二度目の訪問(1)
夏休みも中盤に差しかかった、八月初旬のある日。
じわじわじょわじょわと蝉が鳴く炎天下を、俺は歩いていた。気が重かった。
福田みのりという名のクラスメイトがいる。彼女は中一から高一の現在までずっと同じクラスで、出席番号順でいつも隣同士である、という以外には、ほとんど接点のない相手だ。美人で明るい性格なので、先輩も後輩も同級生も一度は彼女に恋文を書くだろう、と冗談混じりに噂されているけれど、俺は別にそこまでの情熱を彼女に持ったことはない。嫌いでもないけど。
なのに俺は今、彼女の家に向かって歩いている。
彼女は病弱で、持病の通院だか発作だかで毎月欠席するのだ。同じ町内に住む唯一のクラスメイトなので、俺がその間のプリントを届けに行く役目をおおせ付かることになる。一学期は計三回届けた。別に大したことじゃないのだ。親切心からじゃない、単に先生に頼まれたからやるだけだし、最寄り駅が同じなのだからちょっと遠回りするだけでそれほど面倒でもない。
ところが、夏休みに入る直前辺りに、なにを考えたのか福田みのりが母親と一緒に挨拶に来たのだ。
彼女のお祖母さんの手製だというめちゃめちゃおいしいおはぎをもらってしまった。繰り返すが、めちゃめちゃ美味しかった。どんなに頑張っても商品化できそうもない味がした。入れ物は返さなくていいと福田母は言った。事実、紙皿をちょっと豪華にしたような、繰り返しては使えないタイプの入れ物だった。突っ返すのも変だし、作り過ぎて食べ切れないから、と言われては断る理由もなかった。大したことしたわけじゃないのに、と言ったら、福田母は笑って首を振った。
――この子は持病があって、毎月休むでしょう? テストのたびに藤沢君にいろいろアドバイスをもらえて助かるって、いつも聞かされていたしね。
福田家は母子家庭だと聞いていた。母親は家計を支えるためにフルタイムで働いている。みのりの発作の時は祖母が診ているらしいが、祖母もふだんはパートで働いていて、みのりが家事をするのだとか。そのせいか、病弱な娘が受けた『親切』にはしつこいくらいにお礼を言いたくなってしまう、というようなことを福田母は話した。その理屈は分かるような、分からないような。
福田母はみのりとはそれほど似ていなかった。凜とした感じの、ボーイッシュな、美女というより美形と言いたい人だった。笑うととても優しい顔になる。俺は、中学校の時に聞かされた、この人についての噂話――リオニアの王子様が一目ぼれして駆け落ち――を話したらどういう顔をするのだろう、と頭のどこかで考えていた。
さて、ここまではいいのだ。ここで終われば、病弱な娘を心配しすぎる母親が、プリントを届けるクラスメイトへの挨拶にきた、で終わる。過剰な感じはするが、なんの違和感もない。
しかし昨日の家族会議で何の気無しにその美味しかったおはぎの話をしたのがまずかった。家族全員が盛り上がってしまったのだ。
末っ子だということもあり、家族は全員俺に甘い。甘くて身びいきが強く、反応が過剰である。姉のひとりが言った、『その子あんたのこと好きなんじゃない?』という無責任な発言が波紋に波紋を呼んでしまった。母親と姉たちがまー盛り上がること盛り上がること、俺が何度ただのクラスメイトだと言っても聞きゃしねえ。彼女たちは喧々諤々と話し合った末、『お返しをすべきだ』という意見で一致した。するなよ。
親父も兄たちもおもしろがっていーぞやれやれ若い者、のスタンスで、俺の身になって考えてくれる人間はひとりもいなかった。いやでもさ、お返しだぜ? 変だろ? どう考えたっておかしいだろ? しかもお返しの品は手作りパウンドケーキだぜ? 引くだろ普通。
俺は足を止めて長々とため息をついた。母親達は俺が作る菓子の中で日もちがして美味しいものと言えば断然バナナブレッドだ、と言い張って譲らなかった。炎天下、バナナつぶして生地作ってオーブンで焼く間にさ、俺だって何度も我に返ろうとしたよ。でも、姉ちゃん軍団って怖いんだよ……。言うとおりにしてみのりに笑われる方が、精神的集団リンチにあうよりゃずっとマシなわけよ……。チキン。ああ、俺はチキンだ。たれに半日つけてオーブンで焼きたいレベル。
