最後の訪問(2)
*
目が覚めるとまた青空が見えた。リオニアで晴れていない日を、そういえば見たことがない。よっぽど天気のいい国なのか、トリップが晴天でないと作用しないのか、幸運を呼び寄せるというみのりが晴れ女なのか、どれだろう。
――闇の民ってね、可哀想なんだよ……
千絵子の言葉がよみがえる。千絵子はここに、どれくらい来たのだろう。ここで、どんな経験をしたのだろう。アトレンは千絵子を悪鬼のような女だと言った。俺も実は未だに、そう思うんだけど、でも。千絵子がそうなるまでに、ここでいったい何があったのか、俺はまだよく知らない。
――赤毛のアンが、彼を逃がしてくれたんだって。
――みのりを頼むよ、藤沢君。
俺はよっこらせ、と体を起こした。
季節はこちらでも移ったらしく、少し肌寒かった。前回からどれくらい時間が経ったのだろう。俺は周囲を見回し、すぐそばにみのりが倒れているのを発見してホッとした。
まつげが長いなあ、と思う。
肌の色も白くて、本当に人形みたいだ。
そして俺は顔をしかめた。決定的に違う瞳の色が隠れているからだろうか、にぎやかな笑い声も、変化に富んだ表情も、今はないからだろうか。
みのりの寝顔を見て、アトレンを思い出した。……似てる。
いやこれは、たぶん、きっと。俺がリオニア人の顔立ちを見慣れてないからだろうと、思うんだけど。いや、でも。エレナちゃんを見ても、ダルスさんを見ても、ほかの侍女さんや召使いさんを見ても、そんなこと一度も思わなかったのに。
――みのりの父親って、こっちにいるんだよな……
またそう思った。アトレンのお父さんて、王様だよな。当然。ダヴェンは『王弟』なのだから、あいつの兄がアトレンの父親ということになる。あれ? でも、みのりのお母さんはうちのタラシ兄より年下だって言ってたよな。ダヴェンはどう見ても六十代半ばだ。六十代半ばと三十代半ばの恋愛ってありなのか。……ありだろうけど、十代後半と四十代後半と考えるとあり得ないような……いやあり得るんだろうけどな。うーん。
などと考えていると、みのりが目を開けた。人形のようだった顔立ちが急に生気を取り戻す。造花が魔法をかけられて本物に生まれ変わった瞬間を見るようで、その変化があんまり劇的で目を奪われる。
「……藤沢君……っ」
「……おー」
つい間延びした返答になった。見とれてたことに気づかれると困る、と思ったが、そんな余裕はないようだった。みのりははね起き、顔を真っ赤にして叫んだ。
「な、なに見てんのー!?」
「あー? 悪い。何となく」
「何となく!? 何となくで人の寝顔見てたらだめでしょ!? こう言うときは後ろ向いててくれるべきでしょ!?」
「あー悪い悪い」
「誠意のかけらも見あたらないよー!」
別にいいじゃん減るもんじゃないし、とふてくされたような気分になるのは、たぶん、見とれていたという負い目があるからだろう。俺は姉ちゃんズと渡り合ってきた長年の経験から、むくれられたときの対処法を考える。
よし、話を変えよう。
そう決めた瞬間、みのりが言った。
「……それでさっきの話だけど」
みのりの方から変えてきたので一瞬虚を突かれた。
「は? さっきの?」
「かっ、家族会議で、ととトリップのこと、話した……って?」
あー、さっきのね。
何がそんなに不思議なのか、俺には正直よくわからなかった。
「話したよ。見聞を広めてこいって言われた。母親には、こっちで福田さんのご厄介になってるんだからお行儀よくしなさいとか、王子様のご厚意でお城に泊めてもらってるんなら菓子折り持って行きなさいとか、メイドさんたちにあんまりわがまま言わないようにとかいろいろ注意された」
「そ……」
「あ、でもトリップのタイミングがいつなのかってことは言わなかった。言ったらぜってー見に来るから。兄姉揃って」
よしよし、と思う。さっきの件からどんどん話が逸れている。
「俺末っ子でね、みんな何でか、俺のこと構いたがるんだよ。自分のやってること俺にもやらせてくれようとするから、いろんな経験できるのはいーんだけど、ひとまわり年の離れた人間に竹刀もって追い回されたりするのは困るんだよな。一歩間違えりゃ虐待だよ実際」
