最後の訪問(1)
九月も終わりになると、さすがにもう暑くはない。寒くもなく、晴天が続き、空気が乾いてて気持ちがいい。いつもどこかから運動会の練習か本番かの、音楽やアナウンスが流れてくる、そんな日々だ。
今回の満月の瞬間は正午ちょっと前。現在、午前十一時半過ぎ。俺は福田家の門前で、あの黒猫を撫でている。
黒猫はいつにもまして人なつっこかった。今や俺の膝の上によじ登って、手のひらからキャットフードをにゃむにゃむと食べている。時折顔を上げ、俺の手のひらとか膝とかにグリグリと顔をこすりつけてにゃーと鳴く。なんだろうこいつ、なんだこの可愛いの。食べるのを邪魔してわしゃわしゃしたくなる可愛さだ。こんなに可愛くて大丈夫か。
「あ、いたいた。藤沢くーん」
千絵子の声がして、俺は顔を上げた。千絵子は、一応長袖だが、肩やわき腹からちょこちょこと素肌がのぞく服を着ていた。ミニスカートに膝までのブーツ。波打つ髪はサイドを複雑なやり方で編まれ、目がぱっちりして実際可愛い。以前のような捨て鉢さがなくなって、穏やかな顔をしている。
そしてその隣には、久しぶりの美佳ちゃんだ。
今日平日だよ君たち、何してんの。ってひとのこと言えねーけど。
「藤沢君、みのりん家の前で何してるの?」
美佳ちゃんが不思議そうに訊ね、次いで、ぱっと顔をほころばせた。
「あー、猫!」
美佳ちゃんは猫好きらしい。
「やる? 餌」
「いいの!? ありがとう!」
大喜びで手のひらにキャットフードを受け取り、猫に差し出した。猫は俺の膝の上から首を伸ばしてそのキャットフードを食べた。千絵子はその猫をじっと見ている。
「藤沢君、その猫……」
「あ?」
「……んー」千絵子は眉をしかめた。「まーいっか。悪いものじゃなさそうだし」
「……あ?」
「それよか藤沢君、そろそろ時間じゃない?」
そうなんだよ、時間なんだよ。だから早いところ美佳ちゃんを、どっかにつれてってほしいんだけど。
と、門の奥で玄関が開いた。おばあさんかな、と思ったけど、ややして背後から聞こえたのはみのりの声だった。がしゃん、と俺の背後で門が鳴る。悲鳴じみた声が聞こえる。
「……なにしてんのみんなしてー!」
「あ、みのり。やっほー♪ 見て見て、この子、みのりん家の猫?」
美佳ちゃんがのんびりと訊ね、みのりは何かを抑えるような声で言った。「……違うよみかりん」
「そーなんだ。可愛いねえー。人なつっこくて、ああ、飼いたいなあ、でもなあ、おかーさん猫嫌いだしなあ、ああ、でもなあ、こんなちっちゃくて野良だなんて、大丈夫かなあ。でも結構毛並みいーねえ」
みのりは美佳ちゃんの言葉を聞いていたが、聞いている場合でもないと気づいたのだろう。こちらを見て言った。
「……あの、ねえ、藤沢君、ちいちゃんも……」
「あ、あたしのことは気にしないで? 行かないから」
千絵子が言い、俺はほっとした。まさか行かないだろうと思ってはいたけど、万一ついてくる気だったらどうしようかと思ってた。
「……藤沢君は」
「俺? 俺は準備万端」
「……!」
わなわな震えるみのりにニヤリと笑ってやる。千絵子が笑った。
「わあ、いー笑顔ー。薄々思ってたけど、藤沢君ってけっこSだよね」
「うんまあ、ちょっと楽しい気もする」
「否定しないの? ひえー」
「行くって、どこに行くの?」
美佳ちゃんが訊ね、千絵子はあっけらかんと答えた。
「いーところ。今度詳しく話すよ。みのりってば意地っ張りだからあ、ついてきてって言えないんだよね」
「ちーちゃん!」
「……あれえ」美佳ちゃんが笑った。「みのりとちいちゃん、仲直りしたんだね」
やはり先日までの千絵子の刺々しさが気になっていたのだろう。ほころんだ笑顔には美佳ちゃんの人柄がにじんでいる。
千絵子はうんうん、と頷いた。
「そーなのよー。いやあたしね、みのりと藤沢君がつきあってるんだって勘違いしちゃって」
みのりが後ずさった。「ちーちゃん!?」
「でも誤解だったんだ。あたし、藤沢君に告白してこないだ振られたの」
「ち、ちーちゃんん!?」
「だからさっぱりした。ごめんねえみのり、誤解して勝手につんけんして……ホントごめん。許して。このとおり!」
パン! と両手をあわせて勢いよく頭を下げる。軽いノリだったが、それが、心底からの仲直りの申し出だと言うことは、そのうつむけた必死の顔を見ればよくわかる。みのりにもわかったらしい。戸惑ったような、困ったような、でもどこか嬉しそうな、複雑な顔をして唇を引き結んだ。唇が小刻みに震えるのが見えた。
みのりが答える前に、美佳ちゃんが叫んだ。
「ちーちゃん! そっか……そーだったのか! つらかったんだねえ、ちーちゃん」
