最後の訪問(4)
リオノスはそれからすぐにやってきた。相変わらず、威風堂々とした獣だった。
彫りの深い誇り高い顔はとてもりりしく、モフ美が将来こうなるなんて想像もできないほどの気品と威厳を湛えていた。牙ののぞく口も猛々しく、太い鼻面がびしっと通っている。全身の筋肉が充実しているのが毛皮の上からも見て取れる。足も大きくどっしりとしていかにも重そうだ。
でもその体躯を包むのはあくまでまふまふとした蜂蜜色の上質な毛皮なのだ。前回あの腹に包んでもらった俺としては、ぜひ一度あのたてがみに顔をうずめさせてもらいたい。しっぽについた房ももふもふしたい。脚の付け根のふかふかも捨て難い。
すでに思念で説明も依頼も承諾も済んでいたらしく、リオノスが地面に降り立つやいなや、みのりの姿がもやに包まれた。蜂蜜色のもやが幾重にも巻き付いてみのりがその中に消える。何の音もしなかった。もやは次第に小さくなり、出てきたとき同様ぱっと消えた。そこから現れたのは、一頭のモフオンだ。
「もふう、もふもふう、もふう」
みのりだったモフオンが言う。うわあ、なに言ってるかわからねえ。リオノスがしっぽをのばしてあの房でモフオンをぽんと叩く。反動で少し横に流れたモフオンが抗議の声を上げる。
「もふう!」
(鳥にしてって言ったのに!)
あ、言葉がわかるようになった。リオノスってもうなんでもありだな。
リオノスはなにも言わない。みのりはもふうもふうと話を続ける。
(うん、まあ、それはそうだけど)
なにが。
(え、そうなの? ありがとう!)
だからなにが。
(じゃあ、それでお願いします。いつもありがとう、リオ。藤沢君をよろしくね)
何か話がまとまったみたいだ。
みのりモフオンは俺に視線を移してもふもふ言った。
(じゃあ藤沢君、さっきの荷物のところで待っていてね。リオが一緒にいてくれるって。遅くなるかもしれないから、おなかが空いたら食べててね。バーナーとか鍋とか、使って構わないから)
「おー、そりゃどーも。気をつけろよ」
(うん、行ってきます!)
そう言ったみのりに、リオノスが顔を近づけた。ふう、と息を吹きかけると、みのりの体が輝いた。そのまま麓の町に向かってすごい勢いで飛んでいく。リオノスが飛ばしたのだろう。エスラディアの城内でみた、アトレンを送り込んだときの流れ星にそっくりだ。
そして静寂が落ちる。
周囲の静けさが、急にずしりと重みをもってのしかかってきたような気がする。俺はリオノスを振り返った。リオノスは、その複雑な色をした瞳で俺をじっと見ていた。
そして俺は、前回わき腹に負ったひどい怪我を治してもらったことを思い出した。
「あの。……先日は、ありがとう、ございました」
頭を下げると、リオノスは首を傾げる。
「大けがしたとき――魔方陣が壊れたとき、助けてもらって、ありがとうございました」
言い直すとリオノスは、俺をじっと見た。
そして、言った。
『ふじさわ』
あ、しゃべった。
その外見にふさわしく、低く、重々しく、それでいてビロードでくるまれたような穏やかな声だった。
『無事でなによりだった。……話がしたい』
……話?
って、なんだろう。
そう思った瞬間――
ふうっ、と、目の前が真っ暗になった。
あー、なんか、……やな予感。
*
初めに見えたのは、あの儀式だった。
血で描かれた魔法陣。四方に置かれた、腐ったモフオンの死骸。〈俺〉を見下ろしている、五つ目を掲げるずるずるした衣装の男。
――白だ。
ぼんやりと、思った。違和感。
――ローブが、白い。
魔法陣の真ん中に倒れていた。感じているのは、困惑と、怒りと、恨みと、驚きと……
じわりと胸に浮かぶ、歓喜。
仰向けに寝ていた。視界には、青空がいっぱいに広がっていた。どうやら、天井のない建物の中らしい。視界の隅に石造りの四角い壁が見える。ここでもとりこの身には変わるまいと、自分に言い聞かせた。何か不可思議な現象のお陰で自由の身になれただなんて、そんなうまい話があるわけがない。ついに死んだのかも知れない、とも思った。あの天狗のような怪しい人間は得体が知れない。噂の伴天連とかいう存在かも知れない。もしかして兄が天狗に〈俺〉を売ったのかも知れない。今から腹を割かれて何かの儀式に使われるのかも知れない――。
でも、四角く切り取られた空が、あまりに青くて。
あの座敷牢からここへつれてきてくれた相手が、天狗だろうと物の怪だろうとあやかしだろうと、本当のところはちっとも構わなかった。このまま腹を割かれてもいいと思った。また青空を見ることができるなんて、思わなかったから。
ここはどこだ、と〈俺〉は言った。白いローブの男がかがみ込む。ローブをはだけた顔に見覚えはない。瞳が蒼い。初老の男だ。男は、口を開いて何かを言った。促音と摩擦音の多い弾むような言葉だと〈俺〉は思う。意味がぜんぜんわからない。
