最後の訪問(7)
*
天幕の外でみのりの声がして、俺はがばっと顔を上げた。
頭が少しすっきりしていた。本当に寝ていたらしい。あんな話を聞いた後に何で眠れんの俺、ホント馬鹿なんじゃないの。と自分を罵倒したくなるが、まあ頭がすっきりしたのはありがたかった。
「藤沢君、今ちょっと大丈夫?」
そうみのりは言っていた。えー大丈夫ですよ、刃物持った三人に追い回されたり落とし穴におっこったり顔見知りの女の子に薬ぷしゅってされたり刺されかけたりしてないですから。あれは全部なかったことなのだ。確認して、両手で顔をひとつ叩く。
そっか足が痛かったり腹の辺りがだるかったりしてんのは、落とし穴のせいか。そっか。
「おーお帰り」我ながら完璧に平静な声だった。「悪い、先にちょっと休ませてもらってた」
天幕を開けると、人間に戻ったみのりがにこにこして立っていた。アトレンが、みのりに伏せておきたい、と言った理由が本当に良く分かる。
エレナちゃんがエノラスにモフオンの死骸を渡して逃がし、俺を殺そうとしたって知ったら、こんな笑顔は見られなくなってしまうだろう。いつまで伏せておけるんだろう。いつかは知らせなきゃいけないんだろうけど、できるなら少しでも引き伸ばしたい、と、切実に思ってしまう。
そうだ。
俺はみのりが嫌いじゃない。むしろはっきりと、好きな方なのだ。
だから困る。
「ううん、気にしないで。心配しちゃったけど、アトレンや近侍のみんなが拘束されたりって事態までじゃなくってほっとしたよ。あっちのアトレンの天幕で、今から事情を話してくれるって」
「おー」
「遅くなっちゃってごめんね? リオが、藤沢君に意志疎通の神聖術をかけてみたら、双方向は無理だったって言うから……不便だったでしょ」
「いやいや、あっちが何言ってんのかわかるってだけでもありがたかったっすよ」
あの神聖術はあんまり長くはもたないって言ってたけど、まだ効いてるんだろうか。効いてるといいなあ。
アトレンの天幕に着くと、可愛い感じの女性がお茶の用意をしてくれていた。みのりはそれがエレナちゃんじゃないことに、特に疑問を持たなかったようだ。
女性が用意してくれている盆の上に、菓子は見当たらない。
「ミノリ、フジサワクン。――、――」
(ミノリ、フジサワクン。お待たせして申し訳なかった)
アトレンが言いながら奥から出て来た。
そしてローテーブルのところへやってきて、俺たちに席を勧めた。座ると、アトレンはローテーブルの下に置いてあった、膨らんだスポーツバッグを持ち上げてテーブルの上に載せた。俺の持ってきたものだ。
「あ」
忘れてた。預かってくれてたんだ。
俺は呑気にもそう思ったが、アトレンはとんでもないことを言った。
「――? ミノリ、フジサワクン――、――。――」
(約束を果たしてもらおうか? ミノリ、フジサワクンがおいしい菓子を作ってくれるそうだ。目の前で)
「え……」
「……ぅああああああおまええええええっ!? なに無頓着にばらしてんだよ!?」
思わず悲鳴じみた声を上げると、アトレンはニヤリと笑った。
「――」
(口止めされた覚えはない)
え、そーだったか? そーだったかもしんないけど、あーそういやそーだったけどでも、
「武士の情けって言葉を知らねーのかー!」
「え、なに、なに?」
みのりがきょとんとしている。俺が言うことを考えつく前に、アトレンはしれっと事情を説明した。
「エスラディア――。――、――チエコ。――――、フジサワクン――」
(エスラディアでのことだ。俺はやはりチエコを許せなかった。魔法陣を書き換えてチエコを殺し、フジサワクンひとりを帰すつもりだった)
「ルッテ!? ――――!」
(ええっ!? 約束したじゃない!)
「――――、――――――――」
(あなたがそう思い込んでいたのはわかっていたが、俺が明言したのはフジサワクンを帰すということだけだ)
「――!? ケスラー!」
(うそっ!? ひどい!)