「竹刀……あ、藤沢君が剣道できるのって」
「そー、別に道場通ってるわけじゃなくて、単に暴れん坊兄貴に『成敗!』とかっつって百人切りされてただけ。今じゃ道場主になってんだけど、あの暴れん坊に子供を預ける親御さんには……あーまあ道場じゃちゃんと指導してるみたいだけど」
「ちょっと待って……」みのりはこめかみに手を当てた。「三人の子持ちでバツ2で女性の敵で道場主で暴れん坊……なの……?」
「待て待て」つい笑ってしまった。「別人だからそれ。暴れん坊の方は二十七」
「う、うわああ」
「タラシの上もいる。コンビニチェーンの商品開発やってる兄貴が四十歳」
「四十歳……!」
「パイロットやってる兄貴もいる。香水つくるのが仕事の姉もいるし。料理人もいるし、ガテンやってる兄もいるしフリークライミングのインストラクターもいるし宇宙飛行士もいるし、消防士も自衛官も警察官もシステムエンジニアもアニメーターもいるし、株で生計立ててる姉もいるし、会ったことない兄貴もいるよ、俺が生まれる前にCIAの任務で――」
「ええええー!」
「んなわけねーだろばーっか」
「……でもちょっと待って! どこからが嘘なの!? お菓子作り得意なお姉さんもいるんだよね!? 何人兄弟なの!?」
「さー? 数えるたびに人数違うんだよね」
「嘘ぉ!?」
あー面白えこいつ。しっかりさっきの不快感も忘れてくれたようでちょうど良かった。教室でいつものようにバカ話しているような錯覚にさえかられた。見渡すまでもなく、肌寒いくらいの清涼な森の中なんだけど。
そして。
モフ美が来ないんだ、けど。
バカな話でもして紛らわせていないと、すぐその事実が忍び寄ってくる。二回目の時、モフ美は俺が目を覚ますと同時くらいに駆けつけてきた。三回目の時だって、結構な距離があったはずなのに、比較的早い段階で俺のところにきてくれた。――なのに。
今回はモフ美が来ない。俺はもちろんみのりも起きてだいぶ経つのに、そしてここは、聖山である、はず、なのに。
何やってるんだろう。
大丈夫だろうか。
前回、モフ美と別れたのはエスラディアだった。あのまま、聖山に帰ってきてないんだろうか。迷子になってたりしないだろうか。誰かに――
「……藤沢君?」
あ、感づかれた。俺は身じろぎをし、みのりが、俺をのぞき込んだ。
「どうしたの。何か……」
「いや、何でも」
――自分の使い魔腐らせて、何が悪いの……
千絵子の言葉を思い出して、ぞくりとする。
テルミアの人たちにはモフオンであるモフ美が見えない。だからモフ美は安全、の、はずだ。
でも、エノラスは神聖術が使える。アトレンの張った結界の存在にエノラスは気づいた。それならば、モフ美にだって気づいてもおかしくないのかもしれない。
「アトレンってさ」俺は必死で話題を捻りだした。「今何歳なんだろ」
「へっ?」
みのりは目を丸くする。そりゃそうだろうな、ものすごい唐突な話題転換だよな。いぶかしそうに首をかしげたが、彼女は律儀に答えた。
「えっと今は、二十歳……だったかな?」
「みのりの父親ってさ」深く考える余裕がなかった。「こっちにいるんだろ。……会ったのか?」
「……」
みのりは座り直した。
しまった、と俺は思った。
みのりはボストンバッグを引き寄せて、中から、一番はじめの時に見た、キャンプ用のバーナーと鍋のセットを取り出した。
「アトレンが来るまで少し時間がありそうだから、お昼ご飯、食べちゃおっか。ちょっと待ってて、水汲んでくる」
言いおいて、さっさと歩いていった。俺はその後ろ姿を見送り、深々とため息をついた。何やってんだろ、俺。こんな立ち入ったことをあんな軽々しく口にしてしまうなんて、みのりはきっと呆れただろう。怒っただろうか。突然水を汲みに行ったのは、話すつもりはない、ということの意思表示なのだろう、と思う。
でもそんな考えも後ろめたさも押し退ける不安が、執拗に背筋をはい上ってくる。
――みのりも藤沢君も、ほんとバカだよ。こんな簡単な方法があるのに……
