最後の訪問(13)
がん、といきなり頭を殴られたような衝撃が走った。俺はびくりとし、ずるっと足が滑った。椅子から落ちかけ、まずい、と思ったがどうしようもなかった。リオノスの『話』の後はいつも体がうまく動かない。俺は長椅子から転げ落ち、しかもそのままそこで動けなかった。
しかし、誰も俺の醜態に驚いたり笑ったりしなかった。
それどころじゃなかったらしい。
「王弟殿下。今はそのお話は――」
アトレンがやんわりと言いかけていて、それをかき消すような張りのある朗々とした声で、ダヴェンが反論した。
「今だからこそ。私は次期王位継承者としての地位を返上したい。自らの立場をこの場ではっきりと表明し、次代のリオニアの礎を確固たるものにしてからであれば、心置きなく審問の場で申し開きをすることができます――」
俺は座り込んだままみのりを見上げた。
みのりは青ざめていた。血の気の失せた顔で、ステージの上のダヴェンを見ていた。周囲は騒然としていた。と、議長が鋭い音を立てて槌を鳴らした。
「静粛に! 発言者は審問の内容をよく考えなさい」
「考えた上でのことです」
ダヴェンはステージの真ん中にいるらしい。と、ホールのそこここで扉が開く音が響いた。整然とした足音が鳴り渡り、
一際高く、ざわめきが湧き起こった。
観客席の頭上、ホールをぐるりと取り囲んでいる立ち見の通路の上に、大勢の兵士が現れた。見る見るうちに持ち場についた。ステージの上にも、扉の側にも、ダヴェンの親衛隊が現れて、これ見よがしに武器を掲げた。
弓矢だ。
つがえてこそいなかったが、ダヴェンが合図をすれば、王様の上にもアトレンの上にも、みのりにも陪審員たちの上にも、矢を降らせるだろうことは明白だった。
「王弟殿下! なにを……なにを考えておられますか!」
裁判長が叫び、ダヴェンは平然と笑った。
「ミノリ様、どうぞ前へ」
みのりがびくりとした。まだ体が動かなくて、俺はそれを止められなかった。みのりは立ち上がり、ゆっくりと前に出て行く。
ダヴェンの声が響いた。
「わたくしが本気だということを皆様におわかりいただきたい。いや、何も皆様に危害を加えようというわけではありません。わたくしはただ、自分の、そして国民の不安を払拭したいと考えているだけです」
少し体が動くようになってきた。遅えよ。リオノスは小さな声で言った。
『すまなかった。もう動くか?』
TPOってもんを考えろこの猫型四足獣め!
そう思ったが、俺は何も言わずよっこらせ、と体を起こした。椅子の上に上半身を持ち上げた時、ダヴェンが言うのが聞こえた。
「最近わたくしは不安に苛まれておりました。神の子が異国の友人を伴って来られるようになってから」
あ、もうちょっと倒れときゃ良かった。ホール中の視線が矢のように俺に降り注いでくる。でもいまさら隠れるわけにはいかないので、いたたまれない気持ちのままのそのそと椅子に座った。
みのりがステージにたどり着いた。ダヴェンが差し出す手に、捕まって、ステージに上がる。
ダヴェンはその手を握ったまま、いとおしむように微笑んだ。
「……初めはハナゾノチエコのように、エスラディアに与するのではないかという漠然とした不安でした。しかしこの不安はすぐに払拭されました。フジサワクンはエスラディアから神の子を守り、そればかりかエスラディアの反乱を押さえ込むのに多大な貢献をなさった。善良で人好きのする性質で、アトレン殿下の離宮のものたちはすぐにフジサワクンに好意を持ったと聞き及びます。今後もフジサワクンを客人として迎えられるのなら、我々リオニア国民にとってこの上ない誉れとなることでしょう。
――しかしそれと同時に、不安は募りました。先代の神の子のように、いつかミノリ様が訪れなくなるのではないかという不安です」
ざわめきはもう落ち着いていた。ホールを支配しているのは、今は同意の沈黙だった。
「フジサワクンの存在は、我々に異国を印象づける。ミノリ様とフジサワクンは我々には理解できない言葉で話をし、理解できない内容の情報を共有している。フジサワクンとミノリ様が一緒にいるのを見ていると、我々は思い知らされるのです、ミノリ様には我々の知らない異国の生活があるのだということを。――私は不安でたまらない。先代の神の子が姿を見せなくなってから、ミノリ様が現れるまでの六十年あまりは、先の見えない、ゆるやかな絶望の時代でした。またあの日々が訪れるのではないかと思うと、不安に押し潰されそうになる」
言ってダヴェンは、みのりに微笑みかけた。
「そこで気づいた。我々は今まで、神の子のご厚意に甘え過ぎていたのではないかと」
みのりは下を向いていた。ダヴェンの視線から身を守るように。