「そーなの。でももういーの、フられて、すっきりしたんだ。あ、誤解しないで? あわよくば、なんて気持ちじゃなかったんだよ、絶対脈がないってわかってたもん。でも言ってすっきりしたかったんだ。ごめんねみかりん、心配かけたね!」
「いーのよちーちゃん! オレとオマエの仲じゃないか!」
「みのり、ほんとごめん。その……すぐに全部許してもらおうなんて、思ってないの。でも。帰ってきたら、……三人でパフェでも、食べに行かない?」
千絵子が言い、みのりはうなずく。泣き出しそうな顔で。美佳ちゃんの前で諍いの原因と経緯を話し、和解の儀式も今済んだ。仲良し三人組はこれでもとどおり、というわけだ。めでたしめでたし。そして体よく原因にされた俺はその輪の外で間抜け面してる。この釈然としない気持ちをどうしてくれよう。
「でも今は、とにかく急ぐんだよね、みのり」
千絵子が促し、みのりは我に返ったようだ。時計を見、「うわっ」と声を上げ、俺を見、千絵子と美佳ちゃんに視線を向ける。
「ごめん、ちょっと出かけるんだ。また今度ね!」
「んー。帰ってきたら連絡して?」
千絵子がひらひら手を振る。美佳ちゃんも「いってらっしゃーい」と笑顔だ。みのりは手を振って、きびすを返す。部屋に戻るんだろうな。ならここにいても大丈夫だろうか。しかし美佳ちゃんの目の前でぶっ倒れるわけにはいかないが、俺が黙ってみのりの後を追ったら、美佳ちゃんはいったいどう思うのだろう。玄関の扉が閉まりかけ、その向こうで、靴を脱いだみのりがちょっと身を屈めたのが見える。
千絵子が言った。
「あ、靴持った。あれはたぶん、裏口から出るね。ちょっと先に小さな公園があって、そこの滑り台の下に隠れ場所が」
ばたん、と玄関が閉まる。あぶね、撒かれるとこだった。
「藤沢君、自転車でしょ? あっちから回った方が早いよ」
「おーサンキュ。助かるわマジで」
「もういっこ」
自転車に乗りかけた俺を、千絵子が呼び止めた。千絵子は黒猫を抱き上げ、まじめな顔をしていった。
「赤毛のアンが彼を逃がしてくれたんだって」
「――へ」
「急ぎなって」千絵子は手を振った。「みのりを頼むね、藤沢君」
――赤毛のアン。
と聞いて思い浮かべる相手はひとりだ。エレナちゃん。
彼を逃がしてくれた……彼って、とか考えながら俺は、今はとりあえず必死で自転車をこいだ。角を曲がると、――本当にいた。ショルダーバッグとボストンバッグを抱えて、急いで走っている。自転車の音に気づいたか、振り返り、
「ふ、藤沢君……っ!」
福田家の裏口から、おばあさんが顔を見せていた。俺を見て、ほっとしたように微笑んだ。俺は頭を下げ、みのりに追いついた。
「あと一分もねーぞ。どっちにすんの」
「藤沢君のばかあああああああああああっ!」
叫んで、みのりは引き返した。俺は自転車を乗り捨て、その後に続いた。まさか道の真ん中に乗り捨てるとは思わなかったのか、家に駆け込もうとしたみのりがせっぱ詰まった声を上げる。
「ふ、藤沢君! 今日は平日だよね!? 学校は……」
「親父のお供で数日出張旅行って届けだしてきた」
「今までは運が良かっただけだよ! 一週間とか行方不明になったらどーすんの!? 家族の人が心配、」
「は?」
福田家の敷地に戻ったところで、がくん、と視界がずれた。おー、今回も行けた。口が消える前にと、俺はおばあさんに言った。
「すみません、ほんとに申し訳ないんですけど、自転車、また回収しといてもらえませんか」
「藤沢君!!」
「親はとっくに知ってるよ。当たり前だろ。出張旅行の届けだって直筆で書いてもらった。二回目帰ってきて、次の家族会議で話したよ」
「は、話したの!? 信じ」
「見聞を広めて来」
身長の分、タイムラグがあった。目が消える寸前に、みのりのおばあさんが、おかしくてたまらないと言うように笑いをこらえているのが見えた。なにがおかしかったんだろう。さっぱりわからなかった。
*
そう、今日は平日なのだ。
千絵子はわざわざ学校をサボり、美佳ちゃんにもサボらせて、みのりと仲直りするところを見せるためにつれてきたのだろうか。ひと月あったのだ、休みの都合のいい日は他にもあったはずなのに、どうしてわざわざ今日を選んだのだろう。
俺にエレナちゃんのことを警告するためもあったのかも知れないが、それにしたって。
――後で詳しく話すよ。
千絵子は確かに、さっき美佳ちゃんにそう言っていた。
それはつまり、みのりと一緒に、トリップのこと全部美佳ちゃんに話すと、そういう意味になるのだろうか。
トリップ現場のすぐ近くにまでつれてきて、仲直りも美佳ちゃんの前を選んだ。
それは、美佳ちゃんをとても、尊重すると言うことなのかも知れない。
――女の子はね、契約を交わすんだよ……
あれは本心だったのか? どうなのか、もうよくわかんねーけど、でも。学校サボったことが美佳ちゃんに、それほど不利益にならないといいな、と思う。
 




