最後の訪問(10)
王子様の銀色の旋毛を見ながら、ぼんやり考えた。
さっきアトレンは、雪之丞の在位は二年七ヶ月、と言っていた。
さっき――〈俺〉は……
アトレンは顔を上げ、視線は下に落とし、淡々と言った。
「いかに神の子といえど、いかに不要なものを脱ぎ捨てて来ているといえど、……存在の密度すら違う世界に居続けることは、やはり積もり積もれば負担になるのではないか」
「……」
「歴代の神の子は皆この国で伴侶を得、幸せに暮らしたと伝えられる。その生涯は数々の善き出来事で彩られ、ウメ殿の伝記もコウコ殿の伝記も、一冊の物語として出版されている。チサコ殿に至っては当時の貴公子との波瀾万丈の恋物語、酒場で歌い継がれるほどの人気振りにござる。それらがみな、誠に真実だとするならば、彼女らはこちらに居続けることを望み、愛する人間と添い遂げることを願い、そのとおりにこちらに残った。めでたしめでたし、でござる。……されど。それにしてはちと解せぬ点がいくつかある。まず、現存する肖像がすべて二十歳以前のものしかない」
「……」
「二十歳以降、公務に出席した確たる記録もない。ただ噂や伝聞の類いがちらほらと聞かれるのみでござる。それを疑問に思った父上が詳しく調べたところ、神の子は皆二十歳以前に亡くなっているらしい、ということがわかった。ユキノジョーに至っては、こちらに現れて三年半で病死している」
「……で、も、」
――トリップは呪いですわ。
福田祖母の、かすれた声を思い出す。
「でも、……そうだ、鈴香さんは」
「さよう。父上がスズカ殿に出会ったのは十五の時でござった。スズカ殿は十四でござったか。父上はまだ王位を継ぐ前で……とても立場が弱かった。妾腹でござったゆえ」
「しょう……ああ、母親が正妃じゃなかったってことか」
「しかり。側室でさえなかった。侍女でござった。裕福な家の出ではござったが……父上が生まれた時には、王位継承権もなく、王宮に住むことも許されなかった。王の子と認知こそされたものの、母親ともども王宮を下がり、手切れ金を兼ねた多額の退職金を受け、母親の実家で平穏な幸福な子供時代を過ごした。学者になろうと勉学に励む毎日だったそうでござる。ところが、長じるにつれ問題が起こった。顔が」アトレンは薄く笑った。「先程のレミア姫にそっくりだった」
「……へー」
「先程も申したとおり、過去の偉人たちの顔はすべて現代も見ることができるゆえ、そのような問題が起こる。レミア姫に似ているということは、リオニアの礎を作った小さな集落――リオニアの祖の中の祖の血を色濃く受け継いでいると見なされる。母親の身分が低かろうと何だろうと問題ないほどに」
「そりゃ……王位継ぐはずだった人は、面白くなかっただろーな」
――アトレンは、お父さんにそっくり。
みのりがさっき、言ってたっけ。
つーことは、ダヴェンがアトレンを疎むのは、そういう理由もあんのかな。
「まさしく。父上は預かり知らぬところで、その顔がレミア姫に似ていると、知られ始めた時が受難の日々の始まりでござった。まず生家が放火に遭い、母はその炎で亡くなった。学校にも刺客がもぐりこみ、わけもわからず逃げた。しかし逃げても逃げても命を狙われ、最後には重傷を負い、人通りとてない路地裏で、失血死もしくは餓死寸前の憂き目に遭った」
うへぇ。
「そこへ現れたのがスズカ殿でござった。父上は語った。まさしく神の使いに見えたと」
「……そっか」
「スズカ殿のお陰で父上は生きた。生き延び、なぜ自分が殺されかけるほどに憎まれているのかを知り、自らの敵を知り生き延びる方策を知った。父上が生きるには、王位を継ぐしかなかった。神の子の後押しがあったゆえ、しかるべきところへ名乗り出れば王位継承権をもらうのは難しくなかったようでござるな。最後に残った政敵を退け、ついに王の座についた。それが二十七の時。スズカ殿は十九。年齢差は少しずつ開いていったでござるが、父上はスズカ殿を愛していた。スズカ殿もまたしかり。当時の者に話を聞くと、ふたりは恋人同士であり戦友でありまた親友であったそうでござる。見る者すべてが目を細め、その幸せを望まずにはいられないほど、互いに愛し合っていたとか。
晴れて王位を継ぎ、父はスズカ殿に求婚した。……スズカ殿は悩んでいたそうでござる。その時には既に、自らのとりっぷ体質のせいで、父母がリコンしていたそうでござるな。ミノリの祖母に当たるスズカ殿の母は、スズカ殿を愛し、父親の心ない言葉から守り、見捨てず、とりっぷのたびに祈るように菓子を作り、その帰りを待ち続けていた。スズカ殿がこちらに住み王妃になるということは、その優しき母を捨てるということでござる。
