最後の訪問(9)
*
リオがリオノスになってからほんの二年足らずで、光の民を取り巻く状況は劇的に変わった。
それはたぶん、〈俺〉が賭けに勝ったことによって皆の心が明るくなったせいだろう。前向きになり、先行きに希望がもてるようになり、自暴自棄になるものが減る。それだけで一族の雰囲気はがらりと変わる。
しかし、人々の心根の変化だけでは説明できないことも多々あった。晴れの日が増えたのだ。
すっきりと晴れ渡った青空と、燦々と降り注ぐ日の光、充分に上がる気温によって、去年も今年も、誰も経験したことがないほどの豊作になった。湧き水も増えた。狩りの収獲もふえ――充分な栄養が行き渡るようになったからか、死産が減った。病にかかるものも減り、冬を越せない人間は今年は出なかった。闇の奴らに捕まる人間も減った。それはエスラディアに疫病が蔓延しているからだと、先程知った。
時代が変わろうとしている。皆それを肌で感じている。
「ユキ」
穏やかな声がして、目を開けた。レミアが笑顔で覗き込んでいた。
「演説は、今日はいいのか」
「ああ」
演説なんてものじゃない。ただの記録だ。
何度そう言っても、レミアは何度でも演説と言う。神聖術で動く、言葉を保存する不思議なからくりをつかっての、後世に対する演説だと。
あくびをしてから、ゆっくりと体を起こす。不調は特にない。
ただ眠いだけだった。
「あれだけ保存すれば、もう充分だろう」
「ニホンゴは難しいな。何度聞いても、ちっとも意味が分からない。こちらの言葉で吹き込めばいいのに」
「いいんだ。……いつか日本語を解する人間が現れたら、聞かせてくれれば、それで」
ふうん、と言って、レミアは〈俺〉の体にそっと腕を回した。その腕がかすかに震えているような気がして。
〈俺〉はその細い背に腕を回す。華奢な体が冷たい。
「……考えたんだ」
レミアはかすれた声で言った。
「考えたんだ。……使い魔を殺せば――」
「言うな」
彼女の顔を〈俺〉の肩に押し付けて言葉を封じる。彼女はしばらくじたばたして、ぷはっ、と顔を上げた。
「ユキも考えたはずだろう? どうしてしないんだ? 私が、前に、……あんなこと言ったから……」
「違う。あの時止めてもらえて本当に良かったんだ。使い魔を殺さずにいたから、今この時を心の底から喜んでいられる」
「ユキ……」
「……だから今後も使うつもりはない。それも自分のためになど」
「私のためなら!?」
レミアは体を振りほどき、〈俺〉の両肩をつかんで叫んだ。涙目で、震えて、必死で――
もう充分だと思う。
これだけでもう、充分だ。
「じゃあ私のために……私のために使い魔を殺してくれ! ユキを失うのは厭だ……!」
「失ったりするものか」
もう一度レミアを抱き締める。レミアはまたじたばたして、泣き声を上げた。
「やだ、やだっ、やだやだ、やだあ……っ」
「あのまま福田の座敷牢にいたら、遠からず死ぬ命だったんだ。それも誰からも惜しまれず、どころか喜ばれるような死が待っていた。でも、ここに来て……あなたに会った。あなたの愛する民を、救えた。こんな」
「……」
「こんな幸せがあるだろうか」
「……ユキはいつもそうだ。私のことばかり……私はユキを呼んで……働かせて……苦しめて……恩ばかり受けてっ、なのにっ」
「使い魔の幸せは、主の役に立つことだって、リオが言ってたな」
「ユキは使い魔じゃないだろうっ」
「似たようなものだ。……ひとつ、頼みが」
「何をのんきに寝こけてるでござるか」
べしっ、と後頭部に刺激を受けて、夢が途切れた。
俺は思わず呻いた。
「あー」
「あー、じゃないでござろう。まだ宵の口ではござらぬか」
「あー」目を開けて、そこにアトレンがいるのを見た。「……何すんだよ。頼みごとまだ言ってねーよ。言っとかなきゃ」
そして、あれ、と思う。何頼むつもりだったんだっけ。
頭がうまく切り替わらなかった。目を閉じても、あの光景はもう見えない。俺は目を開け、俺が俺であり、ここがアトレンから借りてる天幕であることを思い出す。
「……あー。そっか」
「なにを寝ぼけてるでござるか」
