初めての訪問(5)
離宮は壮麗な建物だった。離宮ってのはつまり、王族が気まぐれに滞在する別荘って事だと思うんだが、別荘でこれなら本宅はいったいどんなになってしまうのだろう。リオニアってのはかなり裕福な国らしい。
町全体が離宮のために発展しており、さらに外国の王族や高級官僚たちをもてなすための観光地になっているようで、離宮の塔から町並みを見せてもらった時は絶句した。離宮と同じ、白と青を基調とした町並みが眼下に広がっている。まるで離宮という貴婦人の着たドレスがふわりと広がったかのような光景だった。北側に聖山があり、ドレスの裾がひるがえっているように見える。ドレスのところどころに宝石のように一際大きな建物があり、美術館だの博物館だのコンサートホールだの図書館だのになっている、らしい。町の外に目を向けると、青々と茂る田園地帯が広がり、聖山から流れ出た川が幾筋にも分かれながら町や畑を潤していく。ここから見る限り、貧民街のような薄暗い部分は全然見えない。この町が特殊なのかもしれないが、住民がみな満ち足りている感じがする。アトレンへの歓呼を思い出すまでもなく、リオニアの王様は名君であるらしい。
外国の高官たちが通されるのであろう、高級な客室に俺はいた。モフ美は目を覚ましており、窓辺で絶句する俺の頭の上でごろごろ喉を鳴らしている。この部屋の調度や絶景にもなんら感じるところはないらしい。
(ふじさわーもしゃもしゃもしゃー)
言うなりてふてふと前足で俺の髪をもむ。どうやら、俺にとってモフ美の毛皮があまりに魅惑的なのと同じような感じで、モフ美には俺の頭髪が魅惑的らしい。
「福田の方がいいんじゃねえの。長いしさらさらだし」
モフ美があんまり俺の頭髪を愛でるのでそう言うと、モフ美は言った。
(ミノリのも好きー。でも長いー。からまるー)
まあそうか。
(ふじさわーもしゃもしゃー好きー)
……俺も好きだぜこいつう!
俺は頭からモフ美を降ろして両手の中でもふもふした。ああ。なんていうか、至福の手触りだ……。つれて帰りてえ……。
しばらく夢中でもふもふしていると、ノックの音がした。
なんと答えるべきなのか、迷ううちに扉が開く。エレナちゃんが顔を出し、いいでしょうか、というように俺を見る。俺がこくこくと頷くと、ワゴンを押して入って来た。ワゴンの上にはお茶の用意がされている。
「――」
エレナちゃんは緑色の瞳で俺を見て、お茶をどうぞ、と言った。それはモフ美が教えてくれた。俺が頭を下げると、目を丸くして、微笑んだ。馬車の中ではずっと黙って控えていたが、結構気さくなたちかもしれない。
エレナちゃんが入れてくれたのはハーブティーのようなものらしい。紅茶より色が薄く、匂いも全然違う。びっくりするほど強い香りが立ちのぼる。でも嫌な匂いじゃなかった。むしろいい香りだ。
これ、香水に使うといいんじゃねえかな。サンプルもらえれば姉ちゃんが喜ぶだろう。
恐る恐る飲むと、味はとびきり良かった。すっきりして爽やかで、ほんのり甘いのに、後味が全然ない。軽やかな味が喉を通るとすうっと消えてしまい、爽やかな感触だけが残る。うわあこれ、ペットボトルに入れてコンビニで売ったら大ヒットしそうだ。兄貴に教えたら恩を売れる。茶葉を分けてもらえたらいいんだけど。
しかし、添えてあった菓子の方は……
……あれだ。王子様がなぜ百円メロンパンに目の色変えてるのか分かる、というか。
エレナちゃんは黙って給仕してくれている。みのりはどこにいるのだろう、と考えながら、俺は始めた。
「福田みのりって、どんな人ですか?」