「フジサワクン――――チエコ。チエコ――――、――ミノリ」
(フジサワクンはそれを知り、チエコもちゃんと帰せと言った。チエコが死んだらミノリが悲しむからと)
俺は震え上がった。
「おおおおおおーまーえーはーあー!」
何これ何なのこれ、何の羞恥プレイなの!? 俺はアトレンの胸倉つかんでぶん回したい衝動に駆られた。アトレンはふふん、と笑った。
「リオニア――――。――――――リオニア。チエコ――――――――。――――――」
(リオニアにはない甘味を使って俺を脅迫した意趣返しだ。チエコを無事に返したら俺の目の前で甘味を作ると約束したはずだ。今ここで作ってもらいたい)
みのりは目を丸くしている。ああ、もう、天幕張ってる杭全部抜いて回って今ここに天井落としてとんずらしたい。アトレンはさっさとスポーツバッグを開けようとし、俺はあわててバッグを奪い取った。
「……藤沢君」
みのりはこちらを見た。
「ちいちゃんを、……助けるように、頼んでくれたの?」
「いっいやそっ」
「ありが」
俺は叫んだ。
「言わなくていいからー!」
我ながら悲鳴じみていた。みのりが訊ねる。
「なんで?」
「違うから! そういうんじゃないから!」
「でも、」
「……確かに、どーせ魔法陣書き換えるんなら、あいつも無事に帰してくれって頼みはしたけど。でもその後すぐ後悔したから俺」
だから礼を言われるのは困る。みのりは息を詰めた。
「後悔」
「……あんなこと頼むんじゃなかったって思ったから。あの塔の上ではもう、こんな奴死ねばいいのにって思ってたから」
みのりはまじまじと俺を見た。
「それにアトレンは、俺が甘味で脅迫したくらいで考え変えるような王子様じゃねーだろ。帰すつもりになったのは、エノラスがあんなことしたからだよ。俺とは関係ねーよ」
「……でも藤沢君が頼んでくれなかったら、アトレンが魔法陣をちゃんと書き換えてくれることはなかったんだよね」
「人の話聞いてる!?」
「ありがと」みのりは微笑んだ。「さっき謝られちゃったし。パフェ食べに行く約束までしちゃった。死んじゃってたら、あの言葉も聞けなかった。へへ。嬉しかったな」
「……この際だから言うけどみのりさん、そういうのどうかと思うよ俺……」
俺は長々とため息をついた。
「実際人でなしだったじゃんあいつ……何かあったらまた豹変するかもしんないだろ……」
「んー。でも、さっきはさ、なんか、戻ったみたいだったよ?」
「そーかあ? 美佳ちゃんの前じゃむげにできないだろって計算してつれてきたんじゃねえのかって思い至っちゃったんだけど俺」
「そんなことないよ」みのりはにっこり笑った。「前に何度も言われてたんだよね。トリップのことずっと黙ってるというのは、みかりんに失礼だって。だから……」
「――」
(とにかく)
アトレンが割り込んだ。
「――――。――。――」
(約束は約束だ。甘味を出せ。今すぐ)
「それを蒸し返すか今……」
「そっか」みのりが思い出してしまった。「じゃああのバナナケーキもクッキーも、ほんとは藤沢君が」
「――ばななけえき――。――――、――」
(そう、バナナケーキだったな。あの菓子も本当は彼が作ったのだとか。異国の文化は不思議だな。あのような菓子を作ることが、男子というだけで恥になるとは)
「恥じゃないよ!」みのりは叫び、俺に向き直った。「なんで嘘つくの!? すごいじゃん藤沢君! ええっ、すごい……! さっきのクッキーもさっくさくで美味しくって、あたしあんな美味しいクッキーも、食べたの初めてだったよ!」
「そ……」俺は目を背けた。「それはどうも……」
思い出しませんようにと心の底から祈っていた。さっきのクッキーがファンシーな箱に入ってピンクのナプキンに包まれていたことをどうか思い出しませんようにー!