「だからこの場で、ご提案申し上げたい。国王陛下。先程も申し上げましたとおり、ミノリ様を養子に迎えていただけませんか」
さっき俺が違うもの見てる間に、そんなこと言ってたのか。
「ミノリ様は我らがリオニアの礎となった先人のひとり、レミア姫に生き写し。そして神の子としての業績も充分すぎるほどです。レミア姫に似ているということで王位継承権を与えられた王は幾人か存在し、皆賢王として名を残しています――」
脅迫だと、俺は思った。
レミアにみのりが似ている、王様もレミアに似ている。ここまでは一目瞭然だ。王様とみのりの間に血縁関係があることを、もしダヴェンが暴露したら、納得する人間も多いかもしれない。先代の神の子を異国に逃がしたという事実を明かされればどのみちみのりには王位継承権が生じてしまう。このままでは逃げ場がない。王様の『悪事』を隠して養子になるか、王様の『悪事』をばらされて嫡子になるか。
変だよなあ、と俺は思う。
でも他の大多数の人間は、この事態をおかしいと思ってないらしい。議長も陪審員も、黙って成り行きを見守っている。背後の聴衆からは期待をひしひし感じる。
なあ、あんたら。ほんとにわかってんのか。
目の前にいるのは、ただリオノスに愛されてるだけの、十六歳の女の子なのに。
「私はミノリ様に、次代の国王になっていただきたい」
朗々としたダヴェンの声が続く。
「執務の件では、私が最大限の協力をさせていただきます。もちろん、アトレン王子にも補佐をお願い致しましょう。そうすればリオニアは盤石。ミノリ様も今まで以上に、リオニアでの生活を楽しんでいただけるようになるでしょう。聖山に程近い、この離宮に王宮を移しても良い。私は今まで、アトレン王子かベルトラン伯爵に、ミノリ様のリオニアでの地位を確保していただくことしか考えなかった。それがミノリ様にとって一番善きことだと、頑迷にも思い込んでいた。しかしそれをミノリ様が厭うのは、また当然のことでありました。――ですが国王陛下のご養子という立場でなら、無理にリオニアの人間と婚姻する必要など」
みのりが顔を上げた。何かを振り切るように。
「ありがたいお申し出です……」
声が震えてた。
アトレンが立ち上がろうとする。その前に、俺はでしゃばることにした。この国でまともなのはあの王子様だけだし、あんな年とって疲れ果てたおじいさんが昔の『悪事』をばらされて断罪されるところなんて俺も見たくないし。
俺が立ち上がると、近くの兵が反応していっせいに矢をつがえた。やることが露骨。笑えてくる。
「……藤沢君っ、」
「いくつかお聞きしたいんですが、いいですか」
声を張り上げると、背後からぶつぶつと不満そうなつぶやきが上がる。ダヴェンの提案は観衆の心に沿うものだった。俺が何か言うことで覆されるのが、嫌なんだろう。あともう少しだったのにって。
あともう少しで、神の子が完全にリオニアのものになるって保証が得られたのにって。
ふざけんな。
「これはフジサワクン」ダヴェンが酷薄に笑った。「今はリオニアの王位継承についての話をしておるところでして。ミノリ様のご友人であるとは言え、」
「いえ今は友人じゃなくて家族として発言させていただいてます」
言うとみのりが後ずさった。「何言ってんの!?」
「福田みのりさんは十六歳です。リオニアではどうか知りませんが、日本では未成年です。法律上ではまだ子供だという意味です。それに養子とかっていう話になるなら、日本の家族の同意が必要だと思いますけど」
「……確かにそれはそうですな。しかしここはリオニア。日本のご家族の同意を得てからとなりますと、リオニアでは半年や一年後ということになりかねません。国王陛下のご病気もあり、」
俺はゆっくり歩いて通路に出た。
「随分乱暴な話ですねー。日本のご家族が心配するのも当然だと思います。何でそんなに急ぐんですか」
「はっきり申し上げなければなりませんか? 国王陛下の在位の間にミノリ様の地位を確保しておきたい一心です。それも、ほかならぬリオニアの王の養子になられるのですよ。富も名誉も思いのままです。ご家族には」ダヴェンはニヤリと笑った。「リオニアの人間が信頼できると分かる方もいらっしゃるはずですが」
鈴香さんのことだよな。名前出してもいいんだぞって、また脅迫してるわけだよな。
みのりもそう思ったのだろう。焦ったように声をあげる。
「藤沢君っ」
「少なくともおばあさんはわかってないですよ」
そう言うと、みのりまで黙った。俺はダヴェンから目をそらさなかった。
「リオニアの方々には目障りでしたでしょうが、俺が最近一緒にくるようになったのは、福田みのりさんの保護者のひとり、実のおばあさんから頼まれたからです。リオニアでみのりさんが幸せになれそうかどうか、彼女を本気で守ってくれる人がいるかどうか、おばあさんは心底案じてます。今の状態で、いきなりリオニアの次の王様になることになりましたなんて言ったら、おばあさんはきっと泣きますね」