「藤沢くーん」
遠くで俺の名を呼ぶ誰かの声がする。もやもやと湯気のたちそうなアスファルトの先にふたつの人影が見える。誰だっけかなこの声。どっかで聞いたことあるけど。女子の声だ。あ、通りすがりのこの人に、この忌まわしいバナナブレッドを進呈してはどうだろう。いやもっと引かれそうだけど。
「藤沢くーん。あ、やっぱそうだ、藤沢君、久しぶり!」
声をかけつつ小走りにやって来たのは、見覚えのある女子と、見覚えのない女子だった。確か……見覚えのある方は、確か、えーと。
誰だっけかな。俺が思い出さないうちに、親しげに寄ってくる。あーいたなーこの傍若無人なフレンドリーさに覚えがあるわ。
「ひっさしぶりだねえー、卒業以来だね! 元気そうじゃん? ちょうどよかった、今藤沢君家に行くとこだったんだ」
「へ?」
なんでだ。卒業以来一度も会ってない程度の知り合いでしかないのに。
「いや今度さ、三年三組のみんなでクラス会やろーって話が出てんの。夏休み中に。みんなでご飯食べて花火とか。どう? 楽しそうじゃない?」
あー楽しそうっすね。週に何度か顔を合わせるような、気心の知れた仲間となら俺もやりたい。
でも三年三組のみんなっつったって、俺は今ほとんど会ってない。毎日顔見てんのは福田みのりくらいだし、そのみのりとだって夏休みに入ってからはすれ違いさえしていない。正直、億劫だなと思った。何でそのためにわざわざ俺ん家まで打診しに来るんだろう?
と、彼女は擦り寄るような笑顔を見せた。
「藤沢君、高校入学してから一人暮らし、って言ってたよねえー?」
あー。なるほどね。
俺はよそ行きの笑顔を顔に張り付けた。
「まーね」
「じゃーさ、藤沢君の予定に合わせるから……」
「悪い」本当に申し訳ないと思いながら、俺は遮った。「悪いんだけど、俺、この夏バイト三昧なんだわ」
「ええー! 一日も休みないの?」
「夏期講習ない日は全部。あいてんの昼だけなんだよ。昨日も夕方から朝までバイトで、さっき起きたとこ」
「藤沢君、お坊ちゃまじゃなかったっけ」
疑わしそうな口調で彼女は言う。そりゃあ疑うよなあ。でも俺、二、三人ならともかく、男女合わせて十数人のどんちゃん騒ぎのために会場提供するなんてまっぴらだ。その彼女の袖を、見知らぬ女子がそっと引いた。
「ちいちゃん、無理言っちゃだめだよ」
おお、心の機微が分かる子だね。
……そして君、今いいこと言ったね。そうだそうだ、思い出した。このフレンドリーな元三年三組クラスメイト女子は、ちいちゃん、だ。花園千絵子。おお? 意外にすんなりフルネームが出た。顔も覚えてなかったのに。
「だってさあー。みのりも藤沢君もつきあい悪いよ。みのりだってほとんど一人暮らしみたいなもんなのにさあー」
「みのりは持病もあるし、しょうがないよ」
……ごめん。見知らぬ女子の方も元三年三組クラスメイトだったみたい、だな。悪い全然覚えてない。
つうか福田家に会場提供頼むのか、ちいちゃん。勇気あるなあ。
俺はもやもやしていた。なんだか、ちいちゃんが気にかかる。花園千絵子に、俺は何か、聞きたいことがあったような気がする。でもなんだったのか、全然思い出せない。頭の中にもやがかかっているような、歯痒いような、痒いところがあるのにどこが痒いのか分からないような、もどかしい感じだ。
「花園さ」
よく考えないまま、口を開いていた。
「今福田ん家行って来たのか?」
「うん、そうだよ。やっぱメールよか直接顔見た方が頼みやすいし。でもみのり、行かないって一刀両断。場所提供してくれなくてもいいからおいでよって言ったのに、やなんだって」
あれ、と思う。ちいちゃんの口調からは福田みのりへの悪感情が匂い立っている。前はもっと仲が良かった気がするのに。
名前も思い出せない気の利く女子が、またちいちゃんの袖を引いた。
「ちいちゃん、どうしたの? いやなんて言ってなかったよ? 発作が起きたら迷惑かけるからって……」
「だあってそんなこと言ってたら一生誰とも遊べないじゃん?」
あれなんか、今イラッとした。
