第100話 仲直り
向日葵家を出て現在時刻を確認、加えて記憶を頼りに地理能力を限界まで高める。ここから家までの距離、どの交通機関を使うか、その場合の時刻表、全てを統合して最速ルートを導け。
この周辺のバス停は網羅していない。バスを使うにしろ今は駅に向かうべきだ。
「っし、走るか」
自身に言い聞かせて脳内でアイテムボックスのルーレットを回す。トゥルル、ポンポンポン、出たのは当然パワフルダッシュキノコ。オッケー、全速力な。足に力を込めて地面を蹴る。
「うおおおおぉ!」
罰でグラウンドを何十周と走ってきたんだ。このくらい屁でもない!
駅に向かってフルスピード。緩めることなく力の限り走った。
「はい到着ぅ!」
息を整える時間すら惜しい。乱れた呼吸は放置、駅構内に入ってい……おい、なんだこれは。
「遅延……?」
電光掲示板に表示される『運転見合わせ』のお知らせ。電車が遅れて駅に到着していない。
どうやら俺は運に見放されているらしいね。はっ、俺がその程度で諦めると思うたか。甘いんだよ運命さんよぉ!
電車が無理ならバスがあるじゃない。元より俺はバス通学だ。
踵を返してバス乗り場へ向かうと同時に、久奈が俺の誕生日にプレゼントしてくれたパスケースを素早く鞄から定期を取り出す。さあ行くぜ!
「……」
「お兄ちゃんもバスかい? あたしゃ結構待っとるんじゃがまだ来ないねぇ」
緑色の風呂敷包みを背負ったおばあちゃんが気さくに話しかけてくる。
遅い。バスが来ない。時刻表を見るからに五分前には到着しているはずなのに。
まさかバスも遅れている? もしくはもう既に出発した後? ……待とう。どちらにせよ距離的に考えてここは根気強く待ってバスで移動するのが最速。待つんだ。
「今日はお日様ポカポカで気持ちええねぇ」
「……」
……。
「明日も晴れんかなぁ。週末はウチの孫が遊びに来るんじゃ」
「……」
……。
「孫の為に黒飴買ったんじゃが良かったら舐めるかい?」
「あばばばばばばば」
駄目だ待てるか! 全身がソワソワして落ち着かない。今この瞬間も久奈は泣いているかもしれないんだぞ!
金城や麺太に落ち着けと散々言われて、麺太に説教された直後ではある。もちろん久奈のことを信じているし、二人きりでちゃんと話せれば仲直り出来るのだから急ぐ必要はないと分かっている。
でも待てないんだ。分かっていてもこの焦燥を拭い去ることは出来なかった。一分、一秒、一刻も早く会いたい。
「ほら若いもんが遠慮しなさんな。美味しいかい?」
ごめんな麺太。俺は自分を止められない。アホなんでな、仕方ないでな。
黒飴を噛み砕いて飲み込みクラウチングスタートの構え。脳内のアイテムはやはりパワフルダッシュキノコ。
「うおおおおぉ!」
「若いってええねぇ」
走れ。走って走って、走りまくるんだああああ! うおおおぉ、おらぁああああぁ!
「ぜぇ、ぜぇ……うっぷ、っ!」
何十分走ったことだろう。全身から噴き出す汗でアンダーシャツやパンツはグチョグチョ、息切れを無視して走り続けたせいで動悸は収まることなく暴れる血流は今にも血管や心臓を食い裂きそうだ。
汗で湿る表皮、渇いた喉。込み上げる吐き気を全身にありったけの力を込めてねじ伏せる。ゲロや弱音を吐くのはやめだ。今は、進め!
「もう少し……!」
マンションが見えてきた。久奈と一緒に歩いた通学路を走る、進む、前へ前へと。
本当にもう少しだ。あとはエントランスで暗証番号を打ち込み、階段で七階まで登って久奈の家へ……。
「…………久、奈……?」
眼球が飛び出すかと思った。荒く雑に吸って吐いていた呼吸はピタリと止まって頭の毛先から足の爪先まで硬直。
マンションの一階、エントランス。ガラス扉の向こうに立っているのは、久奈。俺をまっすぐ見つめていた。
「舞花ちゃんから電話がきたの。なお君が待っているって。必ず会いなさいって」
「……」
「なお君……?」
「ひ…………久奈ああああ!」
まさかエントランスで会えるとは思ってなかったので完全に面を食らったが呆けている時間は一瞬たりともない!
脳から放出される熱気と信号が固まった体を叩き起こし、ノーモーションで突撃。打ち慣れた暗証番号を入力して……入力…………入力しているよな?
「あ、あれ? 開かない」
打ち込んでもエントランスドアは無反応。幾度と丁寧にボタンを押しても開こうとしない。
は? はあ? はああぁん!? なんでだよ! ここにきてまさかの故障!?
