! しょうがないよぉう!」
気持ち悪い叫び声を聞いてウエイトレスさんが怪訝な顔してる。
す、すいません、クリスマスにお世話になったカッコつけ台詞噛み男がまたやらかしています。
……俺だって相当に後悔しているからね。なぜあの超良いムードでしなかったんだああぁ、って。
「ツーン」
「ごめん……」
「ん、いいよ」
「あらアッサリと!?」
「なお君がビビりだって分かったから大丈夫」
そうっす俺はビビリっす。あれだけカッコつけて臭い台詞を言ったくせに最後はヘタレ。我ながら惨めだ。み・じ・めっ!
……ん? 大丈夫って何が? 目で問いかけると久奈は目を合わせて小さく頷いた。
「次は私からする」
「や、でもそこはやっぱり男の俺が」
「なお君はビビリだから無理」
「何も言い返せぬ……」
しょんぼり、しゅーん。申し訳ない気持ちで水をチビチビ飲む。
はぁ、情けない。きっと今日のことは一生レベルで引きずるかも。んだよ俺ヘタレかよ。ウザイ死ね消えろ滅しろぉ!
「でも、嬉しかった」
「あひ?」
「今日は一生レベルの思い出。なお君、これからも私の傍にいてね」
「久奈……」
っ、ポカンとしている場合か。最後の最後くらいシャキッとしなさい!
コップを置いて姿勢を正し、俺は笑う。
久奈がいるから、心の底から思いきり笑える。
「誓っただろ? こちらこそ、これからも俺の傍にいてくれ」
「んっ」
俺は満面の笑みで久奈は無表情。
でもなぜだろう。今この時だけは、二人で笑い合えた気がした。心の中で、二人寄り添い合って。
……てゆーか今の告白じゃね?
違う、の? ま、まあ好きって伝えないと告白ではないはずだよね。そう、だよね?