白ローブの男がまた何か言う。でも通じない。〈俺〉は頭をもたげるのをやめて、力を抜いた。とても疲れていた。確か怪我もしていた。四肢はやせ細り、自力で立てる気がしなかった。死にたいと思っていた。誰からも必要とされない身が、悲しくて。一日一食だけ、投げるように与えられる食事が悔しくて。それを食べずにいられない自分が、情けなくて。
一日に二度、厠に行くことを許されていたが、それも温情などではなく、座敷を汚されることを厭うてのことだとよくわかっていた。消えてしまいたいと思っていた。でも、兄も嫂も、それを望んでいるのを知っていたから、思いどおりにしてだけはやるものかと、その意地だけが〈俺〉の生きるよすがになっていて、その浅ましさがさらに情けなかった。
視界がブレた。ノイズが走って、場面が変わる。
――なんだよこれ……
見る見るうちに、周囲が闇に染まる。
目の前に、銀髪を顎のあたりで切りそろえた少女がいた。彼女は黒い衣装を着て、今、輿に乗り込もうとしている。輿の周りにいるのは、黒い鎧を着た屈強な兵士たちだった。瞳が暗紅色にぎらぎらと輝いている。野卑な笑みを浮かべて、少女をねめまわしている。じわじわと腹の底で怒りがくすぶっていた。あんな目が、舐めるような醜悪な視線が、彼女の上をはい回るだけで腹が煮える。
輿のすぐそばに黒いローブの男がいて、そいつは下卑な声で彼女を急かした。
早うせぬか、光に汚れたはしためが。
崇高な闇にその身を捧げる栄誉に浴するのだ、なにを恐れることがあろう。
彼女の周りにいるのは、黒の一団と比べると遙かにみすぼらしい様子の者たちだった。皆すすり泣いている。少女は彼らを見回して、可憐な笑みを浮かべた。
〈みな、元気で〉
〈……おひい様……っ〉
乳母が泣き崩れる。彼女が輿に乗ったら終わりだと〈俺〉は思う。逡巡、悔恨、焦燥。頭のどこかで、声が聞こえる。
こたびの『獣』も闇に染まり、光の民はもはや滅びようとしております。
おひい様がその身を闇に差し出しても、もはや数年とは保ちますまい……
彼女が〈俺〉を見た。藍色の瞳に、胸が締め付けられた。
〈俺〉は彼女を愛していた。今になってそれがはっきりとわかった。彼女の役に立てるのなら、彼女の望みを叶えられるのなら、彼女のものになれるのなら、もう何もいらないと思っていた。
〈俺〉の使い魔たちが、〈俺〉の決断を待っている。意に添うようにしろと、いつでも手伝うからと、その優しい思念が語りかけ続けている。そうだ。使い魔はいつも主のことを考えている。主の望むとおりに働くことが嬉しいのだと、語られるまでもなく判っていた。
〈俺〉もそうだった。
〈俺〉もレミアの使い魔のような存在になりたかったのだ。今の今まで気づかなかった。こんな単純なことなのに。
そのすべてを光の民に捧げるよう定められた神の娘。
〈俺〉は彼女の、使い魔になりたかったのだ。
〈俺〉は足を踏み出した。
闇の使者を斬ったら闇は総攻撃をかけるだろう。光の民は滅亡する。彼女がその身を投げ出して守ろうとしている、百七十二の命。彼女は彼らの将来を〈俺〉に託していこうとしている。……ならば、と思った。彼女を犠牲にして、あと数年やそこら生きながらえるのと、彼女もろとも近々皆殺しにされるのと、光の民にとってどちらが幸せなのだろうかと。
〈俺〉にとってはどちらが幸せなのかなど、考えてみるまでもなかった。
――レミア、
また場面が変わる。〈俺〉の目の前にモフオンがいる。
三頭のモフオンはいつの間にか成長していた。一番大きなリオはもはや米俵ほどにも育ち、翼も立派になっていた。ほかの二頭もすでに子供とは言えないほどだ。リオはいつもどおりふわふわと浮かんで、〈俺〉の声を待っていた。
(大丈夫だよ)
優しい思念がそう言った。
(ゆきのじょうが大好きだから。役に立てるなら嬉しいよ)
『お覚悟を』
聞き覚えのある声が背後で促した。〈俺〉を一番はじめに〈呼んだ〉、白いローブの男だった。
『おひい様を闇から奪い返し、光の民を現在の窮状に貶めた。それは紛れもなくあなた様の責。おひい様がなんとおっしゃろうとその事実は変わりませぬ』
『闇の獣を光に転じさせるにはモフオンの死骸が必要です』
『ふたつでよろしいのです。使い魔を失えばその力がユキノジョー様のものになる。そのぶん、また新たなモフオンを今まで以上の数使い魔にすることができるようになります。一石二鳥、いやさそれ以上と言うものではございませぬか』
『ご決断を』
『ご決断を』
『ご決断を!』
(いいんだよ、ゆきのじょう)
リオの優しい思念がその言葉に重なる。
(大丈夫だよ。心配しないで、大丈夫だよ)
