三度目の訪問(6)
『藤沢君ってさ――』
段の下の暗がりから、千絵子の声が響く。
俺は構わず上に上がっていった。何度か千絵子が闇から出てくるのを見るうち、わかってきた。小さな闇しかなければ、やはりそこから出てくるのに時間がかかるのだ。前足だけ伸ばして爪を引っかけようとしてくるのにさえ気をつければ、階段の下の暗がり程度なら、出てくるのに数秒はかかる。
『なんで息が切れないのぉ――? ちょっと休憩しようよぉ――』
小さな穴に向かって吹き込むような間延びした声が、遠ざかっては、またすぐ足下で聞こえてくる。切れないわけがないだろ。つか、みっともなく喘いでんのが聞こえてるだろーが。嬲ってんのか、って、聞くまでもなくそのとおりだろうよ、くそ。
『さっきさあ――なんかあ――リオノスの神聖術が城の中に発動したみたいなんだけどぉ――、藤沢君、なんか、知らないぃ――?』
「知るかよ!」
高さは三階くらいだろうか、その踊り場から少し離れた場所に小さな露台が張り出している。上から兵士が降りてくるので、俺は手すりを乗り越えた。『ちょっ』千絵子が上げた驚きの声を背に、俺は飛んだ。
かろうじて、露台に両手が引っかかった。
指先を起点に、足を一番奥まで振り入れ、戻ってくる反動を利用して上に一回転。巧くいった。露台の上に前転の体勢で転げ込み、跳ね起きてそのまま走る。露台の下には大きな暗がりがあり、そこから千絵子が躍り出た。がっと巨大な爪が露台を抉り、俺はそれを置き去りにして走る。
『藤沢君って』露台の上によじ登り、千絵子が嗤った。『馬鹿なんじゃない? こっち逃げてどうすんの? 出口はあっちですよー、こっちは城の真ん中ですよー?』
しょーがねーだろーがどーしろってんだこのバカ!
頭の中だけで怒鳴ったとき、俺は、――モフ美が飛んできたのを見た。止めるまもなく俺の頭の上に舞い降りてくる。
(ふじさわ!)
しょうがない。俺はモフ美をひっつかんで腕の中に抱え込み、手近な窓に飛び込んだ。暗い。
「明かりつけて!」
(りょうかい!)
輝く光の玉が、部屋の真ん中に出現した。たぶん寝室、だろう。配置をざっと見て取りながら、俺は正面に見える扉に走った。ばん、と蹴り開ける。輝く光の玉はそのまま俺をついてきた。廊下にいた兵士たちが狼狽の声を上げて下がったところを走り抜ける。光の外は暗い。こいつらほんとにこんな中で見えるんだろうか。
たぶんここは、内装からして、かなり身分の高い人間のための建物のようだ。詰めている兵士の数も外の比ではなく、暗闇の中に暗紅色の双つの目が瞬いているのは異様な光景だ。
でも、俺にとってはいいことでもあった。暗紅色の瞳を持つ者たちは、闇の中で視力が効く代わり、光がかなり苦手のようだ。俺の後からついてくるまばゆい光の玉を見るだけで悲鳴を上げて後ずさるのだ。ありがたく俺は開いた空隙を少し走った。廊下を突き当たり、とりあえず右手に。
(少し先に階段。降りて)
モフ美ナビは城内でも有効らしい。ありがたい。
そして、
(ふじさわ……)
モフ美と同時に、その香りに気づいた。廊下の先から、漂ってくる。
俺は。
心底申し訳ないと思いながら、階段を無視してその香りの方へ走った。
(ふじさわ!?)
モフ美の悲鳴。だよな、ホントそうだよな。悪いなあ、と思いながらも止まらない。そっちにしか逃げられなかったのだと、モフ美が思ってくれないかなと情けないことを思う。
(そっちじゃないよ……!)