ちいちゃんは唇をとがらせてぶうぶう言った。
「せっかくみんなで集まろうって盛り上がってんのにさーちょっと感じ悪ー」
すみませんね、感じ悪くて。
俺は心底申し訳ないと感じる。福田みのりと違って、俺のはいわゆる居留守だ。でも真っ平なのだ、本当に、申し訳ないけど。
だから話を変えた。
「あの話全然変わるんだけど」
遮るとちいちゃんは唇をとがらせたままこちらを見た。「う?」
「福田ってハーフ」……ダブル?「なんだっけ、か?」
「は? ……あー……あーそっか藤沢君、あははははははそっかそっか!?」
また笑いやがった。これが嫌だから、俺はあれ以来この話を誰にも振らなかったのだ。
でも今は、振らなければならない気がした。イライラを表に出さないようにしながら強引に話を引き戻す。
「あーもーそれはいーから王子様はもう信じてねーから」信じて、なかった?「王子様とか駆け落ちとかは嘘なわけな」本当に嘘だったっけ?「でもハーフまで嘘だったの」
「さー? 知らない」
ちいちゃんはあっけらかんと首を振る。そして名前不詳の少女と顔を見合わせる。
「みのりん家、お父さんいないでしょ。ずっとね、みのり、お父さんは外国にいるって言ってた。外国人かどうかまではそういえば聞いてないよね、まあでも、外国人なんだろうね。みのりどうみても日本人顔じゃないし」
「どこの国? リオニアっつったっけ?」
「あーリオニアね。よく覚えてるねえ藤沢君♪」
「はいはい、すみませんねー単純バカで」
「あれ? ひょっとして傷ついてた?」
ニヤニヤされ、またイラッとした。こいつと俺の感受性が同じってことは、同類嫌悪かこれ?
――感受性?
「リオニアはね、なんか、略称だって聞いたよ」
俺の苛立ちに焦って、名前不詳少女が急いで口を出してくれた。俺はそっちに向き直った。ちいちゃんよりこっちが早そうだ。顔覚えてなくて本当に申し訳ない。
「略称だから地図を探しても載ってないんだって。東ヨーロッパの方の、小さな小さな国でね。政情が不安定だから、お父さん、こっちに来たくてもなかなか出国ビザがおりないとか」
うまい言い訳だ、と、俺は反射的にそう思った。
そして身じろぎをした。何で俺、さっきから、変なことばかり考えるのだろう。
「まーもーいーじゃんみのりの話はさ。そろそろ行こっか? 暑いし会場探さなくちゃだし。じゃーね藤沢君、バイト頑張ってー」
ちいちゃんが面倒臭そうに言った。あーそーね、場所も提供しないのに引き留めて悪かった。名前不詳少女の名前も結局思い出せないままだ――と。
俺は行きかけた花園千絵子を呼び止めた。
「わり、最後にもうひとつ。福田みのりと旅行したことある?」
「はあ?」
彼女は心底面倒そうにおざなりに言った。親切に誘ってやったのに場所提供も参加すら断った俺にはもう用はない、と言いたげだった。
「あるわけないじゃん」
バッカじゃないの、と言ったも同然の口調だった。
悪い、俺こいつ嫌い。
――チエコとは違う……
名前不詳少女が不思議そうに言った。
「みのりは持病があるから、キャンプとかにも行かないよ。中学の修学旅行も行けなかったでしょ? どうしてそんなことが気になるの?」
それは俺が知りたい。
言葉に詰まった俺を、ちいちゃんが冷ややかな目で見た。
「んー? あやしいなあ。……藤沢君、もしかして」
名前不詳の少女は、対照的にキラキラした目をしていて、身を乗り出して俺に聞いた。
「藤沢君、みのりのこと気になるの?」
「……いや気になるっつーか」
実際気になるんだが、名前不詳少女の言いたいのはそう言うことじゃないよな。俺は名前不詳少女の思いがけない期待のまなざしにちょっと身を引いた。なんでそんな嬉しそうなんだ。みのりがさんざんクラスメイト振りまくって来たの知ってるでしょ君、俺も玉砕するのがそんなに楽しみなのか? 悪趣味だろそれ。
ちいちゃんは名前不詳少女を邪険に肘でつついて、俺をとても軽蔑したような目で睨んだ。
「藤沢君もみのりみたいな子が好きなんだ。他校の彼女はどうしたのよ」
「そんなんじゃねーよ」
なんで何でもかんでも色恋沙汰につなげようとするんだ。俺はちょっとげんなりした。