俺は身震いをした。モフ美が来ない。一番初め、この森の中でなにもわからなくて右往左往したあのときを思い出した。あれ以来、こっちにいるときはいつもモフ美が一緒だった。あの暖かみが傍らにないだけで、こんな心細くなるなんて。何で今回は来ないんだろう。今どこにいるのだろう。元気でいるのだろうか。
無事でいるだろうか。
みのりが戻ってきた。水の入った鍋をバーナーにセットして、火をつける。しゅごー、と頼もしい音が響く中で、みのりが言った。
「……やっぱ似てた?」
俺は思わず顔を上げる。みのりは俺をまっすぐ見て、にっこり笑った。
「だからね、アトレンには求婚なんかされてないんだよ。ベルトラン伯爵を牽制するために、そういうことにしてくれてるだけ。アトレンは、若い頃のお父さんにそっくり。あたしも、……自分でもお父さんに、似てるって、思う」
――リオニアの王子様がみのりのお母さんに一目惚れして……
「そ……」
「でもこれはね、極秘事項だからね。トップシークレット、だからね。よろしくね」
「……そ」
「ダヴェン王弟殿下は、きっとそれに気づいてる。顔が似てるから……あたしね、いつも、カラコンしてるの。カラーコンタクト。目に悪いとか言われても、しょうがない。青い目って、日本では目立ちすぎるから」
「……」
「カラコン外すと、もうそっくりだよ。あ、この髪は、染めてないんだけど。地の色なんだけどね」
「……そーなんだ」
「そうするとね、あたしには、王位継承権が生じてしまうの。それもダヴェン殿下も、以前のアトレンの順位もすっ飛ばして第一位。でもこっちにほとんどいないから、執務なんて無理だよね。だからもし万一、あたしが王位を継ぐなんて話になったら、執政というか摂政というか、代わって執務をとる人が立てられることになるでしょう。ダヴェン殿下はそれも狙ってるってわけ」
「……」
「そしてその点でも、ダヴェン殿下はアトレンを危険視してる。アトレンは七歳の時に王位継承権を放棄した。それはもうダヴェン殿下のじゃまはしませんって宣言したってことなんだけど……あたしが王位に就いてアトレンがその代理をするってことなら、継承権はいらないし、その脅威は十分あるって思われてる」
「……それってさ。アトレンみたいに放棄すればいい……」いいかけて、みのりの表情を見て、俺は口調を変えた。「……そうできれば苦労はないって?」
「ん、まあね。あたしは……王位継承権のことを抜きにしても、お父さんの子だって、他の人にばれたらまずいの」
「……そーなの」
うへえ、と俺は思う。なんつーヘビーな立場だろう。
俺は長々と息を吐いた。
「なんか……大変ですね、福田さん」
「ふふ。あたしはそうでもないよ。アトレンは大変だなあって、思うけど」
湯が沸いた。みのりはボストンバッグを引き寄せ、ジッパーを開いて俺の前に中身を広げた。おばあさんの心尽くしだろう、アルミホイルでくるまれたおにぎりは六つも入っていた。自家製らしい漬け物と梅干しが添えられている。
「鮭とたらこ、どっちがいい?」
訊ねられて、俺は正直に答えた。
「どっちも」
「だよね」
みのりは笑い、まずアルミホイルがきらきらしているほうをひとつくれた。アルミホイルの裏と表で、中身を判別できるようになっているようだ。
俺も鞄を引き寄せ、中を開いた。缶詰を数個取り出してふたを開ける。それから百円ショップで買った箱に詰めてきたクッキーを出すと、みのりが目を輝かせた。
「それお姉さんが焼いたの? やったー」
信じて疑ってない。このためにわざわざ可愛い箱を選んで中にピンクのナプキンまで敷いてきたのだ。完璧なカモフラージュであるが、……我ながらなんか変な方向に行きかけてる気もする。レジのおばさんの視線がちょっと痛かった。
おにぎりにかぶりつくと、中身はたらこだった。しっとり感が残る程度に焼いてあって、ぽくぽくしてしょっぱくて美味い。モフ美は、と、また考えた。モフオンって何食うんだろう――
ひょこ、とモフオンがみのりの背後に現れた。
一瞬期待した。でも、そのモフオンはモフ美ではあり得なかった。今や瞳に宿る表情だけでそれがわかるようになっていた。その見知らぬモフオンはひくひくと鼻を動かしながらのんびりとこちらへ向かってくる。