わかってる、ごめん。
正面の扉だ。そこに立っている兵士は輝く光の玉を見ても逃げる気配がない。俺は後をついてくる光の玉をひっつかみ、そいつらに向かって投げつけた。彼らは悲鳴を上げて顔を覆い、俺はその間をすり抜けて、扉に取り付く。開くと、――中にエノラスがいた。
礼拝堂だ。と思う。
エノラスは闇色のローブに身をまとい、儀式の最中だったのだろう、瞳は紅色に輝いていた。先手必勝だ。こいつが少々とろいのはわかっている。俺が「うりゃあああああー!」大声と共に飛びかかるとエノラスは杖を掲げながら大きく下がる。「フジサワ……!」悲鳴じみた声。俺が杖をつかんだとき、モフ美が光の玉を再び出現させた。
「ウリヘツォト……!」
俺は杖を奪い取った。今なんて言ったんだろう、と思いながら。
目にしみるほどの腐臭が俺を包んだ。杖にひとつ、そして、祭壇の上にもうひとつが奉られているのが見えた。起きあがろうとしたエノラスを、肩を踏み抜くようにして踏み越え、祭壇に飛びつく。もうひとつのモフオンの死骸を抱え込むと、それだけで、目眩を感じた。臭いからだろうか。いや、明かりを出すのが二回目だから、力を結構使っちまったのかもしれない。
「藤沢君」
部屋の隅で、千絵子の声がする。狭い礼拝堂の隅にビロードばりの長椅子があり、そこに千絵子の身体が寝ていたようだ。魔獣と感覚を共有するのを止めた千絵子は、自分の身体に戻って、今起きあがったところだろう。眩しげに目を眇めた。
美人だな、と、こんな時なのに考えた。
こいつこんな美人だったっけ。暗紅色の瞳がとろとろと光ってて、妖艶、という表現がふさわしい美貌。出来ればお近づきになりたくないタイプの――唇がぽってりとしていて、そこからちろりとのぞく舌までまろやかで。甘い、こ惑的な味がしそうだ。
着ているのは先ほどまでと同じ、キャミソールとホットパンツなのに。別の人間みたいだ。
「う――動く、な、よ」
みっともなくぜいぜい言いながら、俺は言った。
「これ、燃やす、くらいは、出来る、からさ」
腕の中の、腐臭を放つモフオンふたつは、毛皮越しにも中身が腐ってずぶずぶになっているのが感じられる。モフ美は俺の頭の上で、同胞のその無惨な姿を見ている。
なのに光を消さないし、俺を見捨てもしない。俺はたぶん、それが初めからわかってた。でもこっちに走った。言い訳しようもない。
でも。
「藤沢君って……」千絵子は苦笑したようだ。「お坊ちゃまのくせに、けっこやるじゃん? んでも、これからどうするわけ? たった一匹の使い魔しか持てないくせに」
礼拝堂の入り口から、魔獣が姿を見せていた。金色の瞳が嬉しげに俺を見ている。
「久しぶりの、再会だってのに、ずいぶん、こき、使われてんだな、お前」
せめて呼吸くらいは整えようと、時間を稼ぐことにする。千絵子は―― 一瞬、押し黙った。むうっと唇を尖らせたのを見て、俺は、あれ、と思った。もしかして図星だったかも。
「そのでっかい、獣、だって、さ。お前が呼んだんだ、ろ」
「……今は戦争中だもん。エノラスは、王様なんだからね。いくらあたしを選んだって言っても、久しぶりだって言っても、寵姫に溺れて道を誤るような馬鹿な王様じゃないんですぅー」
「――――」
エノラスが何か言い、千絵子はふう、と息をついた。
「ごめん、エノラス。……で? 藤沢君、これからどうするつもり? 藤沢君には使えないよ、それ」
わかってる。
「でもこれ、ないと困るんだろ。俺にだって使い魔はいる。下手なことしたら、燃やすから」
「それはさっき聞いたよ。何か要求するつもり? うまくいくわけないじゃん」