モフ美が俺の言葉を伝えてくれることは期待できない(俺から離れたがらない)ので、意志疎通は骨が折れそうだ。だが、みのり、という単語は聞こえたはずだ。エレナちゃんは目を丸くし、首をかしげた。
「ミノリ・サマ?」
「おおっ? そう、みのり、さま」
サマって言った。たぶん敬称だろうと推測して頷いて見せる。地球のどこかの国では頷く=否定、という意味になるらしいが、リオニアでは日本と同じジェスチャーで通じるらしいので、そこはありがたかった。
とたんに、エレナちゃんはうっとりと目を細めて細い指を組んだ。
「ミノリサマ、――」
(すごい人です、って)
俺が何を求めているのか、だいぶ飲み込んで来たモフ美が伝えてくる。俺は頷いた。エレナちゃんは目を瞬いた。
「フジサワクン、――、――?」
みのりはサマで俺はクンなのか。サマってのはひととおりの敬称じゃないのかもしれない。
(ふじさわ、言葉が分かるのか、って)
「あーまーだいたい、聞くだけは。モフ美のお陰で」
こくこく頷いてやると、エレナちゃんは感心したようだった。
「――、――チエコ」
(やっぱりチエコとは違いますねって)
「……チエコ!?」
って花園千絵子のことか!? 違うって何が!? やっぱりって何が!?
俺の反応を見て、エレナちゃんは失言だったと思ったらしい。口を押さえて、それから、一礼しながら後ろに下がった。顔をあげないままさらに深々と頭を下げて、きびすを返した。
「って、待ってくれ、ちょっと!」
「――」
聞き取れない言葉を残して、エレナちゃんは足早に出て行ってしまった。モフ美が呟くように伝えて来た。
(失礼します、って)
いやそれは通訳待たなくても分かったわ……。
俺は椅子にぼすんと座った。無駄に座り心地のいい椅子だ。ため息をついて、茶を飲む。あー、やっぱこれ美味い……。ペットボトル持ってくりゃ良かった……。
それから、ぼんやり考えた。次回来る時には絶対、ペットボトルと、それから甘味の数々を持ってこよう。
そして、次回もみのりにくっついてここに来ようと思っている自分にちょっと驚いた。
みのりと王子様がやって来たのはそれから少し経ってからだった。
普段着のままのみのりをこの豪奢な部屋の中で見るとかなりの違和感があった。いや、俺だってさっきまでと同じ格好なんですけどね。みのりも着替えていないことに俺は少なからず驚いた。六十回も来ていて、しかもあれほどに国民に慕われるような何か――それこそ魔王討伐だとか、そういう難事業を成し遂げているらしいみのりが、この裕福そうな国で、この城に個室や衣類を与えられていないなんてちょっと信じ難い。
「やあやあ藤沢君、ごめんね、ほったらかして。お茶飲んだ? ここのお茶、美味しいよねえ」
みのりは学校で明日のテストのポイント教えて? とでも言うような口調でそう言った。いや出席番号順に並ぶと大体隣同士になるので、試験の時も大体隣同士だったんだ。みのりとの世間話はたいてい試験時だ。
みのりはさっさと椅子に座って、エレナちゃんの置いて行ったポットからこここここ、とお茶をつぎ、アトレンに差し出した。俺のも足してくれて、最後に自分のを。それを幸せそうに飲んで、みのりは言った。
「そろそろ帰れるみたい」
「……なんかしたのか?」
俺もとりあえず座り直す。アトレンも座って、黙って茶を飲んだ。誰も茶菓子には手をつけなかった。決してまずくはない……とは正直言い切れない。甘いのに、ほのかに残る後味が、苦いというかえぐい。香りのせいだろうか。
みのりは手提げから俺の大々大好物のひとつであるチョコチップクッキーの箱を取り出して、三枚ずつ配ってくれた。さすがにここの菓子の微妙さは良く分かっているらしい。
そして彼女は言った。
「んーん。なにも」
「……なにも?」