しかし寝ぼけているわけではないのだった。先程と同様体が動かず、俺はうつ伏せに横たわったまま、はあああ、とため息をついた。
何だ今の。
あのアグレッシブなお姫様は、少し成長していた。髪も伸びてた。二十歳くらいじゃないかな。すっげ美人になってた。前回から何十年も経ったわけではなさそうだ。
なのになんで――
「……なにごとでござる」
アトレンがいぶかしそうな顔をした。
「これは……神聖術でござるか? 波長は感じぬが」
「わかんね。リオノスが俺に話があるとかっつって」
少し動けるようになってきて、俺はよっこらしょ、と仰向けになった。リオノスが、とつぶやいたアトレンは、先程と同じ衣服のままだった。こっちの方も、そう長い時間が経ったわけでもなさそうだ。
「……どんな話でござった」
「んー? なんか良くわかんねえ……」
アトレンが長椅子に座った。姿勢は砕けていたが、目付きが鋭い。
全部話しやがれこのやろう、と視線で言われて、俺は目をそらした。
「……雪之丞さんが」
「ユキノジョー……」
「……闇の獣が数代続いてて光の民が滅亡寸前で……雪之丞さんが闇の獣を斬って、次のリオノスが生まれて……みたいな」
「……」
「……あのさあ……」
視線の先に、天幕のひだひだが見えている。燭台の明かりがゆらゆらと揺れる。アトレンが持って来たものだろう。
「初代国王って、雪之丞さんなんだよな」
「しかり」
「在位って、何年くらいだったの」
「二年七カ月」
即答だった。
俺は天幕のひだひだからアトレンに視線を移した。
「王位に就いたのって、光のリオノスが生まれたときか?」
「しかり」
アトレンは探るような目で俺を見ている。俺はその視線から目をそらし、またひだひだを見た。
またしても、嫌な予感がする。
「フジサワクン」
声をかけられ、俺は何とか、言葉を探して捻り出した。
「レミアってお姫様が……あんたそっくりだった」
アトレンはふんと言った。
「よく言われるでござる」
「……そーなの? 肖像画でもあんの」
「ミノリもチエコも驚いたでござるが……神聖術を利用した道具は半永久的に機能するゆえ、ユキノジョーの演説も、その外見も残っているでござるよ。五百年前のものでも色あせたりもせぬ」
なんかそれって風情がないような気がする。
「レミア姫と言えば清楚可憐な乙女の代名詞でござる。そのような存在に似ていると言われてもちっとも嬉しくなどござらぬ」
アトレンはどことなく拗ねたような口調で言い、俺は吹き出した。
「清楚可憐な乙女! 言い訳などいらぬわっつって神官蹴倒してげしげし踏んでたけど」
「……なに?」
「ほんとあんたそっくり」
アトレンは少し考えた。
「それがし神官を足蹴になどせぬ」
「口ではがんがん蹴ってそうじゃん」
「失敬な。神官はまともに蹴ったりなどすると一番厄介な相手でござる。話を通したければ神官の面目を保たせたまま下手に出つつごり押しするのが一番。人前で蹴倒すなど下策中の下策」
「前言撤回」俺は苦笑した。「似てねーです全然。で? 何か用」
「夕餉の誘いに来たでござるよ。フジサワクンさえ良ければここに運ばせたいのだが。ちと話がしたい」
「話……」
話したいことは俺もあった。それもみのりのいないところで。
いーよ、と頷くと、アトレンは天幕の外に顔を出して何か言い付けた。外で晩飯ごと待機されていたらしく、いきなり大勢の人がわらわら入って来て、ローテーブルの上にあっと言う間に晩餐の支度が整えられた。晩ごはん、ではない。まさに晩餐だった。旅先で不便をかけるとかさっき言われたけど、こんなもてなしされて不便だなんて言ったら罰が当たるよな……。野宿って言うから寝袋にたき火料理だと思ってたよ俺……。
準備ができると他の人達はあっと言う間に撤収した。鮮やかなもんだ。つーか料理人だけじゃなく召使さんまで全員連れて野宿してんのか。王子様はさすがやることが違うよ。
天幕の入り口が厳重に閉じられると、さて、と言いつつアトレンは優雅に席に着いた。
「机が低くてご不便をおかけするが」
不便ってそこ?