「くっ、この……! そっちから開かないか?」
「……開かない」
「もっとジャンプして! センサーに自分の存在をアピールしてみて!」
本来なら外から暗証番号を入れるか、内側からセンサーが反応する位置に立てば開くはずのエントランスドアはピクリとも動かず、俺と久奈はガラス一枚で隔てられたまま。厚さ十センチ程度の透明な壁が、俺ら二人の距離をゼロにはしてくれなかった。
「ぐおおおおまだ邪魔する気かあぁ!」
電車もバスも遅れて最後には住むマンションすらも俺の行く先を妨げる。憎い、俺を邪魔する全てが憎い。何より憎いのは自分自身。悲しげな顔をさせた自分が憎い。俺の馬鹿野郎……!
エントランスドアに両手をついて、届かない先にいる久奈と向き合う。
「もう一度、ちゃんと話を聞いてほしい」
久奈を不安にさせたのは俺。泣かせたのも俺だ。
自分が悪いのは思い知っている。嘘偽りなく伝えなければなかったと後悔している。それら全てを飲み込んで進んできたのに、今はガラス一枚を挟んで言葉を発することしか出来ない。
「俺が馬鹿だった。久奈の為にとか決め込んで本当のことを言わなかった。誤魔化した」
「……」
「全部話す。俺と火藤さんは……」
素行の悪い俺が火藤さんに目をつけられたこと、二人して警察の世話になったこと、保健室で火藤さんとベッドの下に隠れて密着したこと、怪我した火藤さんを連れてカフェに入ってパフェを食べたこと。
いくつものちょっとした事件。全てを話して、話し終えて、最後の最後に、すがるように声がこぼれ落ちた。
「嘘に聞こえるかもしれない。言い訳じみているとも思う。でも、本当なんだ。信じてほしい」
自分はあんなに誤魔化してきたくせして信じてほしいなんて図々しくて醜い。
分かっている。今更こんなこと言って弁明になるわけがないと。それでも言ってしまった。久奈に信じてほしいとすがってしまった。
「信じてくれ。俺が一番大切なのは久奈だ。なのに大切な人に嘘をついた、誤魔化した、泣かせてしまった……っ、本当に、ごめん」
「私の方こそ、ごめん」
ガラスの向こうで久奈が俺の手に自身の手を重ねる。触れていないのに、俺の手の平には温もりが伝わってきた。
「久奈……?」
久奈は泣いていた。
「私、なお君のこと突き放してしまった。なお君に嫌いって言っちゃった。そんなわけ絶対にないのに……」
「あ、謝るなよ。悪いのは俺なんだから」
「私も悪い。私が最後まで話を聞かずになお君を突き放した、火藤さんに嫉妬した、なお君に酷いこと言ってしまった。なお君はこんなにも必死に想ってくれていたのに……!」
大きな瞳を揺らして細める。ポロポロと零れる涙は久奈の頬を濡らす。それだけのことが、俺にとっては心臓に火箸を突き刺される以上に痛かった。
「……悲しい顔をさせないって決めたのにな。本当、ごめん」
「ち、違う、違うの。私が勝手に拗ねただけ。なお君のこと無視し続けて、そしたら話すタイミングが分からなくなっちゃって……私、自分のことが憎い」
「俺も自分が憎いよ」
久奈と一緒にいられなかったこの一週間。嫌いと言われて精神壊して奇声モード、周りに当たり散らして自暴自棄になって病んでいた。俺どんだけ脆いんだよ。
久奈がいないと俺は脆い。久奈がいないと駄目なんだ。
「嘘を言ってごめん。不安にさせてごめん。久奈……また俺と一緒にいてくれないか」
ドア越しに目と目が合う。ガラスを隔てて手と手が触れ合う。
そのドアが、開いた。涙を拭い、久奈は口を開く。
「ん」
いつもの「ん」が俺の耳に届く前に、久奈が俺の胸元へ飛び込んできた。温もりが一気に満ちる。
「私もなお君と一緒にいたい。なお君、なお君……!」
「……本当にごめんな」
「んーん、もう謝らないで。もういいの、今はこうしていられるだけで十分。十分、嬉しい……っっ」
久奈に抱きつかれて久奈と抱き合う。
「あー、その、今の俺めちゃくちゃ汗まみれなんだが」
「関係ない。私だって涙でグチャグチャだもん」
「思い知らされたよ……俺はお前の涙が一番辛い。もう一度誓うよ。久奈を泣かせない、不安にさせたり悲しい思いをさせない」
「信じる。私も誓う。ずっとなお君の傍にいる。これからもずっと一緒、ずっとだよ? 信じてくれる?」
「もちろん信じる」
「ん。嬉しい……!」
抱き合ったまま互いの温もりが混ざり溶けきった後も、俺らは離れることはなかった。