あーくそ下手な小細工なんかするんじゃなかった。ジップロックだとばれるかと思ったんだよ……。
みのりは思い出さなかった。もしくは、思い出しても口には出さなかった。アトレンが苛立ったようにこつこつ机を叩いている。俺は観念して(これ以上渋ると何を暴露されるかわからなかった)スポーツバッグのジッパーを開けた。
ボウルと泡立て器と茶こし、絞り出し袋などを取り出してから、大きな保冷バッグを開ける。保冷剤しこたま突っ込んだお陰で、中身は幸いまだひんやりしていた。生クリームは念のためさらに氷いれたジップロックに入れといたので十分冷たい。苺とブルーベリーをいれたタッパーを恐る恐る開けたが、透き間に詰めてきたキッチンペーパーのお陰でそれほど崩れてはいなかった。焼いたシューと作ってきたカスタードクリーム、ベイクドチーズケーキも全部無事だった。ひとまずほっとする。
必要なもの全部を机の上に並べると、二対のよく似た顔がおんなじ表情浮かべてたので思わず笑いそうになる。
とりあえずベイクドチーズを切り分けてふたりに出すと、アトレンが抗議した。
「――――」
(俺の報酬のはずだが)
「リオニアの紳士が独り占めなんかするわけねーじゃん? どうせ分けるんだから手間を省いてやったんだよ」
みのりが通訳し(さっき近侍やエレナちゃんの前では武士語で話してたくせに、なぜかみのりには隠し通すつもりらしい)、アトレンは、ふん、と鼻を鳴らした。
「ミノリ。――――」
(ミノリ。礼を言うのは俺にだぞ)
子供か。
みのりは吹き出しかけ、アトレンに睨まれて顔を取り繕った。
「ペリエ、アトレン。藤沢君、食べていい!?」
「あーどーぞ。……これってさあ、今全部食っとかないと、俺が帰る時に消えちまうんだっけ?」
「そうなんだよね。こんな報酬があるってわかってたんなら、アトレンきっと昼食抜きだよ」
だろうな。そのせいでさっきから苛ついてんのか。
「いただきまーっす」
ふたりが食べたその表情をつい盗み見そうになるので、目をもぎ離して生クリームの泡立てにかかる。みのりが「んー! んー!! んー!!!」と叫んでいる。アトレンはと見ると、
「……」
考える人のポーズになっていた。大丈夫だろうか。
飲み込んで身を震わせたみのりが呻くように言った。
「ふ、藤沢君これ……これ……どうやって作るのこれ……」
「あー」手を止めた。ハンドミキサーが恋しかった。「材料全部ミキサーかけて型入れて焼くだけ」
「嘘おっ!?」
「レモン汁はポッカレモン。クリームチーズはちょっといいやつだけど」
「へええ……このさ……チーズのどっしり感がたまらないです……」
「そりゃどーも」
だいぶふっ切れてきた。でも学校で言わないようにまたクギを刺しておかねば。アトレンがいないところで。
生クリームの泡立てを再開する。八分だてになったところでスポンジに塗って果物を飾り、残りをまた泡立てる。ピンと角が立つまで泡立て、絞り出し袋に詰める。まずはシュークリームからだ。二つに切り分けたシューの下側にカスタードクリームを入れ、そのうえに生クリームを絞り出して上側をかぶせ、粉砂糖を茶こしにいれてから、おらよ、とアトレンの前にシュークリームを差し出した。
「これ振るったらできあがりだから。自分でやってみれば」
みのりの通訳を待ってから、アトレンが恐る恐る茶こしを振るう。さらさらとシュークリームの上に白い粉雪のような砂糖が降り積もる。こんもりと粉砂糖をかぶったシュークリームはまるでかまくらみたいだ。どんだけかけるんだよ。
「藤沢君、将来、パティシエになるべきだよ……」
みのりがアトレンから茶こしを受け取りながら言い、俺は笑った。
「んー、兄姉ん中にもパティシエはいないから、それもいっかなと思うけど、自分でレシピの開発とかまではしたことないんだよな。ただ自宅にいたときに、ネットでうまそーなの見つけて片っ端から作ってみてただけだから」
「片っ端から……!」
アトレンを見ると、シュークリームはもはや跡形もなく、皿に残った粉砂糖をスプーンですくっていた。指じゃないところに育ちの良さを感じる。
「――」
(食べないのか)
アトレンがみのりに聞き、みのりは急いでシューの上側を外し、生クリームとカスタードクリームをすくって食べた。んー、とまた呻く。
「シューって家で焼いてもちゃんとふくらむものなんだね……おばーちゃん、昔チャレンジして失敗してからシュークリームだけは作ってくれないんだ……」
「あーあるある。ふくらまねーと哀しいんだよな。まあでもぺしゃんこでも一応食えるけどね」
「そうなんだ?」
「まあ食えなくはないって感じだけど。あ、シューアイスのことはアトレンには内緒にしといてやれよ。アイスまではどんなに頑張っても持ってこられねーから」
これくらいの意趣返しはしてもいいはずだ。みのりはまじめにうなずいた。
「そうだよね。藤沢君のシューアイスも美味しいんだろうね……出来立てなら、皮はぱりっとしてるんだろうな……」
「一番美味かったのはバニラアイスに無糖のヨーグルト混ぜて柔らかくしたのを挟んだやつだな。十個一気したもん俺」
「何それえ!? いや十個って! うらやましい!」
……ちょっとやり過ぎたか。お人よしと悪鬼と二種類しかいないと言われても仕方ないかもしれない。切り分けるのはやめて、ケーキはホールのままアトレンの前に出してやった。
「好きな大きさに切っていーよ」
ごめんよ王子様。クッキーの残りもつけてやるから。
それでも、さすがのアトレンもホールケーキ丸ごとは無理だった。チーズケーキの残りとクッキーも合わせて、アトレンは大事に天幕の奥にしまい込んだ。晩飯も甘味で済ませるんだろうか。まあ、これほど喜んでもらえるのなら、今度またなんか作って持って来てやろうかな、という気になった。ブラウニーとかどうだろうか。