「リオニアの国王という地位を愚弄なさいますか」
「なぜ?」俺は不思議そうな顔をしてやった。「愚弄してるわけじゃないですよ。ただあなたのやり口が気に入らない。こんな大勢の目の前で、武器を持った兵士に取り囲ませて、王位を継げって迫る。これは紛れも無い脅迫ですよね。そうしてまで、福田みのりさんをリオニアに縛り付けておこうとしてるんですよね」
「縛り付けておこう――と? お言葉が過ぎますな」
「こっちにきて一度殺されかけてますから。今も弓で狙われてるわけですしね。言葉を選んでなんかいられません。――本当にリオニアの国王という地位を善意から差し出そうとしてるなら、脅迫する必要なんかないですよね。あんたたちはみんなおかしい。神の子がいなきゃまともに生きてもいけないのか。もうとっくに救われてんだろ。あいつのお陰で、エスラディアという脅威もなくなって、今まさにこの世の栄華を極めてるわけだろ。今後もこの幸せが続くように、本人の意向も聞かずにこの国に縛り付けておこうって、どんだけ強欲なんだよ」
「なにを……」
「彼女には、おばあさんも、他のご家族も、友人たちもいるんです。彼女はリオニアの神の子である前に、福田みのりというひとりの人間なんです。どっちで生きるのか、どうやって生きていくのか、俺にはわからないけど、あっちの人間はみんな彼女の幸せを望んでるんだ。本人が望んで神の子続けたいってんなら悪いとは言わないけど、それ以外の選択肢を奪うようなやり方を見過ごすわけにはいかないんだよ」
「我々も彼女を愛している。愛する人間にそばにいてほしいと願うことがそんなに悪いことですか」
「そうは言ってない。ただ、ちゃんと選ばせてやれって言ってるだけだよ」
「選んでいただこうではないですか。今、この場で」
「今ここで他の選択肢を選んだらどうなるんだよ。こういうのは、ちゃんと選ばせてるとは言わねえよ。……おばあさんは言ってたよ。幸せになってくれるなら、こっちに取られても仕方ないって。彼女がちゃんと選んで、ちゃんと幸せになれるって確信してこっちを選ぶなら、悲しいけど淋しいけどしょうがないって……俺はそれが、尊重するってことだと思う。大事にするってことだと思うよ。あんたらはどうなんだよ。日本で幸せになりたいですこっちにもうこないですって、みのりが決めたら」
キッカも、サイシンも、目をそらしていた。
「……ちゃんと諦めんの? 違うんだろ。だから、こうして脅迫してるわけだもんな。あんたが大事なのはみのりじゃなくて、神の子なんだろ。エスラディアのエノラスが花園千絵子を使い捨てたのとどこが違うんだ。おんなじじゃないか」
「トリップは今後も続いていく」
あ、スルーされた。
「私はただ、ミノリ様がこちらの人間と結婚しなくても、ミノリ様の地位が安泰であるように、最善の方法を採ろうと……」
「じゃあ今までの神の子の記録を見せてもらえますか」
そう言うと、ダヴェンが一瞬無表情になった。
知ってる、と俺は思った。こいつ、ちゃんと知ってる。
リオニアの他の人間はどうなんだろう。このままじゃみのりが死ぬってわかってて、それでもリオニアに止まり続けてほしいって、思うのかな。
「今までの神の子は、こっちでどういうふうに過ごしたのか。どんな人とどんなふうに生活して、何年くらいに亡くなったのか。公式の記録とか、ありますよね? リオニアの歴史に重要な貢献してきた神の子なんですから、生きてる間はずっと、晩餐会とかいろんな催しとかに出席したんですよね。そういう記録を見せてください。神の子がこちらで本当に丁重に、大切に遇されてたんだって証拠があれば、ご家族も安心すると思います。王位を継ぐかどうかなんて重大な決定を下すのはその後、ってのが筋じゃないですか」
「……何しろ資料が膨大ですからな」
「ひとりぶんだけでもいいですよ」
「わかりました、明日までには」
「アトレン王子殿下」俺はにっこり笑ってやった。「ここはもともと殿下の居城ですから、殿下に資料を探していただいた方が早そうですね。ひとりぶんだけでもいいので、今すぐ探していただくわけには」
「時間がかかるのですよ」
アトレンを制するようにダヴェンが声を上げ、俺は笑った。
「なぜです? 神の子はとても人気の有るテーマなんじゃないかと想像しますけど。研究したがる人も多いんじゃないですか?」
「それが神の子については国王の許可がなければ研究できないことになっておりまして」
「……その生涯に、知られたらまずい秘密でもあるから?」