もう一頭、こちらはふよふよと宙を漂いながらこちらへ向かってくるのも見える。一番はじめの時、あの滝の裏の洞窟でみのりを見つけたとき、みのりの上にできていたモフオンの山を思い出す。俺の神聖力はモフ美を一頭呼び寄せるだけの弱さだったが、みのりのそれはモフオンをあれほどの量呼び寄せるほどの強さなのだろう。
次々と、というほどではないけれど、それでも一頭また一頭とゆるやかにモフオンが集ってきている。
それなのに、モフ美はこない。
「……何か心配ごと?」
みのりが訊ね、俺はうなずいた。
「アトレンってさ。なんで放棄したの」
「……」
みのりは少しの間俺を見ていたが、ややして軽く息をついた。
「そうしないと殺されるところだったから」
「そういうのってほんとにあるんだな……」
「そう、あたしもそう思った」みのりは苦笑した。「あたしが初めにトリップしたのはそのときだった。あたしは小学生……五年生だった。びっくりしたよ。目が覚めたらリオノスがいて、そこで少し、話をしてたりして……リオノスはお母さんを懐かしがっていたから、お母さんについて話したりしてて。反対にあたしは、リオにお父さんのことを聞いた。ずっと知りたかったから」
だろうな、と思う。でもその相づちを、軽々しく打つことはできなかった。
「そしたらリオが、お父さんが今どうしてるか、ちょっと覗きにいこうかって言ってくれた。喜んでつれていってもらったら……王宮の裏の林で、小さな男の子が、今にも殺されるところだった」
「あ……そっか」
なんか変だな、と思っていたのだ。
「そのときは、アトレンの方が年下だったんだ」
「うん、そう。あたしはひと月に一回ずつだったけど、アトレンにとってはふた月だったり半年だったりして……いつの間にか、追い越されちゃった。お父さんは……国王陛下は、ずいぶん長い間、独身だったんだって。お母さんと一緒にいた頃は、年齢も同じくらいだったんだそうだけど」
「……今いくつ」
みのりは微笑んだ。
囁くような声で、答えた。
「八十二歳」
そのとき初めて、俺は、テルミアと地球の差異を、全く異なる世界なのだと言うことを、痛感した。魔法じみた力だとか、モフオンとかリオノスとか、魔方陣とか呪いとか、生身できたら即死だとか、闇に生きるものへの差別だとか。そういうことも、既に知っていたはずなのに。
生きる世界が違う。そのことが、ちゃんと腑に落ちたような、気がする。
「……生きてるうちに会えて、ラッキーだった」
みのりは笑う。彼女は、今までずっと、その差異について思い知らされ続けてきたのだろうか。
「結構な高齢だし……病とかも……あって。もうあんまり長くない、みたい」
タイムリミットが近いのだ。
なんでだろう、俺は唐突に、そう思った。
みのりもアトレンも、国王の存命という土台の上で、均衡を保ってきた。その土台が崩れたら、均衡も崩れる。あともう、少しで。
ダヴェンが王になったら。アトレンは、みのりは、いったいどうなるのだろう。
「大丈夫なの」
聞くとみのりはわらう。
「大丈夫ですよ」
本当かよ。
その言葉は言えなかった。俺は黙り、みのりも黙った。静寂が落ち、俺は肌寒さに身震いをした。エスラディアの曇り空より、光の国リオニアの晴天の方が寒い気がするのは、季節のせいなんだろうけど。モフ美の暖かみがそばに感じられないせいかもしれないなんて思えてくる。
いつしか、みのりの肩の上にモフオンが一頭乗っていた。頭の上によじ登る奴もいれば、背中にへばりついて鼻だけを肩からのぞかせているのもいた。俺の方にやってくるモフオンも皆無ではなかった。頭の上によじ登ってこようとしたのがいて、俺は丁重に、そいつを頭からおろして膝に乗せた。見た目も重さも、モフ美と全く変わらないのに、それでもそいつは、モフ美ではなかった。
おにぎりはとても美味かった。みのりのくれたカップスープも温かかった。でも。
腹がいっぱいになっても、クッキーを食べても、その味をみのりが誉めてくれても、その肌寒さは一向に薄れてはくれなかった。