ひとりまたひとりと守るべき民が弱って死んでいく。レミアを奪いにきた闇の使者を斬ってから、覚悟していたことだとは言え状況は悪くなるばかりだ。食べ物もろくに手に入らない。寒さから民を守ることさえ難しい。なのに、今までレミア以外の誰も〈俺〉を責めなかった。
モフオンを一頭でも腐らせたら絶交だとレミアに言い渡されていたが、これ以上、目の前で、彼女の愛する民をむざむざ失うことはできなかった。
〈俺〉の決意が固まりかけていることを見て取って、神官がだめ押しとばかりに囁いてくる。
『……おひい様は身を切られるような気持ちでおられるはず。ひとり弱って死ぬたびに、ご自分を責めておられま』
『勝手を言うなー!』
いきなり甲高い声が割り込んだ。派手な打撃音と神官の悲鳴が後ろでわき起こり、
『ユキノジョー!』
振り返った〈俺〉の目の前で、レミアが目をらんらんと光らせて仁王立ちになっていた。足下に倒れた神官を踏みつけて、まるで怒れる仏のような様子だった。
『貴ッ様一度ならず二度までも私の願いに背くと言うか! いい度胸だそこへ直れ!』
『……まだ背いてないです』
『やかましいわ! 神官どもがより集まってこそこそしておると思うたら案の定っ』
細い裸足が神官の腹をだんと踏む。ぐぎゃっ、と潰れた蛙のような声がしたが、彼女はそちらを一顧だにせず〈俺〉を睨んだままだ。
『ユキのモフオンは今までにたびたび我らを助けてくれた。この上さらにその身を腐らせて利用しようなど――自らの使い魔をあんなに愛でていたではないか! 見えぬ我が身が口惜しいほど慈しんでおったではないか! それをそのように扱おうとは、見損なったぞ!』
『まだ扱ってないです』
彼女は華麗に無視した。神官たちを振り返り、
『今後ユキに同じことを強要するものが出たら、神の子レミアはもはやこの世にないものと思え! よいか!』
そんな脅迫があるか、と〈俺〉は思う。
そんなこと言われたら、もう絶対モフオンを腐らせたりなんかできないじゃないか。
『し――しかしおひい様っ! これ以上もはやどうすれば――』
『泣き言はいらぬ! 考えろ!』
『闇の獣は生まれたばかりで、代替わりにはあと百年はございます。もうこれ以上は……』
『だから泣き言を言うな! いい年をしてみっともない!』
『闇の獣を斬りましょう』
〈俺〉は言った。言ううちに心が決まる。
神官が、レミアが、その場にいた全員が息を飲んだ。モフオンを腐らせて利用したらレミアが死ぬと言うのなら、もうとれる手段はこれしかない。光の民がまだ生きていられるうちに、闇の獣を斬って、リオノスの代替わりを強制的に起こす。これしかないじゃないか。
『な――神殺しになりますぞ!』
『何度も何度も獣を闇に染めて光の民をいたずらに苦しめる、そのような神なら殺しても良心など痛みません』
『し、しかしどうやって』
『神剣を使えば何とかなるんじゃないですか』
『何とか!? そんないい加減な――』
『闇の獣が死ねば次のリオノスが選ばれる。今までに見たところ、モフオンの中で一番育ってるのは俺のリオだから、次のリオノスに変じる可能性も高い。リオなら光の民に愛着を持っていますから、光の獣になってくれるんじゃないかと』
『リオはユキの使い魔だ』
そう言ったのは、レミアだった。
『使い魔になっているモフオンがリオノスに変じた例は一度もない。何が起こるかわからない。ユキになにか負担が生じるかもしれない』
『生じないかもしれないでしょ。とにかく今俺がとれる手段はもうこれしかない。リオが本当にリオノスに変じるかどうかもわからないし、変じても今度も闇かもしれない。そもそもリオノスがどこにいるのかもわからない。闇の聖地、聖山に、俺が潜り込めるかどうかもわからない。聖山で待ち伏せしていてもいつまでも現れないかもしれない。運良く見つけられても、神剣が効かないかもしれない。すべて巧くいけば、まさに奇跡だと思う。とても分の悪い賭けです。
それでもこのまま座して滅びを待つよりは、賭けられるなら賭けたい』
『そんなうまくいくかどうかわからないことに一族の命運を賭けるわけには――』
『誰も一族の命運を賭けろとは言ってません。賭けるのは俺のすべて』そう言いつつ、立ち上がった。『うまくいかなかったら、一族が滅びる前に、魔法陣のモフオンの死骸を使うといい』
『ユキ!』
とたんにレミアが目をつり上げる。〈俺〉は笑った。
『その代わり、俺が賭けに勝ったら一族の一番大切なものをいただきます』
『一番大切な……もの?』
『あなたを』
そう言って、〈俺〉はひざまずいた。
『生まれたときに選ばれて、存在のすべてを光の民に捧げると定められた神の子、レミア姫。俺が一族を救ったら、一族からあなたをいただきたい』