わかってるよ。
「ここから無事に外に出られたら、返す」
言うと、千絵子が嗤う。嘲るように俺を見ながら、エノラスに通訳しようと口を開く。わかってるよ、こんな願いを言ったって、うまくいくわけがないってことくらい。千絵子の意識が俺から逸れた空隙に、俺は、モフ美に囁いた。
「悪い、移動させて。――出来るだけ遠くまで」
もうこれは、賭だった。俺の力がどの程度まで保つか、ということの。
モフ美は何も言わなかった。返事の代わりに視界が揺れた。……同時に、俺の中からかなりの量の何かが吸い出されるのを確かに感じた。目眩が襲ってきて反射的に身体を丸める。どこまでも落ちる。まるで奈落にでもはまっちまったみたいに。
ああやっぱ、分の悪い賭だったかもしんない。
*
どんより曇った空に、閃光が散った。
俺は空に浮かんでいる自分に気づいた。あの巨大な城の上の部分が視界の隅に見えるから、やはりそれほど移動できたわけではないらしい。
視界は中空に向けて固定されていた。自分の意志で周囲を見回すことができないから、またモフ美と感覚を共有しているのだろうか。つーか俺の体どこにあんだろ。まさかどっかで大の字になって寝てたりしないだろうな。と思う間に、モフ美が少し下に視線を移した。城壁の上に、黒いものが見える。千絵子だ。
あの巨大な黒い獣がそこにいた。千絵子はその背の上で、凄惨な笑みを浮かべて城壁の外を見ている。真っ黒な棒状のものを腰につけているが、あれは剣だろうか。
「みーのりちゃん」
歌うように、千絵子がつぶやくのがなぜだかはっきり聞こえた。
「あっそび、ましょ」
獣が、地面に転がされていた何かをくわえて持ち上げた。ロープでぐるぐるに縛られた、――人だ。
げ、と俺は思った。黒い髪を短く切った、痩せ型の若い男だ。エスラディアの人たちもリオニアと同じく肌が白い人間が主のようだったが、ロープで縛られたこの男の肌は俺と同じような――早い話が、黄色人種の肌だ。ま、まさか、俺の体じゃないよな? 大丈夫だよな?
持ち上げられた若い男はぐったりしている。でも死んでいるわけではないらしい。よくよく目を凝らし、俺は少し安堵した。俺の体じゃない、ようだ。でも、みのりの距離ならだますのは簡単だろう。魔獣は乱暴な動きでそのぐるぐる巻きを城壁の上に投げ出した。――と。
「ほーら来た」
舌なめずりするような千絵子の声と共に、千絵子の正面の中空に、輝ける何かが浮かび上がった。
(リオノスだ)
モフ美が言った。――あれが。
ここからだと結構遠いけど、目を凝らすとくっきり見えた。翼を広げた、神々しいまでに美しい獣は、やはり柔らかそうな、手触りの良さそうな、蜂蜜色の毛皮をしていた。少し濃い色の、ふさふさの鬣の向こうに、みのりの小さな顔が見える。ポニーテールがなびいている。手にしているのは、白銀の剣だ。
やっぱ専用の武器あるんじゃねえかよ。
余りに神々しくて、勇者と言うよりは、やはり神の子と呼ぶのがふさわしいように思えた。よく隣の席でバカ話をしている相手だなんてとうてい思えない。瞳の色まで違った。アトレンと同じ、静謐に澄んだ深い水の淵のような色だ。
その目が、つり上がっていた。
――みのりが暴走する前にふじさわを……
モフ美が言っていた言葉が急に胸に迫る。やばい。やばい。やばいよ、あれ。マジで怒ってるよマジで。俺のことだけでああなるとは思えない、きっと以前の対峙でもいろいろやられてて、ついに堪忍袋の尾が切れたのだろう。でも騙されんなー! そこでぐるぐる巻きにされてんのは俺じゃねーぞー!