「うん、なにも」みのりはクッキーをかじって、また幸せそうな顔をした。「だからね、あたしは、ここに何か目的があって来てるわけじゃないの。アトレンが言うには、満月の時にあたしがはまっちゃう透き間ができるんだって。あたしはそこを通ってこっちに来ちゃってるだけ。透き間がふさがるときに、この世界にとっては異物であるあたしたちは、弾き出されて元の場所に戻る」
俺はクッキーをかじりながら、みのりをじっと見ていた。
何だろう、どこか違和感があるのだ。みのりは本当のことを話していない、気がする。
いや、嘘までついてるかどうかは分からないが――みのりは町中でのあの歓呼を、俺に説明しなかった。あの人たちは紛れも無くみのりを讃えていたのに、俺がそれを悟ったと分かったはずなのに、照れさえしなかったのだ。『あはは、魔王だなんて』と彼女は言い、そのまま話を変えた。魔王なんていないとは言わなかった。魔王を討伐したのだとも言わなかった。
彼女は、俺に詳しいことを話す気はさらさらないのだろう。今の言い方も、頭の中で何度かおさらいをした当たり障りのない説明を読み上げたような気がした。
「福田のお母さんってさ」
聞くと、みのりは動きを止めた。「……うん?」
「リオニアの王子様と結婚したんだっけか?」
みのりは苦笑した。
「やだ藤沢君、あれはちいちゃんが勝手に言ってたことだよ」
俺は唇をなめた。まただ、と思う。
――また、結婚したともしないとも言わないわけだ。
「でも福田さ、リオニアと日本のハーフ――ダブルって言ったほうが心証がいいんだっけか? まあその、お父さんがリオニア人なんだろ。てことは、お母さんも、トリップしちゃう体質だったわけ」
みのりは目を見開き、
さらに苦笑を深めた。
「藤沢君ってほんとに……」
「なんだよ」
「いえいえ、なんでもないです。……そう。これはただの体質なの。遺伝なのね。お母さんはあたしより運が……いいんだか悪いんだかわかんないけど。あたしは満月の瞬間にできる狭間に落っこちちゃう体質でしょ、で、お母さんは、年に二回、夏至の日と冬至の日に落っこちちゃう体質、だったの」
「年に……二回?」
「だからお母さんはあたしほどの回数は来てないの。それでも何度か来るうちに、リオニアのある男の人と恋に落ちてあたしができた。お母さんはあたしがお腹にいる間に日本に戻って、……出産で体質が変わったおかげか、夏至にも冬至にも落ちなくなった。ただそれだけのこと」
「ふうん」
「リオニアの人達はトリップしちゃう人間に親切なの。五百年近く前、ある男性がひとり、聖山に落っこちた。その時にはまだリオニアはなく、貧しい集落がいくつかあるだけだった。さてさて、その日本人男性、日本名は福田雪之丞と申しました」
「……物々しい名前っすね。ご先祖様っすか」
「そう」みのりは笑った。「なんか、貧乏な旗本家の三男坊だったみたいよ」
あーなんか、本で読んだことあるな。何だっけ。
「……あ、冷や飯?」
「そうそれ、冷や飯食いね。で、リオニアに落っこちて、紆余曲折の末、集落の人たちをまとめあげてリオニアという国を作ったと」
「建国の英雄っすか!」
「そうそう。それで、建国した人がそもそも日本人だから、リオニアの人達はトリップする人間に優しいの。理解もあるしね」
「……待て」俺はアトレンとみのりを見比べた。「リオニアの建国の英雄……ってことは、もしかして、帰らなかったのか? 雪之丞さんは」
「そうなんだって。だって冷や飯食いだったから。英雄と讃えられる国で生活した方が幸せだったんだよ」
あっさりと彼女は言い、そして、腰を浮かせた。