その矢先でござったな。父上はスズカ殿の不調に気付いた」
「不調――」
「初めは全く気づかなかった。恐らくはスズカ殿本人でさえも。彼女は成長するにつれ、とにかくよく眠ったそうでござる。馬車の中で、城の中庭で、静かな日だまりで、日向ぼっこなどしながら眠っていた。疲れているのだと思っていたが、それどころではなかったでござるよ。一度輿から落ちかけ、あわてて抱きとめて事なきを得たが、それでも目を覚まさないという事態に至った」
「……」
――車に乗るとすぐ寝る奴ってたまにいるけど、疲れてんのかな。
――あー、ごめん、また寝ちゃった。
――藤沢君、晩ごはんの時とか不便だよね。
ぞっとした。なんか思い当たる節がありすぎんだけど。
アトレンの淡々とした声が続く。
「父上は王としての政務をこなしながら、歴代の神の子について調べた。もともと学者志望であったし、王の身ならば見られぬ文献などないに等しい。そこで気づいたでござるよ。神の子の伴侶となった人間は、すべて当時の権力者子飼いの貴族であり、婚姻の後は神の子を自らの領地に連れて行き、公の場に出さなくなる。婚姻以降、神の子についてのきちんとした裏付けのできる記録は一切なくなる。……つまり神の子は皆例外なく若死にしている。神の子は皆あちらに帰るのをやめたのではなく」
「……」
「単に力つき、帰れなくなっただけなのではないかと、父上は疑うに至った」
――ユキを失うのは厭だ。
――私のために、使い魔を殺して。
使い魔を殺せば、雪之丞さんの神聖力が増える。抵抗力が増す、ということなのだろうか。
「父上は手を尽くし、なんとか打開策を見つけようとした。しかしもうあまり時間がないように思えた。スズカ殿は痛みもなく苦しみもなく、ただゆるゆると静かに眠る時間を増やしていった。最後の方は聖山から降りず、モフオンに囲まれて眠るだけのとりっぷでござった。……父上は」
アトレンはため息をついた。長く。
「もはや王であった。リオニアのことを最優先で考えねばならぬ立場でござった。本当なら、リオニアの王としてふるまうなら、スズカ殿を、口の堅き近しき信用できる貴族に妻合わせ、遠い領地に連れて行かせ、そこで幸せに暮らしているという体裁を整えるべきでござった。リオニアには神の子が必要だとわかっていた。神の子が訪れなくなるということは、リオニアが神に見捨てられたのだと、諸外国からそう見なされる危険があった。……が、父上にはどうしてもできなかったでござるよ。親しき貴族にスズカ殿を任せることなど絶対に無理でござった。さりとてスズカ殿を王妃に据え、数カ月後に病死と発表する、その決断もできなかった。自らを地獄からすくい上げてくれたスズカ殿を、むざむざ見殺しにすることなど。なによりスズカ殿が、母を見捨てこちらに住む決断を下すことができないでいた。
そこで父は最後の賭けに出た。スズカ殿のとりっぷは体質でござる。その体質を変えてしまえば、あるいはとりっぷを起こさぬようになるやもしれぬと。……父は賭けに勝ち、スズカ殿を永遠に失ったでござる」
もうあいづちすら打てなかった。
アトレンはひとつ息をつき、続けた。
「異国で、優しき母の元、宿した自分の子を育て幸せに暮らしてほしいと望んで――信じて、四十年近くが過ぎた。遅くに娶った妻との間にそれがしをもうけ、スズカ殿のことは、遠い昔のほろ苦き思い出と片付けるよう努めていた。
そこへミノリが現れた。青天の霹靂でござった。父はスズカ殿がまだ若く美しく、それでいて独身のまま、女性の身で母と娘を支えるべく日夜働きづめだという事実を知った。そして――ミノリを公式に、自らの子と認めることさえできなかった。ミノリの存在は、国王たる自分が、責務を放棄して、リオニアのために必要な神の子を、異国へ逃がした証拠だからでござる」
「あ……」
「ミノリに会ったその夜、父は泣いた。そして、それがしに命じたでござるよ。ミノリが二十歳になる前に、とりっぷを終わらせる方策を探るようにと」
ああ、そうか、と思う。
だからモフオンの死骸を取っておいたのか。
「……それがしもまたミノリによって命を救われた身でござれば。ミノリを犠牲にして自分だけ王位に座り安穏と過ごすわけには断じて参らぬ。王位継承権を放棄し、ニホンゴを学び、神聖術解明研究所を作り、とりっぷのからくりを探ってきた。……ミノリの神聖力はそれがしより強い。だが半分テルミアの血が流れているからでござろうか、とりっぷの頻度もスズカ殿よりはるかに多い。テルミアで過ごした期間は既に他の神の子の平均に達している。チエコに聞いた。ミノリはニホンでは昼下がりに居眠りすることなどほとんど無いと。……今宵は夕餉もとらずに寝た。昼寝をする暇が無かったからでござろうな」