「……お構いなく」
感覚の違いを言っても仕方がないので、俺はそう言うに止どめた。ソファに座って手を合わせ、食事を始める。甘い物作ったから胃がふさがってるような気がしてたけど、そう言えばあんまり食べてはいなかったので、ひと口食べるととたんに腹が減った。
アトレンはそれほど食べなかった。さっきの甘味のせいだろうか、それとも、晩飯後にまた甘いものを食べるつもりだからだろうか。
食事はめちゃめちゃ旨かった。ここが野外だということを忘れそうなほどの、フルコースというべきものだった。ここって甘い物以外の食事は旨いんだよなー。いいことだ。
今日のは魚の香草焼きだった。ハーブと塩が効いてて白飯が欲しくなる味だった。これ何で味つけてるんだろう。魚の味なのか、ほんのり甘くて、やり過ぎにならない程度に、しかし充分にしょっぱくて、口にいれるととろんと溶ける。スープは、たぶん、貝……だと思う。ねじれた小さな竜巻みたいな形のくにゃくにゃしたものがふんだんに入っている。スープ自体はあっさりしているんだけど、その何かを噛むとじゅわっとばかりに旨みが溢れる。うーん、本当に、こっちの料理人は甘味においても『異人』の真似をやめるべきだ。えぐい砂糖を使うという致命的な縛りがなくなれば、すっげ旨い菓子が作れるはずなのに。
俺が必死で食べる間、アトレンは黙っていた。サラダもパン? も堪能し終えて俺が我に返ると、それぞれの目の前にあらかじめ用意されていた小さな器に、でかいポットから茶を注いでいた。あのいい匂いがふわりと漂う。あーなるほど、あの器は茶を入れるわけだね。自分の器に入れ終えたポットを真ん中に戻し、取っ手を俺の方に向けたので、俺は喜び勇んで自分の器にあの香り高い茶を注いだ。口の中に残っていたさまざまな余韻とともに飲み干して、あー幸せだなー、と思う。この時だけは、いろんなややこしいことも忘れてしまう。
「ごちそーさま」
言うとアトレンは、軽く息をついた。うなずく。
そして、言った。
「あのような目に遭った後にまでややこしい話を聞かせて申し訳ない。が、明日は審問に向かう。こたびのトリップは数日は続きそうではあるが、審問で何が起こるかわからぬゆえ、今のうちに話しておきたき儀がござる」
「別に構わねーですよ。そっか、ダヴェンから王位継承権を取り上げるとかいう話になると、いろいろややこしいことが起こりそうだもんな」
エレナちゃんは内乱まで心配していた。戦いになんかならなきゃいいんだけど。
と、アトレンはぽつりと言った。
「……叔父から継承権を取り上げたりはせぬ」
「え」
「降りかかる火の粉を払いたいと思っているだけで、何も叔父を王座から蹴落とすつもりまではござらぬ」
「え」俺は座り直した。「え、そーなの? なんでだよ。つーか、ダヴェンさんてモフオンの死骸をよこせっつったりあんたの城で好き勝手したりしてんじゃん。王座についたら今まで以上に……」
みのりとアトレンの立場は、王の存命の上に危ういバランスを保っている、と、さっき考えた。それはそれほど的外れでもないはずだ。
アトレンは薄く笑った。