(聞こえないよ、ふじさわ)
モフ美に冷静なつっこみを食らううちにも、みのりを乗せたリオノスは城壁へ近づいてくる――と、
再び閃光が走った。
次いで、空が割れた。
どんより曇った空の割れ目から稲妻がほとばしり、千絵子のすぐそばへ突き刺さった。耳をつんざく轟音、崩れ落ちる城壁、飛びのく魔獣(背に千絵子)。なんて派手な、つーか、ぐるぐる巻きの哀れな誰かが衝撃で下に落ちたぞ! おーいそれってどうなの!
「……みのり、ついにトチ狂った?」
千絵子がつぶやいた。小さいはずのその声も、みのりの声も、なぜか耳に届く。
「いくらちいちゃんでも、もう許さない」
軋るような声だった。
「藤沢君をどうしたの。どこにつれてったの」
「あはっ、やっぱばればれだった?」
「当然でしょ。見ればわかる」
見えたのかよ。どんな目してんだあいつ。
「愛の力だねえ」
千絵子がからかうが、みのりは意にも介さなかった。もう一度空に閃光が走り、稲妻が落ちた。今度は背後の城にだった。モフ美が振り返り、轟音と共に、巨大な城の一角が崩れかけるのが見えた。悲鳴と怒号が遠くに聞こえる。
「やだ、気をつけなよみのり。藤沢君、あの城の中にいるんだよ? 今ので、瓦礫の下敷きになったかもよ?」
千絵子が言い、みのりは微笑んだ。
「うそつき」
「……う、嘘じゃないよ! ほんとだよ!?」
「今のちいちゃんの言うことなんか、もう信じない」
千絵子が一瞬押し黙った。目が、泳いだ。信じられないことを聞いた、というように。
みのりは冷たい声で続けた。
「藤沢君を返して。今すぐ。そうしないとお城をどんどん崩してやる。もう許さない。もうなにも聞かない。ちいちゃんがあたしを嫌うのも、気持ち悪いと思うのも、エノラスの味方してあたしのこと殺そうとするのもしょうがないけど、でも藤沢君巻き込んだのだけは絶対許さない!」
「と、友達より男が大事ってわけ? みのりもやっぱそういう――」
「ちいちゃんには言われたくないよ!」
そりゃそうだ。
もうひとつ稲妻が走った。が、黒く輝く半球状のものがそれを阻んだ。稲光は半球の上でぎちぎち鳴って、半球もろとも爆発して霧散した。と、同時に黒い砲弾のようなものが、リオノスに向かって放たれた。リオノスは避けたが、間をおかず魔獣が単体でリオノスに襲いかかった。
魔獣とリオノスが噛み合う寸前に、みのりがリオノスの背から飛び降りた。城壁の上に難なく着地、そこへ千絵子が切りかかった。みのりはかろうじて白銀の剣で受けたが、体勢が悪い。千絵子が死角から蹴りを入れ、みのりが吹っ飛んだ。
「あはは!」千絵子が嘲った。「許さないって? 城を崩すって? でっかいこと言いやがって、やってみなよ、ほらあっ!」
「……っ!」
千絵子が黒い砲弾をみのりに放った。城壁に炸裂して、みのりが粉塵の中に見えなくなった。千絵子の甲高い笑い声が響く。
「あんたの使い魔はリオノスだけ! ばあああああっかじゃないの、リオノスがいなきゃ何にもできないくせに――使い魔を大事に生かしてるあんたなんか、ただの人間と変わらないじゃん! そこらのモフオン捕まえて契約して殺せば簡単なのに、あんたも藤沢君も、ほんっとバカだよ」
て――
(ふじさわ、ごめんね、言ってなくて)
モフ美が囁いてきた。悲しそうな声で。
(モフ美が死んだら、ふじさわは、モフ美の力を自由に使えるようになるんだよ。力も増える。もう、力の残りを気にしなくても、よくなる。ふじさわ、今、力いるよね? モフ美……)
ば――
「――ばっかやろおおおおおっ!」
叫んで、俺ははね起きた。とたんにバランスを崩して、倒れる。頭をぶつける。壁の角だった。激痛。
「……痛ええ!」
「大丈夫でござるか」
涼やかな声が、聞こえる。