「そろそろ時間だよ。藤沢君、帰る時はどこにいても帰れるんだけど、万一あたしひとりで帰っちゃうと大変だから、アトレンにおまじないしてもらってね」
既に打ち合わせてあったらしく、アトレンが立ち上がる。すらりとした長身は、俺よりわずかに高い。ぐるりと机を回ってこちらへやって来る。美形だし銀髪だし目は緑だし、迫力あるなあ……。惜しいなあ、女だったらすげえいい眺めだったのに……。
「おまじないって」
後ずさりたくなりながら訊ねると、俺の隣にやって来ていたみのりが微笑んだ。
「アトレンは神聖術解明研究所の研究員だって言ったよね? 神聖術って言うのは、まあつまり、魔法みたいなもの。この世にあまねく満ち渡っている最高神ミアの神聖な力を行使する術、というわけで、もともとはモフオンやリオノスといった、神聖な獣が使うものなんだけど、アトレンはそれを解明して、人間も使えるようにする、という研究をしてる。既にいくつか使える。危険はないから大丈夫だよ。ちいちゃんも使って帰ったんだから」
――チエコとは違いますね。
「魔法かけられるなんて不安だろうけど、我慢してね。もし藤沢君置いてっちゃったりしたら大変だもん。次来るの、あたしにとっては一月後だけど、こっちでどれくらい過ぎるのかわからないんだよ。アトレンはあたしに会うの、今回半年振りだったんだって」
「おおう……」
言葉も分からない甘味もない世界にひとりで半年。考えるだけで気が滅入るな。ここは甘んじておまじないとやらを受けなければならないようだ。
みのりが俺に本当のことを話す気がないからといって、害をなすとも考えにくい。王子様はみのりの要請を無視して俺を保護せずに監視していた疑惑があるが、みのりの目の前で俺を害したりはしないだろう。……といいな。
何より俺はここでみのりしか頼る人間がいないのだ。みのりの世話になっている以上、みのりが勧めることを断ることはできない。
アトレンが俺の額の辺りに右手を伸ばして来る。と、みのりが俺の頭に向けて両手を差し出した。
「もふもふちゃん、こっちにおいでー」
(……おりたくない)
モフ美がいやいやをする。俺は訊ねた。
「おろさなきゃダメなのか?」
「さっきも言ったけど、アトレンが使う神聖術は、モフオンも使うんだよ。近くにいたら影響があるかもしれないでしょ」
しょうがないな、と、俺はモフ美を頭から降ろした。ふかふかもふもふの塊が、やだやだ、と身をよじる。でもみのりに抱っこされるとおとなしくなった。みのりの頭の上によじよじと上ると、前足でツインテールの片方をたくしあげてわしゃわしゃとご満悦だ。
「――」
アトレンが何か言った。みのりがうなずいて、何か言った。始めるぞ、お願いします、かな、と俺は思う。
と、アトレンが俺の目を左手で覆う。閉ざされた視界の向こうに、歌がこぼれ出た。
おおう、なんたる美声。顔だけじゃなくて声もいいのか。性格だけ悪いってどういう冗談だ。目の前を覆う奴の左手から何かが俺に伝わって来る。確かにモフオンの伝えてくる思念と似ている、と俺は思う。アトレンの意志が俺に流れ込む……
……意識があると封印に邪魔だから初めに寝ろ、とアトレンは言った。
封印って何だ。
そう考えると同時に、睡魔が訪れた。姿勢が崩れる。ずしりと頭が重くなる、眠たくて眠たくて、体を庇うこともできなかった。倒れ込んだ衝撃も確かに感じたのに、それもあっけなく薄れていく。モフ美の思念が聞こえる。
(ふじさわあ……)
フジサワはチエコとは違うようだが、とアトレンがみのりに言う。
みのりはしばらく答えなかった。
ややして、泣きそうな声が聞こえた。
うん、違う。
……違うから、余計に、
……怖いんだ。
最後に、俺は思った。
ふざけんな。