「叔父が王になったとて、それがしの立場は変えさせはせぬ。明日の審問はそれを釘刺すため最大限に利用させてもらう。しかし」俺を見て、居住まいを正した。「そう、そのことを頼まねばならぬ。フジサワクン、貴公はそれがしが叔父に命を狙われた。一度ならず二度までも。異人の発言力があれば、貴公は明日の審問で叔父から王位継承権を取り上げ、エスラディアに送ることさえできる。しかしそれを、……やめていただけないだろうか」
別にぜがひでもダヴェンを蹴落としたいとまで思っていたわけじゃなかった。
でも訝しかった。アトレンはなぜそんな弱い立場に自らを置こうとするのだろう。自分で王位を継いじゃえば、みんなが喜ぶはずだし、一番安全で手っ取り早いだろうに。
「……なんで」
「まず第一に、二度目があったことを最後までミノリに伏せておきたい。特にエレナの関与を」
「あー……」
「エレナはミノリの友人でござる。少なくともミノリはそう考えているはず。それが、ミノリの希望を無視してこちらに無理やりつなぎ止めるために、よりによってフジサワクンを危険にさらしたなど……できれば知らせたくない。特に今は」
なんかなあ、と思う。
こいつもみのりに、そんな感情を抱いている。
これは利己的な感情だと分かっている。黙っていたって事実は変わらないのだし、俺なら隠されたりせずすべてを知りたいと思う。自分にされたら嫌なことを、俺もアトレンもみのりにしようとしている、ということになる。
でも。自己中でもわがままでも利己的でもいいから、みのりに悲しい顔をさせたくない、と思ってしまう。どうしても。
だから俺は呻いた。
「……あー」
「第二に。叔父には円満に王位を継いでもらわねばならぬ。リオニアという国のために」
俺はため息をついた。こっちの理由が大義名分になれば、みのりに黙っていられる、と期待している自分に嫌気がさす。
「……なんでだよ」
「叔父はああ見えて辣腕でござる。人生経験があり、国民にも……まあ、慕われてはいる。自らの財産や権力に固執するきらいはあるが、その分、諸外国と渡り合う外交手腕は頼もしい。王位を継げばきちんとこの国を導いていくはずでござる」
「……そっかあ……? つーか俺はダヴェンが失脚したらあんたが継げばいいんじゃねえのって思うんだけど」
アトレンはじっと俺を見、俺は目をそらして茶を飲んだ。
そして続けた。
「……みのりのトリップってこのまま続いてくんだろ。ダヴェンが失脚すれば、ベルトランが風呂場にまで乗り込んでくるなんてことも起こらなくなるんだろ。こっちに来てももう安全だろーよ。町ん中ですっげ大勢の人があんたに歓呼を浴びせてたじゃんか。性格悪いし頭はいいし、ダヴェンよかずっといい王様になれそうじゃん」
「それがしは」静かな声だった。「王位を継ぐ資格がない」
「審問で巧くやれば、継承権だって――」
「そういう意味ではござらぬ。確かに明日の審問でそう仕向ければ、継承権を取り戻すことも容易でござろう。だが問題は継承権の有無ではない。
……叔父の方が、それがしよりずっと、この国のことを考えているという点でござる」
「この国の……?」
「それがしにはやらねばならぬことがある。王位を継ぎリオニアを守っていくことよりも優先せねばならぬことが。……フジサワクン」
アトレンは深々と頭を下げた。
「頼みたき仕儀がござる。フジサワクンにしか頼めぬ。それがしはミノリを救いたい。どうかご助力願いたい」
救う、と。
アトレンははっきり、そう言った。
 