「……」
「まあまだ一日眠り通しというほどでもござらぬゆえ、差し迫っているわけではない。しかし全く楽観はできぬ。
異国に好きな異性がいるということは、ミノリから聞いていた。チエコからも聞いたでござるよ。フジサワクンと申す、ミノリの隣の席の少年のことは、それがしはずっと以前から知っていた。その相手になら体質を変えられても、ミノリはさほど――」
待て。
無意識に身を引いていたが、アトレンはそれを追うように身を乗り出した。
「……フジサワクン。スズカ殿のように、ミノリの体質を変えてはもらえぬだろうか」
「ま……待て待て待て待てえ!? 頼みたき仕儀ってそれ!?」
「さよう。何か問題が? 決まった相手がいるというのは、間違いだったと聞いたが」
「もうそこまで知ってんのかよ! どんだけ筒抜けなんだよ!」
「チエコが言うにはフジサワクンは裕福な家の出で、ミノリと子を養うくらい造作もないとか」
「そーゆー問題じゃねえー!」
「ではどの問題でござるか」
「どこもかしこも問題だろうが! あのなあっ、こーゆーことはだなっ、まずオトモダチから、じゃねえっ、うああっ!?」
「落ち着くでござる」
「……あのな」はあああ、とため息をひとつ。「ここここーこーせーでそーゆーのって、まだ早いんじゃないすか」
「チエコはチュウガクセイの段階で経験済みと言っていたが」
「嘘ォ!?」
アトレンは軽く息をついた。
「フジサワクンは初心でありんすなあ」
「なんでいきなり花魁だよ! つーか! ほんとにそれしか方法がねーのか!」
「モフオンの死骸を用い、ここ二年で研究を続けていたが、とりっぷを起こす神聖力の波動すら解明できておらぬ。フジサワクン、ミノリは善き人間でござるよ。身内の欲目を差し引いても」
そんなことはわかってる。アトレンはさらに身を乗り出す。
「気立ても悪くはない。まあ少々無鉄砲ではあるが。慌てやすく、猪突猛進的でもあるが……どれだけ理を尽くして説得しても聞き耳を持たぬこともある。まれにではあるが嘘もつく」
「……この状況でけなすのか……」
「けなしているわけではござらぬ。誠心誠意嘘をつかぬようにしているまででござる。頭は悪くはない。客観的に見てそれほど悪い容姿でもござるまい。何が不満でござるか」
「あのさ」
「その命を救うためだとしても、手を差し伸べられないほど嫌いな相手でござるか」
「……んなわけねーだろ」
なんかもう、泣きたくなった。
「……でも俺さ。ほんとにわかんねーんだよ」
「何が」
「誰かを好きとか、あああ愛、とか、……そういう気持ちが」
「別に無理やり愛せとは言っておらぬ」
「身も蓋もねーよ!」
「今はフジサワクンの感情などどうでもいい。愛はなくとも好意さえあれば充分。ミノリを生かすのに協力するか否かという話でござる」
「そういう意味での協力ならする。でもあんたの要求は飲めない」
言うとアトレンの視線が険しくなった。
「どういう意味でござる」
「そのまんまだよ。……だってそれじゃ、根本的な解決にはなんねーんだろ」
アトレンが一瞬黙り込んだ。俺は座り直し、ため息をついた。
「みのりは助かっても、体質は受け継がれる。あんたの提案では、時間稼ぎしかできない」
「時間を稼いで何が悪い。こちらでは数十年単位の時間でござる。その間にそれがしが絶対に」
「だからそーゆー問題じゃねーんだよ。……あんたの親父がみのりを見て泣いたのは、鈴香さんの現状を哀れんだからじゃねーよ。母子家庭だから哀れむなんて、王様なら絶対しねーだろ。自分も似たようなもんだったんじゃないか。幸せな子供時代だったってさっき言っただろ」
「……」
「そもそもあいつ見りゃすっげ大事に幸せに育てられてるって、すぐわかるだろーよ」
「……じゃあなぜでござる」
「ほんとにわかんねえの? みのりが鈴香さんの身代わりになったんだ、それは自分のせいなんだ、自分がこの子に二十歳までに死ぬ体質を与えたんだって、思ったからだよ」
「……それは。だが父上のせいではない。父上は知らなかった……」
「でも俺はもう知ってる。だからそんなことはできないっつってんの」
アトレンは黙り込んだ。悔しそうに。
俺は少しほっとした。
「……他の方法を捜そう。まだそれほど差し迫ってはないってさっき言ったじゃんか」
「モフオンの死骸を使っても、二年かかっても無理でござった。ミノリがあとどれくらい耐えられるのかそれがしにはわからぬ」
アトレンは顔を上げ、俺を睨んだ。
「フジサワクン。モフオンを引き渡してはもらえぬか」
「……俺の使い魔は、今いないんだよ」
俺は今回初めて、モフ美の不在に感謝した。
ここにいたら、今すぐここで腐らせると言われかねなかった。




